戦後日本における「私」の異常肥大

先日、教え子で大学の先生をしているフェースブックの友達が、またまた起こった「いじめ事件」について、コメントするとたちまち70を越える「いいね」が記され、多くのコメントが書き込まれました。
彼のコメントの中でぼくが注目したのは、こんな部分でした。
「日本は、「みんな」を解体し、「私」の集まりになってしまいました。「みんな」で教育し。「みんな」で育て、「みんな」で見守るのをやめちゃって、あるのは「私」だけ。今や、親子も兄弟も「みんな」ではなくなったみたい。そして、「みんな」の機能は先生だけに期待されています」

それで、ぼくはこんなコメントをしました。
「まったく同感ですねぇ。その目的を「人権」として最上位に置いた現行憲法、極端にいえば、「人権教」の行き着いた状況を示しているのだと思いますよ。そこのところが分からないまま、みなさん尻尾をくわえて回る犬状況なんじゃないでしょうか。書くと長くなるので、ここで止めてるだけで、評論家の高みの見物態度ではないので、誤解しないでくださいね。」
するとすぐさま、「ありがとうございます。先生の高い見識は本質を見抜いておられると思います。いつもブログを拝見し、そう感じています。」という書き込みがされました。

ここでの主張、「みんな」が解体され「私」になってしまったというところにぼくは注目した訳です。
「みんな」というのは、いいかえれば「公」ということです。ということは、「公」がなくなったということなのだろう。公と私といえば、たとえば「公私混同」という言葉があります。
会社や役所の車を自分の用事で使うと公私を混同しているといわれます。この場合、公のほうが私よりも上位にある。これは自明のことと思われていたと思われます。
現役で山に登っていた頃、東京の出版社の人たちが、若い社員のことを嘆いてこんなことを言いました。
「自分が若かった頃は、会社で家族のことを言うのははばかられたもんです。ところが最近の連中は、今日は子供を風呂に入れないといけないから、お先に失礼と平気でいうんです」

「公」と「私」。この二つの漢字には「ム」が、どちらにも使われています。調べてみると「ム」というのは「抱え込む」という意味です。「ハ」というのは、入り口が広がっている河口などを表わし、「入り口を開く」という意味がある。だから、「公」は「囲まれた地域を開く様=誰でも自由に出入りできる場所」という意味を表し、ひいては「おおやけ」、「分けへだてない」の意味に用いられるのだそうです。
一方「私」の「のぎへん」は「いねなどの穀物」を表します。つまり「私」は「わが物として抱えこんだ穀物」を表し、「自分ひとりのものにする」という意味から「私=個人」という使われ方をするようになりました。
ちょっと飛躍するかもしれないのですが、もともと「和」の精神を国是とした日本には、決定的な公私の対立はなかったし、「四民平等」を唱えたのも「和」の精神だったと思われます。

この日本の伝統の文化である「和の精神」を、打ち壊したのは、アングロ・サクソンの「近代合理主義思想」でした。ルソーの思想が持ち込まれ「自由・平等・博愛」が喧伝されました。中江兆民などが実力以上の評価を受けます。同じ頃に、パリ・コンミューン後のフランスをみた伊藤博文や西園寺公望などに比べて、どうもまともな観察眼を欠いていると思わざるを得ません。
パリ・コンミューンがどんなひどいものだったかは、少し調べればすぐに分かりますが、たとえばその時の死者は、10日で3万人とされています。ちなみに、戊辰戦争では、1年半で8200人でした。とんでもない内乱だった「南北戦争」の死者は、4年で70万人。原爆の死者数を意に介さないのも理解できるというべきかもしれません。
だから、高山正之氏などは、ニコニコ動画の武田邦彦氏との対談で「白人は人間ではない」という過激な主張をしておられます。
理想の革命みたいに教えられた「フランス革命」などは、今日ではどうしようもないものとされているようで、この時の思想に異を唱えたエドマンド・バークの保守主義が見直されています。
正統的な保守主義の父祖とされるバークはルソーの言説が「この種の恥知らずな悪徳への道」であり、それは実際の人生には適用不可能である」といっています。

伊藤博文の大日本帝国憲法でも、個人の権利は現行憲法と何ら変わらなく保証されていました。しかし、「私」の権利があらゆる場所で、いかにも普遍性を持った「人権」として過大に叫ばれるようになったのは、昭和憲法からだったと思われます。どうしてそうなったかは、ぼくには容易に理解できる。それはアングロ・サクソンの作ったものだったからです。
おまけに、このGHQ憲法を書いたのはチャールズ・ケーディス大佐で、マルクス主義者でした。彼はOSSの欧州担当でした。OSSというのはアメリカ戦略情報局のことで、CIAの前身の組織です。GHQの民政局の課長となった彼は日本を破壊し、共産革命を起こそうと考えていました。
:上の「大日本帝国憲法」のリンクですが、これは当初「高田直樹ウェブサイトへようこそ」に載せていた、ぼくが結構苦労して作った口語訳へリンクさせていました。ところが、これがサーバー・トラブルで、読めなくなっていました。バックアップも見当たらないので、困っていましたら、これがネット上の別のサイトに転載されていることを発見しました。「大日本帝国憲法現代語版」というタイトルで載っていて、最後尾に「高田直樹ウェブサイトより」と書いてあります。ぼくのものですから、平気でリンクさせました)


