雪の来た北山は犬一匹の寒さです(1996.12.1)

なんで山登らへんの 第20回 1996.12.1
体験的やまイズムのすすめ

 いまやアウトドアブーム、中高年がRV車を駆って野山に向かう。また空前のペットブームのようで、ぼくの家の近くには、ペットの巨大なスーパーマーケットができています。
 RV車には大型犬を乗せて走るのがかっこいい。
 誰に聞いたかは忘れましたが、大型犬はいまやステータスシンボルなのだそうです。どうしてかというと、大きな家に住んでいないと大型犬は飼えないとみんな思っている。本当はそんなことはないのですが……。
 テレビにも犬の躾をテーマとしたものがそこここで取り上げられるようになってきたようです。これは明らかに大型犬のブームと関係があると思うのです。
 躾がされず訓練が入っていなくても、小型犬ならなんとかなるでしょう。でも30kgを超える大型犬はそうはいきません。勝手に走り出したら引きずり倒されてしまいます。飛びつかれたら突き倒されてしまう。
 少し場所を移動させるのだって、大型犬は押したくらいではびくともしません。どうしても、口で言って自分で動いてもらうしかないわけです。
 何時だったか、浜松の有名な犬の泊まれるペンションでのことです。ある若夫婦がラブラドール・レトリーバーを連れてやってきたのですが、その犬は、がんとして二階に上がることを拒否し、どうしようもなくて二人は、前と後ろを抱えて運び上げていきました。
 そういうわけで、躾が必要となるのですが、ここで、極めて日本的な形で犬の学校が登場します。つまり、本来家庭でやるべき事を学校に押しつけているのが日本だからです。

 そして面白いことが起こります。学校で優等生で全てをマスターした犬が、家庭に帰るとまったくの馬鹿犬となってしまう。
 ぼくの知り合いが、ゴールデン・レトリーバーを学校に入れたのですが、全然その成果がない。まったくいうことをききません。彼は怒り心頭「大金を払ったのにどういうことだ」と犬の調教師をなじる。
 「おかしいですねえ。ちゃんとやってますよ」
 「そんな馬鹿な。学校で出来ることがどうして家で出来へんのや」と彼はいきまくので、調教師はビデオを撮って彼に見せます。
 「それがなあ。ばっちりやっとるんや」
と、彼はいうので、ぼくは、
 「あんなあ。賢い犬ほど相手を見るし、馬鹿にもしよるんや」
 訓練してもらうんやったら、自分も一緒にやってもらう必要があると説明したのですが、とてもそんな暇はないということでした。
 散歩に行く以外は、門先に繋がれ放しでは学習など出来ようはずはありません。
 犬も人間も同じで、出来るだけ沢山の人に会い、出来るだけいろいろの場面を経験して、どんどん賢くなるのだと思うのです。
 *
 ゴールデン・レトリーバーで、生後40日のビータスがやってきたのは、3年少し前のことでした。
 ぼくの奥さんは、目の前でころころと無邪気に遊ぶ数匹の子犬を見ながら「でも高いんですねえ」といいました。
 「あのねえ、奥さん。それねえ、この犬は十年は生きますからねえ。こんな素晴らしい友達が、一日にしたら100円もしないんです。安いもんです」
と、ブリーダーさんは説明し、なるほど上手いこというもんだと、ぼくは感心したのでした。
 ブリーダーさんが強調した注意は、無駄吠えをさせないことと飛びつかせないことでした。
 「ノーといって手で口を握るんです。飛びつこうとしたらやはりノーといって背を向けて下さい」
 「いまは子犬でも、大きくなって30kg以上にもなった犬に飛びつかれたら、押し倒されてしまいます」
 生後4ヵ月になるまでは外に出してはいけません。足裏から寄生虫が入るのだそうです。
 訓練は連日行いました。勤めを辞めていなかったらきっと大変だったと思います。家人ともミーティングをしたり資料を読ませたりして、教育方針の一致徹底を図りました。
 ぼくとしては出来るだけ長い時間を一緒に過ごし、いけないことをしたら止めさせ、良いことをしたら褒めます。体罰はダメ。いじけさせ怯えさせる効果しかない。
