なんで山登らへんの 最終回 1997.3.1
体験的やまイズムのすすめ
ぼくはいま、岐阜と長野の県境にある御嶽山のスキー場に来ています。
昨年の暮れ、例によってニセコの初滑りに出かけ、あまりの快調さに悦に入っていました。
新年会で「新雪が最高だった」としゃべったら、みんなが「いこう」「いきましょう」と一気に盛り上がったのでした。
宴会は、昼過ぎの祗園のとり鍋で始まりました。夕方の二次会は伏見の寿司屋に移りました。夜半近くの三次会は京都駅近くのホテルのバーで、人数は15人ほどになっていました。このときになって、スキーの話が再燃したのです。2月に入らないと休みが取れないという者と、それまで待てないとする人がいて意見が割れています。
「どっちも計画して、行けるもんが行ったらええやんケ」
と、ぼくがいったので、そういうことになったようでした。
教え子で市会議員のカメさんが、「2月なら信州の別荘が借りられる」といい、場所は自動的に決まりました。八方か五竜遠見スキー場で滑ることになります。
1月の方をトッツァンに頼まれたぼくは、インターネットを見て回り、八方より近場で雪質が良く、新雪も楽しめそうなこのスキー場を探し出したという次第なのです。
ぼくがインターネットから打ち出した宿のリストを片手に、トッツァンは順番に電話して訊いています。
「あのう、盲導犬は連れてゆけますか」
盲導犬が許されるなら、もしかしたらビータスも同伴できるかも知れないとぼくがいったからです。結果は、全て駄目だったようです。答えの中には「身障者は困ります」というようなのもあったそうです。
シノやんは「それは、問題ですよ」といい、ぼくは「天下のJRでさえ、車椅子の乗客を一切考えず、マニュアルもないそうだから、この片田舎ではなあ」と撫然とした気分で、〈MAC POWER〉1月号の記事を思い出していました。
あるデザイナーで車椅子の大学教授が20年ぶりにJR新幹線で名古屋-東京を往復したときのとんでもない経験を綴っていました。
スタッフたちが、「車椅子で新幹線に乗る方法」を問い合わせ、準備しておいたにもかかわらず、改札口で「ここでは車椅子のお客は受け付けない」といわれる。そして、ホームに案内されたのは、予定列車の2本あとだった。東京駅で表に出るには、荷物やごみを運ぶための煉瓦づくりの地下道を延々通らねばならなかった。
そこは終戦直後の記録映画で見た場所で、この20年間、車椅子の乗客に対する対応がなにも変わっていないことが分かったそうです。
*
ぼくたち8人の泊まっている旅館は、標高1000m以上の、ゲレンデの中といってもよい場所にあります。ここは夏には御嶽宗教登山の宿坊になる宿のようです。
客扱いが良いのは、長い年月を経た伝統みたいなものだと思われます。立山の麓、芦峅の人たちにもそれを感じるし、昨年に初めていった草津温泉スキー場でも、同じ様な感じを持ちました。
今度のこのスキー場では、ボーダーに検定を行ってスキーとボードの安全な共存を図っています。初級・中級などと認定証をもらう。
朝には、セットされたポールをスラロームして、技術の認定がされます。ボーダーの検定エリアには、座り込んで発走の順番を待つボーダーの列ができていました。
トオルの末娘で小学校3年のリカちゃんはボードをやりたいとは思わないそうです。
これはきっと、彼女のおとうさんがやらないからだろうと想像しました。
始まって間もないボードには、おとうさんおかあさんボーダーは少ないようですが、そのうちにちびっ子ボーダーも出現するのではないでしょうか。
「中級者のみ」と指定された斜面を滑るボーダーは大きな弧を描いてすっ飛んで行きます。「ジャンプ禁止」と書いた横断幕のある大きな段差では、そんな警告もなんのその、平気でジャンプしたり、あるいははね上がり空中で360度回転をするボーダーも多い。
でも、これまで何度も、「滑走禁止」とかいてある斜面を滑っては、パトロールとやり合った経験のあるぼくとしては、眉をひそめたりはしません。
「滑走禁止」の急斜面で、その時雪崩が出るかどうかぐらいは、自分で分かる。あるいは「滑走禁止」のその切り開きは、リフトが付くまでは、ぼくたちの登降ルートで何度となくスキーを着けて、登り下りしていました。
その頃まだ生まれてなかったような年頃のパトロール隊員に、頭ごなしにやられると、つい言い返したくなってしまうのが常でした。
