Macを創った人たち

スティーブ・ジョブスの顔にも少々見飽きてきました。
主に使っている、ちょっと型遅れのPowerBook G4(Titanium)を立ち上げると、毎回スティーブ・ジョブスの顔が現れます。もういいわという気分になっています。
彼の死が悲しかったし残念だったのは確かなんですが。(と書いていたら、2週間続いたこの写真ディスプレーも、ようやくiPhone4Sに替わりました)

息子がSMSで「スティーブ・ジョブスが死去。なんという喪失感」と報せてきて、彼の死を知りました。病気が軽くないのは知ってましたから、意外ではありませんでした。でも、なんでジョブスなんや。ビル・ゲーツでも良かったのにという密かな思いが頭をよぎったのです。ビル・ゲーツが死んでも残念だとは思わなかったのではないかと思います。

Apple社を作ったのは、2人のスティーブです。スティーブ・ウォスニアックとスティーブ・ジョブス。
この二人の名前を挙げた時に、同時にぼくの頭に浮かぶ名前は、アラン・ケイであり、ジェフ・ラスキン、ビル・アトキンソン。
これらの人が、今のパソコンを作ったのだと思っています。これらの人はみんな天才です。




この二人のスティーブが作った世界初のパソコンがAppleでした。二人が作ったと言っても、このマシンを設計し、手作りで制作したのはウォズニアックで、売りさばいたのはジョブスです。
これは試作機みたいなものでした。200台作って170台売れたと言われています。
ウォズニアックは、本当の天才で普通では考えられないような回路の設計が出来ました。

以前ジョブスはエンジニアの下っ端として働いていたアタリ社で、ブロック崩しのゲーム機の部品減らしを依頼されたのですが、自分では出来ないのでウォズニアックに頼み、この報酬の半額と称しての350ドルを渡すのですが、実際にジョブスは5000ドルを受け取っていました。ジョブスの本性と言うか才能をしめす例と言えるかも知れません。

ウォズニアックはApple I を改良してApple II を作りました。これが大人気で、Apple社は大もうけします。
当時コンピュータといえば、第二次大戦中に大砲の弾道計算のために企画されたもので、何千本もの真空管や一万個のコンデンサーなどを使った重さは30トンもの代物でした。高性能の計算機で、まあこれが汎用機ともいわれる大型計算機の元祖でしょう。当然汎用計算機などは個人用途のものではありません。

だれも、こうした大型機のコンピュータを個人用とは考えなかった。それは一般人には扱えないものと考えられていました。これを個人用、家庭用と考えたのは、ジョブスであり、天才的才能をほしいままにハードウェアとしたのはウォズニアックでした。
しかし、今日のパソコンの基本的コンセプトを作りそのイメージを作ったのは、この二人だけではありません。ぼくが付け加えたい他の人はといえば、アラン・ケイであり、ジェフ・ラスキン、ビル・アトキンソンです。

アラン・ケイはこんなことを書いていたように記憶しています。(『Oh!PC』連載エッセイ<パソコンおりおり草>第6話「何が記者を引き留めたのか」『高田直樹ウェブサイトへようこそ』参照)
「少女は草原に座ってダイナ・ブックで遊んでいる。彼女は作文をしたりまた絵を描いたりしている。絵はいつでも修正できる」
これがアラン・ケイが思い描きダイナブックと名付けたコンピュータでした。
彼は、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)で、やはり彼の発想によるオブジェクト指向言語のSmall Talkと呼ばれる言語で動くAltoというマシンで各種のGUIアイデアの研究をやっていました。
例えば、マウスはここで発想され開発されました。最初のマウスはまるでリヤカーのような車輪を持ったものだった。クリック、ドラッグ、カットアンドペーストなどの概念は全てここで作られました。

Apple IIは売れつづけ、大型計算機専門だったIBMもこの分野に参入することを考えます。ジョブスは、さらに進んだマシンを考えます。自分の娘の名前から名付けたとも言われるLisaの開発に入ります。開発リーダーの彼は、独自のイメージを強調しすぎるため開発スタッフとの折り合い悪くなってここを去り、Macintosh開発チームへの割り込みを謀ります。
Macintoshは、やはりアップルの次のマシンとして開発途中でした。率いていたのはジェフ・ラスキンです。折り合いの悪い関係にあったラスキンは当然拒否しますが、ジョブスは強引に割り込み、ハードウェアはジョブス、ソフトウェアはラスキンということになりました。

ラスキンは、数学、哲学の学位を持つ学者で、カリフォルニア大学サンディエゴ校でコンピュータサイエンスの教鞭をとっていました。マッキントッシュにビルトインされていたソフトを6割以上作ったビル・アトキンソンは彼の教え子です。
ジョブスは、ソフトウェアに関しても介入を行い二人は激しく対立し、ラスキンは結局ジョブスに会社を追われることになりました。彼はコンピュータに関して確固とした考えを持っていたので、並び立つことは難しかったのでしょう。
ラスキンは、新会社を設立しマッキントッシュに盛り込みたかったものを作ろうとしたのですが、ここでもジョブスが妨害したという噂があるようです。
彼は、61歳で膵臓ガンで死にます。ジョブスも膵臓ガン、ラスキンがあの世から呼んだのかな。

そういう訳で、マックの基礎を作ったのはジョブスではなくラスキンだったとぼくは考えています。
しかし、ここに大変重要な歴史的な事実があります。それは、ジョブスのパロアルト研究所の見学でした。ジョブスはここで、Altoを見て、衝撃を受けたようです。そこで動いていたAltoは、現在のパソコンともあまり変わらぬものでした。
この時、ビル・アトキンソンも一緒でした。彼はそうしたものをMacintoshで作ろうとしました。マッキントッシュに組み込まれていたMacPaintやMacdrawなどのソフトなど、ソフトウェアの6割以上は彼が創りました。言語はPascalでした。
当時のプロセッサーは今から言うととんでもなく遅かった。コンパイラー言語のPascalは、ソースコードを書いて、コンパイルしないと走らない。どこかで、アトキンソンは、「コンパイルをかけて、近くまで夕食を食べに出かける。帰って来るとちょうどコンパイルが終わってるんだ」と語っていました。

アラン・ケイが主宰し動かしていたAltoの見学に訪れた人は、数千人を超えたと思われます。しかしそのアーキテクチャの先進性を完全に認知し、その時に得たイメージを自分に取り込み具現化しようとしたのはジョブスだけだったとも言えると思います。これがまた彼が天才と言えるところでしょう。
ぼくは、ここでマックを創った人として5人を挙げたけれど、実際はそれ以外に無数の人たちがいて、そういう歴史に名前が挙がってこない隠れた天才が沢山いたのだろう。歴史はそうした無名の人たちに依って作られ、知られたものではない裏面史に依って紡がれていくのではないかと思うのです。

パロアルトには、ウォズニアックの名を冠したウォズニアック通りがあると聞いたことがあります。ジョブス通りが出来るのか、もっと何か別のものになるのかよく分らないけれど、まあそれもいいのではないかと思っています。

次には、ぼくとマックの関わり、さらに遡ってNEC-PC98について書く予定です。