このところ、そのニュースがない日はない位、連日のようにテレビ・新聞紙面を賑わわせていたウクライナ半島は、ロシアによるクリミヤの編入で終わったのかと思ったら、問題はウクライナに移って今も続いています。
ウクライナの東にはコーカサス(カフカズ)山脈が聳えており、1971年にぼくは第二次RCCコーカサス遠征隊の隊長として、当時ソ連邦であったこの地を訪れ、シヘリダ峰(4300m)に攀りました。その頃、周辺の國のことも勉強しておかないと、などと殊勝に考え、ウクライナの歴史なども勉強したのです。
その時の勝手な印象では、なんか日本の大正時代の自由民権運動の多摩地方が想起されたのを覚えています。
グーグルでクリミア戦争を引くと、こんな語呂合わせが載っていました。
なんか、いや誤算、
殺し合いにガックリ。
なんか=南下政策
いやごさん=1853年
ころ=(18)56年
ろしあ=ロシア
クリ=クリミア戦争
いやぁ、これは面白い・・・とも思いましたが、この後に続くクリミア戦争の内容に関する記述は、まったく面白くない。もともと、ぼくの記憶では、高校での世界史もまったく興味がありませんでした。
独特の抑揚で、<むかし、エーゲェ海に、クレタとおーっちゅう島があったなぁ>で始まる世界史の授業はほとんど寝ていました。日本史の方は、小・中の頃に読んだ常磐御前や袈裟御前、遠藤盛遠やら源平盛衰記なども出てくるので、まだましな方だったといえます。
大学を出てまもなく、外国に行き、思い知らされたのは、自分がいかに日本の歴史を知らないかということ、そして世界史に関する知識を欠いているということでした。
焦りを覚えたぼくは、歴史の全集などを買い込み、慌て気味に読み込み始めたのです。今になって考えれば、そうした歴史書は、多かれ少なかれ、けっこう左寄りのマルクス史観に則った書物、実際のところ歴史書といえばみんなそうなのですが、だったといえます。
その結果、ぼくの胸の内には大きくはないけれど、小さな赤旗が立ったのかもしれません。
だから、これはぼくだけに限らず、戦後教育を受けた人たちはみんな、自分では気付かずに身体の中に小さな赤旗を立てている。その結果、人権とか自由・平等・博愛などの呪文や、グローバリズムや侵略などのスローガンには、その本質を考えようともせず、ただ平伏してしまうようなのです。
ロシアの南下政策は、いや誤算で殺し合い(1856)でガックリというわけで、1856年のパリ条約で挫折します。
いや誤算の1853年、クリミヤ戦争は悲惨な戦争で死傷者は多く、従軍看護婦ナイチンゲールの活躍があり、赤十字が発足したことでも有名です。
しかしこの1853年がペリーの黒船来航の年だったことを知る人は少ないのではないでしょうか。年代暗記の達人なら問われて答えることが出来るかもしれません。でも、この二つの東西の大事件がなぜ同時に起こったのかを記述した歴史書を、ぼくは読んだことがありません。
当時の世界はどんな具合だったのか。世界をパワー・ポリティックスのシアターとして、そのアクターは誰々なのかを考えてみると、こんな具合です。
超大国 イギリス
大国 ロシア、フランス
新興国 アメリカ
小国 オランダ
この時期、産業革命を成し遂げるとともに、海洋国家として世界中に植民地をもつイギリスは最強の超大国でした。他のヨーロッパの国々も植民地獲得に邁進します。アメリカなどは駆け出しもいいとこでした。
北米は、英、仏、スペインの植民地で、アメリカなどどこにもありません。ではその頃わが日本はどうだったか。
その頃日本は、江戸時代は吉宗の時代で、あの池波正太郎の名著「剣客商売」で描かれている秋山小兵衛が活躍し、老中・田沼意次が登場する、あの時代です。
それから100年ほど経って、ようやくアメリカが新興のアクターとして現れてきたわけです。
とはいえ、まだまともな海軍などなく、海に出ればイギリスやロシアに追いかけ回されます。戦ったら負けますからただ逃げ回るだけでした。そこに、クリミア戦争が起こりました。
ナポレオン3世がカトリックの保護者としてパレスチナの聖地管理権をトルコに要求して成功します。すると、もともと南下政策のロシアはトルコ領内のギリシア正教徒保護を口実として同盟を申し込みます。トルコがこれを拒絶すると、もともと不凍港を求めての南下政策をもつロシアはトルコに戦争を仕掛けます。イギリス、フランスはトルコと同盟を結びロシアと戦うことになりました。これがクリミア戦争です。イギリス、フランス、トルコがロシアと戦うことになりました。
ここで、海上にエアポケットが生まれました。チャンス!とばかりアメリカは日本にやってきたというわけです。
この黒船来航も普通にいわれているように、ただ大砲をぶっ放して脅したわけではなく、無理矢理に不平等条約を押し付けたわけでもなかったようです。