最近では、あのウェーデルンというあまりおおらかでない滑りを見かけることが少なくなってきました。これもボードの影響かも知れません。ボードはそんなチマチマした滑りは得意ではないように見えます。
こういう具合に、ぼくはボードを感覚的には好ましく感じるのですが、自分でやる気にはなりません。それはきっと、ボードはスキーに較べて、身体的に不自然な運動で年寄りにはきつすぎると思えるからです。
歩くように、走るように滑るスキーより、はるかに全身的な動きと大きな調整運動が必要で、それだけ大きなエネルギーが必要だと思えるからです。ヨットに対してウインドサーフィンが若者の独占物だったように、ボードも若者だけのものなのかもしれません。
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今年になって、新しいタイプのスキーが現れました。サイドカーブが大きくえぐれており、トップ部がコブラの頭のように広いスキーでカービングターンスキーといいます。ぼくが思うには、これも明らかにボードの影響でしょう。楽にエッジで切るターンが出来るといううたい文句です。
ボードの場合、とくにバーンでは、エッジで切って行くターンしかできないようです。
スキーでも、「加速ターン」がいわれ、6、7年前から「カービングターン」が先端とされていました。
いずれも、エッジで切って回る横ずれのない回転を意味していました。
今日は、ショートスキーの時代に入りつつあるようで、先のコブラスキーもあまり長くありません。
スキーの長さは、歴史的に長いと短いの単振動を繰り返しており、業界はそうした変遷を望んでいるとぼくは独断的に見ています。
ぼくの説では、身長プラス25cmが標準で、これは最初から変わらない考えです。ちなみにぼくが今はいているスキーは、身長プラス30cmの2メートル5センチです。
長いほうが高速でも安定しているのは当然で、回転に関してもエッジのサイドカープによって回る限り、長さはあまり関係がない。
業界は、でも短い方が有り難いのではないだろうか。そのほうがコンテナにも沢山はいるし、倉庫料も安上がりだからというのが、ぼくの偏見です。
ぼくが、高速カービングターンを会得したのは、教師を辞める2年ほど前のことだったと思います。当時それが出来る人はまだ少なかったような技術でした。
その年の冬、戸狩スキー場のスキー研修旅行に、ぼくは付き添いで同行したのです。
担任のないぼくは、「どうぞご自由に滑っていて下さい」といわれたのを良いことに、連日一人でぶっ飛ばして楽しんでいたのです。
そんなある日の午後、まだ若い戸狩スキー学校の校長が、「先生、一緒に滑るかい」と声を掛けてくれたのでした。
彼は「おらも、もともとは山スキーせえ」といい、後立山によく登ったと、リフトで運ばれながら話しました。
戸狩スキー場は、一本目のリフトを降りて、リフト沿いに短い急斜面を降りると、大きく拡がったコンケーブな(凹状の)大スロープの上に出ます。
そこに立って、彼はこういいました。
「楽に立って。ふわーつと前に立ち上がる感じで交互に板を踏みつけるんです。いいですか。付いてきて」
そして、そのまま、さっと真下に向かいました。怖ろしいほどのスピードでした。ぼくは必死で後を追ったのです。不思議なことに、脚にはあまり負担は来なくて、まるで空中を浮遊しているような感じでした。
やがてふかい回転弧の回転が始まり、身体が雪面に押しつけられるようになって減速して、止まりました。
ぼくは、かなり緊張したせいか、ぼけーっとして、呆然と立っていました。
「先生。いまのがカービングターンだよ」
ぼくが会得したことといえば、ちょうど枯れ葉になったつもりで、舞い落ちて行くということでした。
スキーの弟子のトッツァンによれば、ぼくのスキーは、このシーズンから大きく変わったのだそうです。
本当の話、それから何年かして教え子の京ちゃんは「センセ、木の葉が舞うみたいに滑らはる」と評し、ぼくを驚かせたのでした。
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レストハウスで昼食を取っていると、おねえさんがスキー場のアンケート調査の依頼にやってきました。
質問の一つに、あなたのスキー歴(ボード歴)という項がありました。
「ワシ何年スキーやってんのやろ」
