東京に来て一週間ほどが経ちました。
来た頃は、これはいつものことなのですが、地下鉄に乗っている時なんともいえぬ不安を感じます。
今地震が起こったらどうしよう。とりあえず地上に逃れたとして、どっちに逃げたらよいのか、まったく分からないのです。
でもいつものように、これも一・二日で慣れてしまって、なんとも感じなくなったようです。
何年も来ていなかったので、いろいろ会いたい人があり、旧交を温めているうちに日が過ぎました。
今回の上京の主目的は明治大学で行われた「マッキンリーから30年 植村直己を語り継ぐ」という集まりに参加することでした。別に先頃『なんで山登るねん』の文庫本化の話が山渓からあり、赤を入れたゲラ刷りの第一稿を送ったばかりだったので、第二稿を受け取りがてら寄って見るつもりでした。
明治大学には「リバティー・タワー」という23階のビルがあって、上記の会はこの8階で催されました。二百数十人収容のホールで少しの空席もあったから、たぶん150人くらいの参加者だったのではないかと思いました。
内容は次のようになっており、なかなかぱりっとした筋立てになっていました。
トークショー=「わが夫わが友 植村直己」
基調講演=「垂直の冒険と水平の冒険」関野吉晴
トークセッション=「植村直己 その人と冒険」
第一部/垂直の時代
第二部/水平の時代
基調講演を行ったあの「グレート・ジャーニー」の関野吉晴さんは、冒頭で「どうも明大の山岳部のノリを知らなかったようで、型にはまった内容を用意してしまったようです」と述べられたのだが、これは最初のセッションのトークショーの内容を聞いての感想だったと思われる。
それにしても、この講演の最後部分で関野吉晴さんが述べた次のような結論フレーズに、大きな興味を持ちました。そのフレーズとは、次のようなものでした。
アフリカに始まった人類は、未知と未開を求めて地球の果てにまで広がった。より優れた強い集団がこれを行ったとされていますが、私はどうも違うと思うのです。むしろ弱い集団がいじめられて逃げ出したのではなかったのか。そういう説なのでした。
普通人類は新天地を求めて、世界の果てまで広がっていった。フロンティア・スピリット。そんな風に教えられたのではなかったのでしょうか。ぼくも何となくそう思っていました。
だからこの説はとても新鮮に響き、おおいに納得する所だったのです。この推論には後に続くもう一つの推論があります。周辺に広がっていった人類が、もう広がる場所がなくなった時、驚くべき力を発揮し大きな発展を遂げたというのです。その実例がイギリスと日本である。どちらの島で、もう逃げ出す場所がないのです。
逃げ出す場所のない西と東の島ではその後なにが起こったか。これを考察することは大変面白い作業だと思います。それはまったく違ったものだった。西の島では、膨張方針として略奪・侵略と殺戮を背景とした植民地政策を採用しました。
一方東の島では侵略はなかった。これは文字もなかった古代からのことで、古事記にも示されるように神々を代表する神は天照大神という女性の神であったし、古事記・神代記の3分の2を占める出雲神話は侵略の物語ではなく話し合いによって平和裏に國を譲るという「國ゆずり」の話なのです。
西の島々を始めとする国々は侵略によって奴隷を作りましたが、東の國には奴隷は存在しませんでした。自然を神とし、自分たちもその自然の一部と考えるアミニズム信仰を発達させたといえます。
アミニズム信仰は、世界各国に存在しましたが、近代化の過程においてそのすべてを捨て去ることになりました。これを捨て去ることなく近代化に成功した唯一の國が我が国であるといえるのです。
「マッキンリーから30年 植村直己を語り継ぐ」会の最後は、同じリバティー・タワーの最上階・32階で行われた懇親会でした。約100人ほどが集ったようです。
植村直己夫人の公子さんとは二回目の面会でした。植村直己生誕の地兵庫県・日高町の「植村直己冒険館」の開所式に訪れられた際、今回のパネリストを努めたような面々を祇園のお茶屋に案内したことがあったのです。
その際、公子さんは京都市内のホテルに、他の人たちは我が家に泊まったのでした。
「いやあ、覚えてくださっていましたか。」
「あのね、先生のとこと私のとこ、どっちが先に離婚するかというのが、いつも話題になってましたの。だからわたし先生の奥様とお話ししたいとずっと思ってるんですよ」
「そうでしたか。ぼくも家内と会わしたいですねえ」
おおいに二人だけで盛り上がっていると、山渓の米山くんがやってきて、
「ちょっとないようなツーショットです」と写真を撮ろうとしました。
「そんなに笑わないで」と彼は言って何枚も取ったのですが、何枚とってもどれも笑っているものばかりになりました。
翌日は、水道橋で興亜さんと会う約束になっていました。興亜さんというのは、南極越冬隊の隊長を何度もやった渡辺興亜氏です。彼と知り合ったのは文部省登山研修所の大学山岳部・第一回登山研修のインストラクターを務めた時ですから、もう50年近い付き合いになります。
最初あったときから不思議に気が合いました。
「名古屋に原真という男がいる。会ったらきっと面白いと思うよ。是非会ってみて」と原真さんを紹介したのは彼でした。
興亜さんとはその後10年以上もの間付き合いがなかった時期があったのですが、ある時東京のコンピュータのカンファレンスで、ぼくの本の読者に声をかけられました。彼は極地研究所の所員でボスは興亜さんだといいます。ちょうどその日は、研究所でなんかのパーティがあるので参加してくださいといわれ、ぼくは遠慮もなくのこのことついて行きました。