 このころ一番の問題は、訪問客の無遠慮さでした。なんの断りもなしに、サークルに入っているビータスに手をさしのべる。するとビータスは柵に登り付くという禁止行為をやってしまう。柵に手を掛けることは、ビータスにとってやってはいけないことです。そうしておかないと彼が少し大きくなった時には、柵は意味を持たなくなるからです。
 咬んだらすぐ切れる紐でつないで育てた犬は、大きくなってから、どんな太い鎖でも咬み切ってしまう。ところが一方、鎖でつないで育てた犬は、大きくなってから、紙の紐でも大丈夫という話をきいたことがあります。面白い話だと思ったのでした。
 さて、いったん柵に手を掛けるという自然な行為を復活させてしまったビータスを元に戻すのに、また何日かを要することになる。
 犬だけに限らず、基本的に躾という概念を欠いたこうした訪問客にはまったく参りました。家人からは、教育パパと揶揄されるしで、ぼくはノイローゼになりました。
 もっと後になって、外界での訓練に入ったときも、一番腹立たしかったのは、駅のプラットホームなどで駆け寄ってきて、勝手に触りまくるおばさんおねえさん達でした。
 アメリカ人の友人のタッカーなどは、心得たもので、「ナオキ、おれビータスに触っていいかい」と訊いたものです。
 2ヵ月半ほどがたち、ようやくぼくとビータスは外に出ました。もう会社にも一緒に行けます。
 会社に行く5分ほどの道を遠回りして、30分ほどの練習に当てます。左側にぴったり付いて歩く練習。野原で「カム」のサインが出るまでじっと待つ練習など、クリアーしていたものの戸外での復習。その時にコマンドを何度も発してはいけない。出来ないことを何度もやらそうとしてはいけません。それはコマンドに従わない練習をしていることになるからです。
 踏切の遮断機の上下におびえるので、連日踏切の近くをうろうろしながら電車の通過を待ち、電車と遮断機に慣れる練習です。平気でやり過ごせるようになるのに5日を要しました。
 *
 最近、犬の泊まれるペンションが増えつつあります。単に客寄せのためにそういう区画を設けたというだけの偽物もある。でも本物のオーナーのほとんどが、いわゆるパックツアーでないヨーロッパの旅行体験を有しているというのは興味のある事実です。
 ヨーロッパでは、犬を連れて旅行するのはごく普通のことです。職場に犬を連れていくというのも珍しいことではない。パリのタクシーでは、前の座席にはお客は乗せないのですが、そこにドライバーの犬が一緒に乗っでいることは珍しくはありません。でもパリにも犬の嫌いな人はいるはずで、そういう人はそのタクシーには乗らないのでしょう。
 アムステルダムでは、町を歩く犬も3分の1から半分ぐらいはノーリードです。歩道には、随所に犬のトイレを示す犬のマークがあり、傍らに四角く切った砂場がある。
 アメリカには、うんと寒い夜のことを「昨夜は犬2匹の寒さだった」という言い方があるのだそうです。犬を防寒のために抱いて寝たという歴史がある。この表現は何となくぼくをほっとさせたのでした。
 狼を先祖とする犬は、約2万年ほど前から人と一緒に生活してきたようです。
 犬は餌にありつけるし、人は外敵の襲来を見張ってくれる役に立つもの、いざとゆうときには食料にもなる。こうしたつかず離れずの関係が成り立ちます。
 この辺の関係は、あのケビンーコスナーの『ダンスウィズウルヴズ』に描かれているようで興味深く見たことでした。
 狼の遺伝子を待った犬には、群のリーダーに従うという本能があります。集団での狩りをすることだけが生存の道という種の掟から来る本能でしょう。
 狼は獲物が得られない間は何日でも飢えたまま過ごします。獲物を得ると飽食します。
 大の胃は非常に大きく消化管全容積の60%をしめる。パブロフの犬で有名なように、犬は条件反射によって大量の唾液を出します。でもその唾液には消化作用はほとんどない。唾液は、食塊がのど、食道を容易に通るための潤滑油の役割をはたしています。
 食道は、じょうぶで弾力性に富み、食塊を2~6秒の速さ(馬は60秒~80秒)で胃へ運んでしまうのだそうです。
 犬には狼から引き継いだ狩りをするためにリーダーに従う遺伝子があり、群のリーダーが人をリーダーとみなしたとき、その群はその人に従ったはずです。