すかさずトオルが、「40年ですやろ」といいました。
40年。ここにいる8人のうち5人はぼくがスキーを履いたときには、まだ生まれていなかった。昨日お風呂に入ったとき、トオルの中一の次男で、少年サッカークラブのリーダーをやっているツヨシが、「背中流しましょうか」といいました。
教え子の息子に背中を流してもらう歳になったのかという、あの時の何とも複雑な気持ちが今また再現した感じで、ぼくは黙って窓ガラスの外の舞い踊る雪を見つめていたのでした。
『なんで山登るねん』の第二話「初めてのスキー 私は鳥になった」で書いたように、ぼくが初めてスキーをはいたのは、大学の最初の合宿の時で、場所は八方尾根でした。
大学を卒業して、山岳部の監督になったとき、ぼくは考えました。山岳部でもちゃんとしたスキーを練習しないといけない。
その頃の山登りの先輩達は、ゲレンデスキーヤーをバカにするだけではなく、ゲレンデスキー技術も無視し、とんでもない我流スキーを教えていたようなのです。
八方尾根の麓、四谷集落(今の白馬)の大学の定宿の「白馬館」のおばあちゃんに、講師の斡旋を頼むことにしました。
「ジュンシ(準指導員)の資格しか持ってねえけど、親切だという評判の人が飯森にいるだ」
当日、ゴム長のおじさんが、カブにスキーをくくりつけ、雪道を走って現れました。その年はひどく雪不足で、スキーをするには、黒菱ゲレンデまでリフトで登らねばなりませんでした。
「皆さん、山岳部だで平気ずら。歩いて登りまっしょ」
そういうと、ひょいとスキーを肩にすたすたと登って行き、あとに続く部員達はひーひーと顎を出してしまったのでした。
スキーのレッスンで、われわれ生徒たちが一番苦労したのは、斜滑降からの山回りターンでした。
だいたい履いている靴は、足が中で踊るような山靴でした。これをスキー板に固定する締め具といえば、カンダハーと呼ばれる極めて不完全な締め具でした。そんなもので微妙にテールを押し出すなんて事はどだい無理な相談だったのです。
でも久八先生は真剣で、本当に困った顔をして、「どうして出来ないのかなあ。おらの教え方が悪いのかなあ」と考え込みます。生徒たちは、なんだか申し訳ないような気分になったのでした。
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久八先生は、翌年結婚し、家を新築して「上手館」という民宿を始めます。以後約10年間、ここがぼくたちの定宿になり、久八さんはぼくのスキーの師匠になったのでした。
10年ほどが過ぎて、ぼくの定宿は、みそらの別荘団地の「きざき山荘」に変わりました。そこはぼくが顧問をしていた高校山岳部の生徒の親の別荘で、ぼくはこの山荘を我が物顔に使い、次の10年が過ぎたのです。
久八さんは、もうスキー学校の校長になっており、ぼくをスタッフに育てようとしたようなのですが、不肖の弟子のぼくはそうはなりませんでした。
その頃は、オーストリアスキーが全盛で、ゲレンデ中がまるで判で押したようなフォームのスキーをしていました。クルッケンハウザー教授率いるオーストリアスキーは、それなりの実績と迫力もあったようです。
ヨーロッパでの没落国が、かつての栄光を唱えられるのは「スキー教程」だけだったのかも知れないし、それはまた外貨獲得の国是だったのかもしれません。
でも、ぼくはあのまるでナチズムの再来のようなスキーはどうも虫が好きませんでした。
そこでぼくは、厚かましくも、自分流のスキーをしようと考えたのでした。そしてぼくが選んだテキストは、ジョルジュ・ジュベール『革新フランススキー術』という本でした。
この本は、ぼくのバイブルとなりました。その頃のぼくは、リフトに乗っても絶対ゲレンデを見ず、目を閉じて自分の滑りをイメージし続けていました。
ジョルジュ・ジュベールが、もっとも革新的としていたターンは、「ジェットターン」と名付けられたもので、後の「加速ターン」に準ずるものといっても良いでしょう。
その頃、日本スキー連盟は独自性への自意識のあまり「曲進系」と名付けたへんてこな教程を発表しました。この技術は、ぼくの偏見によれば、オーストリアが作ったアバルマンと呼ばれる巨大なこぷの斜面を滑るための技術を、平らでゆるやかな斜面用にそのまま焼き直したようなものでした。