ソ連邦が出版したマルクス主義国家論史によれば、国家というのは抑圧装置とされます。マルクス主義というのはそういう思想なのです。
国家というのは悪であり、それを縛るのが憲法である。そういうことになる訳です。日本には全く相容れない思想といっていいでしょう。
「憲法は政府を縛るもの」とか「国家権力を縛るもの」という台詞を、最近しょっちゅう耳にします。しかしこの言辞の底に流れる思想は、マルクス主義であり、もっといえば国家悪者論、アナーキズム・無政府主義と知るべきだと思うのです。

ところで、何十年もたった後のこと、電話でインタビューを受けたケーディスは、「えっ、まだあの憲法を使ってるのか」と驚いたという有名な話があります。
彼は、当然のことながら、天皇の廃絶を考えていました。それがなお続いているのだから、驚いたのかもしれません。
しかし、現行憲法は、第1章は「天皇」であり、その1条から8条まではすべて天皇のあり方についての記述です。
これは、決してGHQが望んだことではなかったのでしょうが、当時の日本人の必死の努力で維持されたというべきなのでしょう。

いまなお天皇なしには国会も開けないし、大臣の認証も行えません。こんな話を聞いたことがあります。いつの内閣だったのか忘れましたが、国会を解散しようとしたのですが、天皇が外遊中で出来ずに、帰国を待ったということです。
つまり、天皇がいなければ、何も出来ないような仕組みになっています。これって、帝国憲法と何も変わってはいないのです。天皇はずっと象徴だったともいえます。人間宣言をして、人間になったといわれていますが、それは嘘です。
この時、昭和天皇は年頭の詔を読まれたのですが、その内容は「五箇条の御誓文」の再確認だったのです。「五箇条の御誓文」こそは、日本人の心であり憲法の肝であると思っています。

話が逸れているとお思いの方もおられるかもしれませんが、天皇とは「公」そのものなのです。天皇には「私」はありません。もちろん「人権」などあるべくもない。そして日本国の象徴でもあらせられる。抑圧装置などとは考えるべくもない。コミュニストやコミンテルンを奉じる人たちにとっては、まことに不都合で気色悪い存在なのです。
そういう人たちが、(東大)学者やマスコミ、映画関係や芸能人にうようよ存在しています。
先日、大学の山の集まりがあり、その二次会で親しい5・6年下の後輩が、「天皇なんか必要ない。なんで天皇さまって呼ばれるんや。人間は平等の筈や」といい、全くあっけにとられました。
ことほどさように日本では、正しい歴史教育がされてこなかったということなのだと思ったことでした。

例を挙げれば、きりがないのですが、一つだけ有名な日本の哲学者、思想家、人類学者、宗教学者とされている中沢新一氏を挙げておきます。
彼はその著作で、女系天皇と女性天皇の区別さえ出来ないことを暴露してしまっているのですが、ある対談で、<もしかしたら女性天皇になるかもしれない子供にぼくの『アースダイバー』でも送ろうかな>と発言します。
ところがこの『アースダイバー』にはこんなことが書いてあるのです。
<近代天皇制そのものが、一種のクーデターによって生まれた><女性天皇の誕生をもって、明治天皇にはじまる近代天皇制は、終わりをむかえる><天皇を頭にいただく朝鮮半島からの移住者を、この列島の先住民である縄文人たちは、なにはともあれ受け入れた>

こんな状況を考えれば、96条改正は大変危険であるといえるでしょう。安倍さんは、誰かにいわれて「ああ、それいいな」と軽く乗ったようですが、最近になって考え直し始めたようでもあります。支持率が高いといっても、自民党内部にもコミンテルンとは行かないまでも似たような手合いが存在するということを知っておくべきだと思うのです。
ぼくが思うには、憲法改正はもっと先のことでいいと思います。参議院選挙後、憲法改正しないでも出来ることは何でもやる。
自衛隊の拡張、集団的自衛権の肯定、武器輸出、武器購入。これらはすべて、日本の経済を豊かにすることになります。つまり、富国=強兵です。

今日のテレビの「アンカー」でも「報道ステーション」でも、憲法が取り上げられていました。「アンカー」の「憲法を考える」はひどかった。
高校生に考えさせるという構成なのですが、「現行憲法のもとになったGHQの原文にはPeopleとPersonがある。ところが、現行憲法にはこれがない。すべてそれは日本国民に変えられた」それが問題だというのです。
日本國憲法だから当然でしょうと思うのだけれど、日本人でない外国人は適用外なのかとなり、高校生に「グローバル化が進む中で、これは問題だと思います」
と語らせます。
若いうちから、「私」の権利ばかりを教えられ、「公」とのバランス、日本の国の形を教えられなかった人たちは、幸せな人生が送れるのかなあと、考えてしまったのでした。

追記:この項でぼくが言いたかったことを、ほぼ完全な形で書き記しているサイトを見つけました。是非読んでください。そして、分からないところは調べてください。それは日本を救うことにつながります。
オ ピ ニ オ ン ● 公と私