パラパラめくりながら斜め読みしていると、またまた引っかかりました。なかなか先に進めません。困ったことです。
<南北朝の動乱のころ、対馬・壱岐・肥前松浦地方の住民を中心とする海賊集団が、朝鮮半島や中国大陸の沿岸をおそい、倭冦とよばれて恐れられていた。倭冦は朝鮮半島の人びとを捕虜にしたり、米や大豆などの食料をうばうなどした。>
倭冦というのは、けっこう有名な史実で誰でも知っていると思えます。ぼくも中学の頃、これを習って、へえー日本って強かったんだと、なんか誇らしい気分になったのを覚えています。しかしこの海賊集団はまた交易船でもあり、海賊専門とは言い切れないのではないか。
それに、対馬・壱岐・肥前松浦地方の住民が海賊商売をしていたのだろうか。おかしいと思い、調べてみました。
例によって、iPhoneの大辞林で引っ張りました。詳しい説明があります。Googleでも、多くの記述が見つかります。
要約すると、13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部を中心に東アジア地域で活動していた海賊の総称。略奪行為だけではなく、密貿易も行っていた。前期の倭冦は日本人が殆どだったが、その後は朝鮮人などが多くなり、末期には中国人が多数を占めていた。
まことに正常でまっとうな記述であると思えます。
教科書と読み比べてみてください。教科書は変に歪んでいませんか。
Wikipediaの倭寇の項には、殆ど完全と言っていいほどすべてに見方や考え方を網羅した資料と見解が示されています。
倭冦は、前期と後期に分けて考えるのが至当のようです。注目されるのは、前期倭冦の原因として、元寇の時に高麗軍によって虐殺され、略奪された対馬・壱岐・五島列島などの住民の、まあ戦禍で生活に窮したこともあったのでしょうが、報復行動であって「三島倭寇」と総称されたのだそうです。これは、清の文献及び李氏朝鮮の文献に載っていることです。
後になるほど、日本人は減り、後期倭寇に至っては、『明史』(清の歴史書)の日本伝の項には、真倭(本当の日本人)は10のうち3であると記述されているのです。
この教科書の記述は、やはり問題です。
支那の手先になって攻め込んで来た朝鮮の高麗軍にやられた生活苦の所為で略奪を行ったともいえる、ごく一部の史実をすべてのように教えられた日本の若者は、申し訳ないことをしたと思うかも知れない。その結果、盗まれた対馬の仏像を返せとはいえないと思うかも知れない。さらに、ちょっとこれは極端かも知れないけれど、ユンボでキャッシュ・ディスベンサーを破壊して、お金を奪ったり、日本人を監禁して殺害する犯人に正当化の根拠を与えるかも知れないなどと思ってしまいます。
著者の先生方も、この記述だけでは偏っていると思われたのか、図がのせられていて、小さい文字で説明文が添えてあります。
【倭寇の図(『倭寇図巻』,部分)『倭寇図巻』は明朝末期の作品で,後期倭寇のようすを描いたものである。後期の倭寇の大部分は中国人であるが、この図巻ではすべて日本人らしく描かれている。(東京大学史料編纂所蔵)】(注:この絵は、インターネットより取りました。同じ図ですが、説明の文字が入っています。)
ここで、後期の倭寇は中国人だったと書いてありますが、ぼくにはなんかすっきりしない感じがします。「日本人らしく描かれている」ことが何を意味するのか分かりません。歴史というものは、主語は自分の国なのだから、その立場に立って書くのが当然なのです。
従って、これらのことは、本文ではっきり書くべきだと思うのです。とくに、対馬・壱岐などは、今日大変センシティブともいえる場所にあると考えられるのですから。