このへんてこに腰を落とした変なスキー技術がもてはやされていた一時期に、ぼくが「ジェットターン」の追求に明け暮れていたのは、まことに幸せという他はありません。この技術を身につけた人は、誰でもがその悪癖を取り去るのに数年は掛かったそうですから。
『革新フランススキー術』の影響で、ぼくはポールくぐりもやり始めました。何度も学校を休んでは京都の近くの草レースにも出かけたものでした。
ちょうどその頃のある春の夕方、久八先生が、「きざき山荘」を訪れました。
「あすの親子スキー大会にでねえか」というのです。親子スキーといっても、レクリエーションではねえ。親がばりばりの馬力のある場合は子どもが幼い。親が年でよぼついてくる時には、子どもが県代表だったりする。両方の合計タイムは、見事にハンディを平滑化し、「だからみんな目ぇ血走らせるんせぇ」。
ぼくは、小学一年の息子と組んで出場し、4位でした。5位までの入賞で地元でないのはぼくたちだけでしたから、まずは成功だと思えました。1位は久八先生親子でした。
この時に2位になった白河親子組で幼稚園の白河三枝は後の日本ナショナルチーム選手です。「上手館」も、今年30周年記念を迎えるそうで、3月の「30周年記念スキー大会」の案内が来ました。
素早く、矢のようにポールを駆け抜けるには、ぼくは少なくとも20kgの減量をせねばならず、これはちょっと無理だなあという気がしています。
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ぼくが、35歳でバイクに乗り始め、そして乗り続けた理由の一つは、まぎれもなくスキーのトレーニングでした。
この歳になっても、スピードに対する恐怖がほとんどなく、ゲレンデでとばせるのは、間違いなくバイクに乗っているからだと思います。
スピードだけではなく、ターンに関してもバイクとスキーはよく似ています。
バイクで荒いきっかけでターンに入る奴は、スキーでもあまりなめらかな滑りは出来ない。スキーでなめらかに滑る人は、バイクも安定した安全な走行をするようです。
だからバイクで問題のあるそういう人には、「おまえ、もっとスキーに行かんとあかん」ということにしています。
スキーでも、バイクでも、その技術に関して、講釈のしたがり屋や教えたがり屋がいますが、ぼくはそういう人はあんまり好きじゃない。バイクは、基本的にはフィーリングが大切で、そんな細かな講釈は要らないと思っています。テクニックは自分で学びとり、人から盗み取るものだと思うのです。
スキーも同様で、多くの説明を聞いて全部分かったとしても、分かることと出来ることとは別のことです。
最高のスキー教師は雪の斜面です。あるスキーの技術を教えるための要諦はその技術をどうしても使わねばならない場面、場所、コースに誘導することだと思うのです。
スキーもバイクも大切なことは、フリーなフィーリングとリズムだと思っています。
でもよく考えてみると、ぼくの場合、スキーもバイクもそのべースには山がある。基本的な考え方、判断のプロトタイプは間違いもなく山なのでした。
山登りは全てを包括し、全てに影響を与えるような、ほかに較べるもののないような大きな分野のようです。
マカルーという8000米峰に初登頂したフランス隊の隊長、ジャン・フランコの有名な言葉が、思い浮かびました。「登山は人生の最高の学校」というのです。
でも、山に登ったからといって、それが学校になるかどうかは本人次第といえます。
このスキー場の最上部にあるレストランのコーヒーは紙コップ入りでした。ぼくが不平を鳴らすと、パチプロのタクローが、「水を汚さないためでしょう」といいました。
では、水洗トイレの汚水はどうなっているのか気になりました。もし地下浸透式であったのなら、紙コツプはお笑いです。
高い場所はみんな水源地、低山も含め、山は全て水源地であると考えねばならない。
町外れの山あいの谷間に、ごみを埋めて宅地を造成する環境保全業者がいても取り締まる法律がない。とんでもないことです。
山には、いくら自浄作用があるからといっても、今日のように、特定の山に集中豪雨的登山が行われると、一気に限界を超えてしまうはずです。
だから、山の上では、洗剤の使用はダメ。大便も持ち帰る。山小屋の便槽はヘリで下ろす。でもそんなことがおいそれと出来る訳がない。やっぱり一番いいのはそういう山には登らんことではなかろうか。
次々と滑り降りるスキーヤーを眺めながらぼくはそんなことを考えていたのでした。