 人間の群も今みたいに豊かではなく、やはり飢えていましたから、犬は肉となったのですが、このとき役に立たない犬から肉になったはずです。ここに意図しないブリーディングが行なわれ、有史以前に犬が犬として成立することになったのでしょう。
 現在、犬の種類は約400種。ほとんどがアジア以外のものです。これは、仏教国では一般的に動物におけるブリーディングの概念が成立しにくかったからではないでしょうか。
 ブリーディングの結果、淘汰が行われます。現在大型犬はまず絶対というほど、穏和で闘争本能などは置き忘れたかのようです。反対に小型犬ほどきつく、咬みつくのも多い。
 知り合いのブリーダーさんの話では、交配の依頼があって、雌犬が空輸されてきても1週間は観察するのだそうです。望ましからぬ性格が見つかったら、交配は断るそうです。
 でも、利殖のためのブリーダーはそんな風には考えない。だからブームになっている犬の購入には注意すべきです。その親を観察すればいい。
 ほとんどの日本人は犬は咬むもの吠えるものと考える。これはいまいった淘汰繁殖への配慮がなされないまま、犬が増え続けたせいなのでしょう。でも大型の洋犬が増え、躾の認識が高まるにつれ、少しずつ改善されていくだろうと思っています。
 つい最近のテレビによれば、日本人家庭3軒に1軒は犬を飼っていることになるそうです(TBS系列〈筑紫哲也ニュース23〉)。だから犬の躾の認識は、もしかしたら日本人の教育観を変えるかも知れません。
 *
 ビータスを調教するために、ぼくは泥縄式の勉強を強いられることになりました。
 犬の飼い方に関する本は、ぼくの本棚に数冊立っていました。でもそれらはみんな、30年以上も前の古色蒼然としたものでした。
 本屋に行くと、犬の飼い方やしつけ方に関するものはいっぱいありました。しかしそのどれもが、極めて表面的で、形式主義のマニュアルといった類のもので、ぼくの気に入らなかったのです。
 それで最初に買ったのは、かの有名な動物学者のデスモンド・モリスの『ドッグ・ウォッチング』でした。
 彼は『裸の猿』の著者です。この「裸の猿」というのは、実は人間のことで、人間をまるで猿を観察するような手法でウォッチし、著述してあるのです。昔ぼくは、大いに興味を持って愛読したものでした。
 『ドッグ・ウォッチング』は、この犬という特殊な動物を理解することを助け、これをしつけ、訓練するのにおおいに役立ったようでした。
 -人類の長い歴史を通じて、わずか二種類の動物だけが人間の家の中で自由にふるまうのを許されてきた。イヌとネコである。
 -かれらと人間とは特別な関係にあり、大昔から、おたがいの同意のもとに特別な契約を結んでいる。残念なことに、この契約はこれまでしばしば破られてきた。破るのはほぼ一方的に人間の側である。ネコやイヌが人間より忠実で、信用でき、頼りがいがあるというのは、たしかに厳粛な事実なのである。
 BSテレビの『愛犬講座』は大いに参考になりました。でもジュデイ・エマ-トおばさんがやっているように、ご褒美に食べ物を与えるという方法は採らないことにしました。
 食べ物を使うというのは、それがないときは働かなくなるのではないかと危惧したからです。古谷一行の盲人探偵シリーズも盲導犬が極めて正確に描かれていて、これも参考になりました。
 愛犬講座は日本語に吹き替えされていますが、元は英語。古谷一行もコマンドには英語を使っています。
 それでぼくも英語のコマンドを用いることにしました。だいたい、「コイ」 「マテ」「スワレ」などというのは、なんだかアホな旧陸軍みたいでかっこわるいと思ったからです。
 なにかをするときには、ある達成目標が必要です。いろいろ考えた末にぼくが設定した目標というのは、「ビータスを連れて祇園のお茶屋にゆくこと」でした。
 目標を決めたらそれを公表するというのがぼくのいつものやり方です。公表したらもう後には引けず、やらざるを得なくなります。
 ちょうどその頃、山渓本誌や『岩と雪』などの名編集長だった為国さんの退職記念パーティが、東京でありました。
 司会の今井通子さんからスピーチの指名を受けたぼくは、