ペリーは、けっこう優しい男で、吉田松陰が伝馬船で船にやってきて連れて行って欲しいと頼んだ時、これを承諾したら江戸幕府の怒りを買うので、拒否はしますが、松蔭の心根に感じて、江戸幕府に処罰しないようにとの書状を書いているのだそうです。
不平等条約を結ばされたという通説にしても、江戸幕府は世界の情勢を理解していましたから、鎖国政策を続ける愚を知っており、手を組む相手を求めていました。アメリカはちょうど手頃な相手で、やってきてくれてありがとうともいえる感じだったといいます。
クリミア戦争の背景にあったものは、第一に世界経済の資本主義化、第二にその為の国民国家の建設、第三にそれによって生み出されたナショナリズムの支配する世界だった、と教科書にはそういう具合なことが書いてあります。
いずれにしろ、世界の変わり目だったといえるわけで、黒船来航にしても、日本を一挙にアクターに引き出す事件だったといえます。
あれから150年以上たった今、やはり世界は大きな変わり目にあるといっていいでしょう。変化の最大のものは、アメリカの衰退だといえます。働いて物を作り利益を生み出すという正常な実体経済活動を失ったアメリカは、実体のないものを売り買いする経済に移行し、リーマンショックによりその実体が暴露されることになって、徐々に指導力を失ってくることになっています。
そして次にアメリカが生き延びる為に取ったビジネスの方法とは、世界共通のルールを世界に広めることでした。でもその世界共通のルールとは、アメリカのルールなのです。そのルールには國によって違いがあってはいけない、國の違いを生む国境をなくしようというもののようです。
歴史で初めての有色人種の大統領が誕生し、アメリカの新生を世界中が期待しましたが、失望に変わりつつあるようです。ぼくにいわすれば、オバマさんは言ってみれば、アメリカの◎ンさんではないかと思います。市民活動家という経歴やその他においても。
もう一つの変化は、チャイナの台頭でしょう。アメリカと並ぶこの人工国家は、民主的な選挙なしに指導者が選ばれる、共産党なる王朝の独裁国家で、崩壊あるいは分解あるいは大変化などという予測をよそに経済的・軍事的拡張を続けています。
20世紀の半ば頃から半世紀ほどの冷戦時代は、世界を見る物差しは比較的単純で、世界を見るのもけっこう単純だったのではないかと思います。共産・社会主義と資本主義、左翼と右翼などというように、対立概念は単純でした。
しかし今日、各種の尺度・物差しが重層的に混在し、大変複雑になってきているようです。今の時代にある、こうした対立概念は、3つあるといえます。
◉グローバリズムVSナショナリズム
◉非民主主義VS民主主義
◉新古典派経済学VSケインズ経済学
こうした観点から見ると、右とか左とかあるいはリベラルなどといういう概念区画は、ほとんど意味を持ちません。
あのクリミア戦争のときがそうだったように、今世界は明らかにナショナリズムの時代になっています。本家であったはずのアメリカでも、グローバリズムは時代遅れと捉える人が多くなっていると聞きます。日本では「グローバリズムの時代でしょ」などという台詞を切り口上のようにいうアホな人が多すぎると感じます。
日本では、マスコミが極めてステレオタイプ(複製版のよう)に、アメリカの見方に偏った報道を垂れ流すので、おかしくなっていると思うのですが、ぼくは思うには、プーチンの考えは結構、国民の考えに則ったナショナリズムに立っていると思うのです。
アメリカ主導のもと、EU諸国などの旧西側諸国がウクライナを自分の陣営に引き込もうと争っているように見えます。天然ガスの供給源という切り札をもつプーチンは余裕綽々のようです。30%を供給されているドイツは及び腰だそうですが、スウェーデンやノルウェーはなんと100%なのです。
この問題の始まりは、やはりアメリカが起こしたともいわれる中東の革命騒ぎとその収拾の不味さだったようです。特にそれは、シリアで顕在化しました。
シリア問題の決着は、チャイナ漁船の体当たり事件で、主権国家たる対応が出来ないまま、逮捕した犯人をファーストクラスに乗せて帰国させた民主党政権を想起させる対応だったように思いました。
話があらぬ方向に走りました。これから、ぼくが書きたかったことに戻します。
歴史書の話です。アメリカの国史は、アメリカに限った物ではなく、多くの植民地支配の国々を追い払っての歴史でしたから、当然世界史でもありました。つまり、国史はまた世界史でもあったといえます。それはまた、捏造というと言い過ぎかも知れないけれど、自分に取って都合のいい言い訳や、事実の隠蔽を多く含んだ物であったといえるでしょう。