所員のほとんどが、なぜかぼくのことを知っており、興亜さんは「君は有名人なんだなあ」と驚いていました。
その後、彼に頼まれて、南極越冬隊のトレーニングキャンプに乗鞍に招かれ、何日も隊長テントに滞在したこともありました。
常日頃はまったくといっていいほど連絡などは取りません。ただぼくが東京に行ったときは必ずと言っていいほど連絡を取り会うことが習慣になっています。今回はたしか3年ぶりでした。
大変不思議なのですが、それだけの間隔があいていても、いつもまるで昨日まで会っていたかのように話があい、会話が弾むのです。本当に不思議だ、これは一体どういうことなのだといつも感じます。
水道橋の改札で彼は待っていてくれました。
約束の5時に5分遅刻したので、ぼくは少々肩身の狭い思いをしました。
乗鞍のトレーニングキャンプに参加した時、一緒した南極船の艦長から、さかんに「約束5分前」ということを言われました。これは海上自衛隊の取り決めらしく南極隊もそれに従っているようでした。
一時間前ならどんなことがあっても、まず遅刻することはない。遅刻常習のぼくに取ってはつらいけど勉強になる話だったのです。
駅近くの、この前と同じ飲み屋に案内されました。この近くに南極関係の事務所があって、この飲み屋は常連の集まる場所になっているようです。「いいちこ」のボトルがキープされていて、ボトルには「南極xxx」とナンバーが書き込んであります。
たしかこの前にボトルが空になり、「君書いて」といわれて、下手な字で書き込んだ覚えがありました。ぼくは日本酒を飲んでいたのですが、「いいちこ」が空になりました。おねえさんが、何も言われないのに番号を書き込みました。たしかぼくが書いたのは200番台だった思うのですが、もう五百何十番になっていました。
興亜さんは講演などで全国を飛び回っているようです。
「どうやらぼくは編集者の才能があるみたいだよ」
「ふうん」
普通なかなか頼んでも原稿を頼んでも、了解を得られないのが普通なのだそうですが、「俺が頼むとみんなオーケーしてくれるんだよ」と彼はいいました。南極北極の極地関係の本を次々と出版しているのだそうです。
(注:読み過ごしていた年賀状を見ていま知ったのですが、「南極探検船『開南丸』野村直吉船長航海記」、「北極探検と開発の歴史(太田昌秀)」など)
日本には間宮海峡の間宮林蔵を始めとして凄い極地探検家が沢山いるのに世界には知られていないし、日本人もあまり知らない。極地探検といえばアムンゼン、スコットだけだと彼は嘆きました。
植村直己財団かなにかの団体には彼は理事を務めているそうです。「植村直己は世界に誇りうる探検家だ。だからそういう世界的視点で彼を捉える必要があるのだが、ほとんどの連中はまったくそうした視点がないんだ」と嘆きました。
「明治のOB会は「炉辺会」というんだ。今日の集まりも炉辺ばなしに終始したともいえるよ」とぼくは答え、「でも関野吉晴さんの話は面白かった」とその内容を伝えました。
ぼくは、山渓で見てきたばかりの「世界の登山史」の話をしました。それは英国で出版された大判のカラー印刷の大册の和訳本で値段は一万円近くするものです。最初の頃に日本の空海や法顕が出てきます。しかし「役行者」は出てきません。
そんなものはどれだけ立派な本を出したかでその歴史が決定する。極地探検本は日本人が書いた探検の歴史が決定本となったらいいので、そんなもんは先にやったもん勝ちなのではないか。そうぼくは煽りました。
探検も登山ももうそういう時代は終わったと思うとぼくがいい、彼は渋々同意したようです。だからこそ、決定本を出す必要があるのではないか。そしてそれは必ず英訳本を同時刊行する必要があるとぼくは唱えたのです。
彼は南極の氷をボーリングして地球の歴史を調べる研究を助けたのですが、その時に必要になったのが、ボーリング掘削機の開発でした。この時に日本の開発の力を技術力を実感したといいます。そんなことから、たとえば火縄銃の開発と大量生産を支えた境の分業システムの話や日本の技術力は江戸時代遥か前からあったという話になりました。
話が集団自衛権の話になって、二人は安倍さんを評価することで一致したのですが、「こんな具合に話が出来るのは君だけだ」といい、そこでぼくは聞いてみたのです。「北大の山関係の人は、右なのか左なのかアナーキーなのか」
和也チャンネルのカズヤくんは「北海道は赤の島」などと言っていますから、そう尋ねたのです。興亜さんは言下に、
「アナーキーだよ」と答えました。ぼくはアナーキーというのは、共産主義と同じだよといい、さらに詳しく説明しようとしましたが、もう帰る時間が迫っていました。
なんと5時に会ってから11時まで、のべつ幕無しに語り合い、飲み続けていたのでした。
改札を入った所で別れをかわし、「溝ノ口」に向かいました。
普通なら、3・40分でつく距離なのだそうです。どう間違ったのか、中野終点にいました。寝ていたわけではありません。酔っていなかったといえばウソになりますが、そんなにふらふらではありませんでした。何となく楽しい気分で電車に揺られていたのでした。
駅員さんに聞いて新宿から渋谷に向かいなさいといわれ、終電前に目的の駅に着きました。なんと2時間近くも掛かったのでした。
そんなバカみたいなぼけ老人みたいな結末で東京滞在は終わりを迎えたのでした。