 「いまぼくは、犬の調教に熱中しておりまして……。お茶屋にあがって畳を傷つけないためには、犬に靴下をはかす練習も必要です。一つずつクリアして行くというのは、なんだか山の準備に似ているようでもあります」。
 そのほとんどが山関係の人ばかりのなみいる列席者は、なんだか呆気にとられているようでもありました。
 *
 祇園へ行ったのは、ビータスが生後6ヵ月の時でした。
 行って分かったのですが、その日は節分の日で、祇園では「お化けの日」といいます。この日には舞妓衆・芸妓衆が何人かのチームを組んで仮装し寸劇をしつらえて、お茶屋さん巡りをする日なのでした。
 お客がいない方がいいと、ぼくとビータスはうんと遅くに出かけたのです。でもおおくの舞妓・芸妓に会うことになりました。そしてビータスだけは大もてにもてたのでした。
 しばらくして、ブリーダーさんを訪問したとき、玄関のたたきでじっと待っているビータスを見て、こんな子供でこんなによく訓練が入ったのは見始めです。そういって褒めてくれました。
 「このあいだは、祇園のお茶屋さんに行ってきやはったんですよ。朝見たら顔にいっぱい白い粉や赤いもんが付いてたんです」
と、ぼくの奥さんが言うと、ブリーダーさんが、「それでお父さんの顔には付いてませんでしたか」。
 ビータスが一歳になった頃、会社を訪れた懐石料理の料亭の女将が、ビータスのことをえらく気に入り、「お父さんと一緒にいらっしやい」と誘ったのです。
 ぼくは少々驚き、「でも食べ物屋さんなのにいいんですか」
 すると、その30を過ぎたばかりの若女将は、「でも、そういうことを許すというのが高級の証でしょ」といったのでした。
 先日、山渓本誌の編集長が、京都へやってきました。ぼくは、編集長をその懐石料理に案内したのです。
 食事の後、二人と一匹で、烏丸三条から四条、そして四条通りを東に向かって祇園までの約1キロ、けっこう人混みのペーブメントを歩きました。
 もちろん紐なしのノーリードです。
 かつて、ニフティのペットフォーラムには『でかワンと暮らす』というコーナーがあり、そこに何人かの人が「ノーリードで散歩をするのが夢」と書いていました。紐を付けないで歩くというのは、調教の完成度の証なので、愛犬家の誇りなのかなあとその時思ったのです。紐を付けないということは、犬を信頼することでもあるし、自主性に任せるということでもある。
 実際の話、ビータスは紐のない時の方が緊張し、ばっちりと歩きます。
 行き交う人は、人が多くて先まで見えませんから、気づいたときには通り過ぎていることになり、「あれーっ」という感じです。
 気づいて反応するのは、決まって若い女性たちで、発する声はまた決まって「かわいいーっ」と、まるでテープの繰り返しみたいなのでした。
 編集長は「高田さん、みんなの反応を観察して楽しんでるんでしょ」といいました。
 四条大橋を渡ったところで、オシッコをさしてやろうと思ったのですが、いい場所が見あたりません。川端通りを少し北上したところで、少しへこんで芝生の植え込みがありました。
「ビータス、ここでオシッコしといたら」というと、ビータスはすたすたと入って行きオシッコをして出てきました。編集長はびっくりしたようでした。
 ぼくたち二人は、一匹を玄関に持たせたまま、明け方まで飲んでいたのです。
 彼によれば「犬の概念が変わった」のだそうです。
 そして「ビータスのような犬なら山へ連れていっても問題はないのではないか」ということでした。ぼくには、「犬が生態系を破壊する」などという勝手な理屈に真剣に対応する気は全くありません。生態系をもっとも破壊するのは人間だからです。
 犬を山に連れて行きたい人は、まず町に行くことを勧めます。町で問題がなければ山でも大丈夫でしょう。
 でもぼく自身としては、正直いって、オフロードバイクはもちろんマウンテンバイクでさえ、目をつり上げて三角にするような偏狭な人どもが歩いているような場所などあまり行きたくはありません。
 北山に雪が来て、そういう人が来なくなったときに出かけよう。まあ冬の北山は「犬一匹位の寒さ」だから……。そう思ってるんです。

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