そういうことからいうと、世界を大きな版図を広げた國だけが世界史なり歴史を書くことが出来るということになります。この意味から言って、本格的な歴史書はモンゴル帝国の歴史である司馬遷の「史書」とヘロドトスの「歴史」ということになるのだそうです。
四方を海に囲まれた日本国は、外国に攻め込むことは少なかったし、攻め込まれることはほとんどありませんでした。しかしそばにチャイナという強大な国があったから、対抗的に国家意識に目覚め「日本書紀」を作ったし、水戸光圀は「大日本史」を編纂しました。
江戸時代から、鎖国政策を維持しつつも幕府は世界には関心を持ち情報の蒐集と研究は怠ってはいませんでした。明治政府になると世界の研究は必修の物となりました。そのころ世界史は「万国史」と呼ばれました。そして、「東洋史」と「国史」がありました。
世界史は、それが書かれた國によって異なって当然です。そしてそれは、その国の国史がベースにあって成立する物だと思います。ぼくは素人ですが、おそらく世界中どの國でもそうなっているはずです。
ところが、先の戦争で負けた日本では、「世界史」という外国の視点に立った歴史書が成立しただけではなく、多くのタブーを避けた歯の抜けた櫛のような「国史」が書かれることになりました。そして「国史」という名称は禁じられ「日本史」となりました。
「世界史」と「日本史」を別々に何の関係もない別物として学ぶという、世界唯一の形が出来上がったのではないかと思うのです。そして、国会質問でよく聞く「世界の笑い者」という表現、これはおそらく日本独自のレトリックで、その人に「日本は世界に入ってないの?」と訊きたくなります。
「世界史」と「日本史」を独立した別物として学んだ結果、日本を世界の中に位置付けできない日本人ばかりになりました。一つ例を挙げてみましょうか。
「三十年戦争」です。Wikipediaでは「ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争」と説明されています。
「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」などと形容されることもあります。
この頃日本はどうだったか。1600年といえば、「関ヶ原の合戦」です。1603年には、家康は江戸幕府を開いています。ヨーロッパでは最初の国際戦争の時期に日本はもう安定した平和の時代を始めているのです。文化・芸術がヨーロッパに先んじたのも当然といえます。陶器の包装紙に使われていた浮世絵を見て、ヨーロッパの絵描きが驚嘆したのも当然といえば当たり前の話といえるかもしれません。
兵力はどうだったのか。関ヶ原では、大量の銃器が使われました。その総数は多分、ヨーロッパと比べてみたら、間違いなく日本の方が勝っていたと思います。日本人は火縄銃が伝来するとすぐにコピーを作り、改良を加え、大量生産の為の分業生産システムを作りました。当時「境」は世界有数の鉄砲生産地でした。
鉄砲は、攻撃の為の兵器ではなく、迎え撃つ為の武器です。これは、武田の騎馬軍団を迎え撃った長篠の戦いを見ても明らかです。攻撃の武器としては、鉄砲よりも弓の方が遥かに勝っています。しかし、その習得は鉄砲より難しい。20年掛かるといわれています。
兵力に関しては、こうしたハード面ではない要素があります。それを示すのは、ナポレオン軍の強さです。ナポレオン軍の兵士は傭兵ではなく、みんなが國のため、土地のため、家族の為に戦ったから無敵だった。無敵に相手を撃破したナポレオン軍の戦いは三十年戦争の200年も後のことでした。
いずれにしろ、三十年戦争の頃の日本の兵力は世界最強だったことは間違いありません。その頃だけではなく、ずっと日本は強い國だった。一度負けはしましたが、今でも日本は強い。それを知っているのは、日本ではなく、外国です。だから、強くなってもらっては困ると考えるのだと、そう考えると色々とよく分かる。そんな風にぼくは思っています。
わたしたちは「日本史」の次に「世界史」を学びます。
その世界史は、ヨーロッパ人か中国人の書いたもので
日本人が書いたものではないのです。
いま日本人は、日本人による世界の歴史を書かねばならないと思うのです。そこには当然西洋人、チャイナの人が書きたくない事実が記述される必要があります。
日本人は日本人の書いた歴史で学ばないといけません。
アメリカもチャイナも平気で、歴史の改ざんを行っているのですから。
しかし、日本人の書いた歴史書が教科書となるまでには、長い年月が必要だという気がしています。だだ救いはインターネットだと思います。戦後の洗脳教育に染まった学者ではない心ある歴史家などによって、インターネットで正当な歴史が伝えられることによって、若者の覚醒が徐々に侵攻する。そういう将来を夢見たいと思っています。