「この國」ってどこの國?

どうやらぼくには、こと言葉に関してちょっと普通とは違った好き嫌いがあるようなんです。変にこだわってしまうのです。たとえば、よく使われる「了解」という言葉は好きではありません。
「分かりました」とか「承知しました」といえばいいのに、「了解」という。だからぼくは、一度もこの言葉を使ったことはありません。
東京の人はよく「平気です」という。これは関西の「大丈夫」にあたります。関西ではまず使わないのではないかと思うのです。
たとえば、奥さんが旦那に出した食べ物が賞味期限ギリギリだったのを気にして、「あのなんとかの味変じゃなかった?少し古くなってたの」と尋ねたときの返事は、「いや大丈夫。なんともなかったよ」とこたえます。これを「いや平気だよ」とは関西人は答えないし、そうした答えにはなにか違和感を感じてしまうのではないかと思うのです。

相手の心配の心遣いに対する思いやりを含んだ言葉が「大丈夫」だと思うのですが、「平気」にはそうしたニュアンスよりも恰好付けの一種のやせ我慢が感じられる。そんな気がするのです。こんなどうでもいいことが気になるのは、やはりぼくは少し変わっているのかも知れない。
二十歳代でカラコルム遠征登山に出かけたとき、パキスタン軍の連絡将校との連絡係はぼくの担当でした。人間関係を作るため、ホテルの部屋も同室でした。
サファラズ大尉が、友人の軍人にぼくのことを「彼は、言葉に鋭い感覚(keen sense)を持っている」といって紹介しました。どうしてそんなことを言ったのか分からなかったのですが、たぶんその時ぼくはウルドー語を勉強していて、いろいろ質問したからかもしれないと思っていました。

思いを巡らすと、気になる言葉は他にもいろいろあります。たとえば「北方四島返還」。日本が主権を主張すべき北の島々は四島ではないはずです。自分から四島にすぼめる必要はないから「北方四島」とは言ってはいけない。「北方領土」というべきだと思うのです。
「領土返還交渉」もおかしい。まったく不法に占拠している相手に返してくださいと交渉するのはおかしい。これは「領土確定交渉」なり「領土問題交渉」とでもして、返還という言葉は使うべきではないと思うのです。
尖閣にしても「尖閣問題」という字面であっても、伏せ字があるとして「尖閣侵略問題」とぼくは読んでいます。

国民という言葉を使いたがらない人がいて、代りに「生活者」という気色悪い呼称を用います。そういう人はそれだけで、お里が知れるような気がしてしまいます。
日本国とか日本を使いたがらない人もいるようです。これは、歴史を遡ると理由がはっきりします。占領下でGHQが日本帝国の呼称を禁じたからです。代りに「この國」が用いられたようです。
「大東亜戦争」は「太平洋戦争」に、「帝国憲法」は「明治憲法」に言い換えを強要されました。
6年後のサンフランシスコ講和条約で占領統治という休戦状態が終わっても、こうした言葉は元に戻りませんでした。
教科の「日本歴史」もおかしい。外国人がそう呼ぶのは納得できます。しかし日本人にとっては「国史」であるはずです。
アメリカの歴史はアメリカでは「National History」であり、「American History」ではありません。これは、チャイナでも朝鮮半島でも同じです。早急に「国史」に変えないといけないと思います。

それにしても、ぼくは気になってしまうのです。「この國」という言い方が。
たとえば、自分の血液型をいう時には、「私の血液型はA型です」といいます。それを「この人の血液型はA型です」というとおかしいでしょう。
この「この國」という表現は、したがって、どこかの宇宙人の視点で日本が叙述されることになります。つまりそうした無国籍的表現となるわけです。それが冷静で公正な立場などという考えはおおいに偏向していると言えます。そんなことは客観的でもなんでもない、恥ずべき表現だと思うのです。

つまり、「この國」と始めるとそうしたおかしな考えが引き起こされる。主語は重要です。日本人であれば、日本を主語とした思考をしなければならない。
注意していると、「この國」は、国会でもしょっちゅう使われています。テレビ中継を見ていて気になります。「日本」とか「日本国」とかどうしていわないのか。「我が国」なら許されるけれど、「この國」にはなんとも違和感を感じてしまいます。明らかな反日議員はともかく、自民党の議員でさえそうなのですから、これは偏った戦後教育を受けた所為なのかなと思っています。

つい最近の予算委員会の国会中継での話なのですが、アメリカの新聞で靖国神社を取り上げた記事で、ヤスクニのことを「War Shrine」と書いてあったそうです。黙っていてはいけない、すぐに抗議して訂正を申し入れるべきだと、外務大臣に注意した議員がいました。この山田宏議員が言う通り、言葉は重要です。とくに翻訳には注意しないといけません。
端的に言えば自国に不利になるような訳語を用いてはならない。

さて、テレビの人気番組「たかじんのそこまでいって委員会」で、「この國に生まれてよかったスペシャル」という番組がありました。
この「この國に生まれてよかった」というのは、あの辛坊次郎氏が救出された時にはいた台詞です。
この台詞は、ネットでもあちこちに現れるのですが、それが「日本に生まれてよかった」だったり、「この國の国民でよかった」だったり、オリジナルの台詞はどうだったのか分からなくなっています。
しかし、「日本に生まれてよかった」でなかったことは確かです。

この番組で司会を務めた辛坊氏は、この台詞に関してことさら注釈を加えていました。いや、あれは、この國の国民だったから救ってもらえたという意味じゃないんで、あんな悪条件でも救助できる技術を持った自衛隊を持った國の国民で幸せだったという意味で、どこの國の国民でも救ってもらえるはずです。
それがどうした。決まってるやないか。なに言うとるんか。それはどういう意味なんだ。あんたまだなんにも分かっとらんな。
ぼくは、なんだかなんとも言えぬ腹立たしい思いがわきあがり、そうつぶやいたのでした。

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