「つれづれ」カテゴリーアーカイブ
日の丸の旗・日本の国旗
先頃、サッカー場で、一つの入り口に「Japnese Only」と書いた表示が掲げられたことが問題となりました。FIFAの日本事務局が陳謝し、次の試合は無観客試合とする決定を下したようです。これは結構な厳罰と思います。なぜなら一試合の入場料がどれくらいになるかを考えれば、容易に分かることです。
安重根の垂れ幕を掲げた韓国のサポーターには、それなりの厳しい処置を要求すべきだったし、FIFAにも厳重注意の申し入れをすべきだったと思います。例によって、まあ直ぐに引っ込めたからいいではないか、という考えだったと思われます。あの戦後教育の優等生ともいえる古市くんは、現場にいたそうです。
プライムニュースで「でも、すぐに引っ込めましたよ」と弁護したものですから、「あんな大きなものが、すぐに引っ込められますか」と八木キャスターに突っ込まれていました。
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「トランスポータ3」を観る
なんとはなしに「トランスポーター3」を見てしまった。
監督が、リュック・ベッソンなのがいい。 ぼくはリュック・ベッソンは大好きだ。
中でも一番好きなのは「レオン」。
何度も見たが、なんどみても胸苦しくなるような感動を覚える。
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マレーシア航空機はどこへ行ったのか
突如消息を絶ったマレーシア航空機。2週間経った今も行方不明のままです。
ぼく自身この前のイタリア行きはマレーシア航空を使ったので、なんだか人ごとではない感じでおおいに関心を持っていました。マレーシア航空は安いのはいいのですが、クアラルンプールでの乗り継ぎの時間が尋常じゃありません。行きも帰りも8時間以上というので、空港内のホテルに入って仮眠を取って時間を過ごしました。
それに、この空港まともなレストランもない。
帰ってきてから、誰かから「年寄りの乗るヒコーキじゃない」といわれました。ぼくも二度と乗る気はなかったのですが。
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君は「河野談話」をすべて知っているか?
先日の衆院予算委員会で、維新の会の山田宏議員がこんなパネルを示した。それは、「河野談話」の内容で、次のようなものだった。
「日本軍による強制性」の根拠となっている「河野談話」平成5年8月4日「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」
◉慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置,管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。
◉慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意志に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。
◉慰安所における生活は、強制的な状況のもとで痛ましいものであった。
◉当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意志に反して行われた。
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「この國」ってどこの國?
どうやらぼくには、こと言葉に関してちょっと普通とは違った好き嫌いがあるようなんです。変にこだわってしまうのです。たとえば、よく使われる「了解」という言葉は好きではありません。
「分かりました」とか「承知しました」といえばいいのに、「了解」という。だからぼくは、一度もこの言葉を使ったことはありません。
東京の人はよく「平気です」という。これは関西の「大丈夫」にあたります。関西ではまず使わないのではないかと思うのです。
たとえば、奥さんが旦那に出した食べ物が賞味期限ギリギリだったのを気にして、「あのなんとかの味変じゃなかった?少し古くなってたの」と尋ねたときの返事は、「いや大丈夫。なんともなかったよ」とこたえます。これを「いや平気だよ」とは関西人は答えないし、そうした答えにはなにか違和感を感じてしまうのではないかと思うのです。
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Jeff Tacker先生からの手紙
Jeff Tacker先生から、いつものようにPictureCardが届きました。
裏には、こんな文が奇麗にプリントされていました。
In March, we enjoyed another wonderful 21 day trek in Nepal Himalaya, visiting the lower canyons of the now popular Manaslu, Circui which we did three years ago, before turning off into an impressive and narrow canyon leading up to Hidden Valley of Tsum. Inhabited for a nearly a thousand years by Tibetans, and accessed only by several low passed to the north and east, it was not until the 20th century that a path was created, allowing access from Ne;al. It was a beautiful place, a hidden and spectacular valley high behind the stunning peaks of Ganesh Himal, and filled with friendly people still living an ancient lifestyle.
WindowsでPascalを走らせる
急に思い立って、Windowsでパスカルを走らせてみようとしたんです。
パスカルというのは、まだウインドウズが出る前のDOSの時代のプログラミング言語でした。
その頃、もう30年以上の前のことですが、いわゆるパソコンが現れました。PC98などといわれたパソコンは、ソフトなどは備わってなくて、何かをしようとすると、内蔵されているBASICという言語でソフトを作らないといけませんでした。
BASICという言語は、取っ付き易く手軽に遊びのようなソフトは作れるのですが、きちんと構造化されたソフトやオペレーティング・システムなどを作ることに向いていません。
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日本にいたインド独立の志士
友人の富永くんが「以下の記事は、本日4日の日経新聞文化欄に載った記事です。こういった日本人?もいたということで、参考まで。」と、以下のような記事をメールしてくれました。びっくりするような話なので転載することにしました。
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インド独立の志士 朝子
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日本育ちの少女だった私はボースに傾倒、出征した。
「新しく 生まれ変わりて 一兵と なりたまりしも 心淋しき」
太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった1945年3月、17歳の時に詠んだ歌だ。詩や文学の世界に浸り「おセンチ」と呼ばれていた少女が、恐怖を振り払い「インド独立の志士」であろうと葛藤している。あのころの自分を抱きしめたくなる。
圧政に苦しむ祖国思う
私は28年、神戸で生まれた。両親はインド人。「希望」という意味のヒンディー語で「アシャ」と名付けられたが、「朝子」と呼ばれて育った。神戸の小学校を卒業後、東京に転居。昭和高等女学校(現昭和女子大)2年の時、インド独立運動の指導者チャンドラ・ボースが結成したインド国民軍に身を投じた。冒頭の歌はその時のものだ。
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天安門車両突入炎上事件は中共の自作自演(承前)
今年のこの11月は、あの歴史的な最初のアジアサミットである大東亜会議が行われての70周年にあたる。
この会議は、1943年(昭和18年)11月5日 – 11月6日に東京で行われた首脳会議であって、当時の日本(大日本帝国)の同盟国や、日本が旧宗主国を放逐したことにより独立を果たしたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。会場は当然のことながら国会議事堂だった。
この会議は、あのミズーリー艦上でのボツダム宣言の降伏文書に署名した重光葵外相の発案で行われたもので、有色人種のみによる最初の国際会議でもあった。
この会議における「大東亜宣言」の発表で、慌てたルーズベルトがあの有名な「カイロ宣言」を考えたことについては、すでにこのサイトの<「カイロ宣言」について>で述べた通りです。
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