福沢諭吉「脱亜論」の背景

麻生副総理の「ナチス発言」、この命名自体おかしいと思いますが、が話題になっています。
まずいことを言ったなと思いました。
なぜなら、日本を強い国にしたくないアメリカや連合国諸国は、世界での「戦後レジューム」を保持したいと考えており、たとえば「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などの捏造事件をナチズムと関連付けようと、ことあるごとに試みてきたと言えるからです。
気になるので、麻生発言を全部読んでみました。驚いたことにあの朝日新聞が全文を公開しています。
麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細

読んでみて思ったことは、なんでそんなに大騒ぎするの、という感じでした。問題の部分は、かなり長い話・講演のいちばん最後の方にちょっと出てくるだけで、大騒ぎするような話ではない。特に今の世界の常識、日本の常識から考えて、あり得ない強引付会の揚げ足取りと感じました。
問題の部分に、「気がついたらワイマール憲法がナチス憲法に変わっていた」というのがあります。
しかし、ナチス憲法などはなかった。ヒトラーは憲法改正などやっていないのです。
問題の根は、「全権委任法」にありました。ヒトラーは政権を取ると直ぐにこの法律を成立させます。しかし今の時代、そんなことが出来る訳がない。
麻生副総理の真意は、全文を読むと分かりますが、中韓がいろいろ言ってきて騒がしくなる。そうするとアメリカも困るだろうから、静かにやる必要がある。その方法を考える必要がある。そういうことが言いたかったのではないかと思うのです。

さて、本題の「脱亜論」、これについては、すでに何度か触れていますが、支那・朝鮮とはもう絶交しようという結論を述べているだけです。悪友とつきあっていると、自分も同列と目されてしまう。相手にしないでおこう。
今回、つぶさにその内容を追ってみて、その過激さに少々驚きました。どうしてこれほど怒ったのか。
その原因を探ることにしました。

Fukuzawaもともと、「脱亜論」というのは新聞の社説でした。実はこれが書かれた当時、福沢諭吉は「時事新報」という新聞の発行に携わっていました。その新聞に明治18(1885)年に載った社説がこれだったのです。「脱亜論」という名称で呼ばれるようになったのは後のことです。
もともとが新聞の社説ですから、決して長い文章ではありません。原文は、2200字、原稿用紙5枚半の短いものです。
社説ですから署名記事ではありません。だから「あれは福沢が書いたかどうか疑わしい」などというアホな嫌日評論家がいたりします。
「聖徳太子はいなかった」という説が大仰に取り上げられたりしています。別に悪いことではありません。でもNHKは同じように、どうして「南京大虐殺」はなかった、と取り上げないのか。「セックススレーブ」などいなかった、という企画をあげないのか。
どうにも腑に落ちません。

福沢諭吉が怒りの口調で、「脱亜論」を書いた理由を知るには、日朝のそれまでのいきさつを知る必要があると思い調べました。調べると言っても、ネットや書物をちらちらと見た程度なんですが。
明治維新からの事実を列記しますとこうなります。
●明治元年(1868)
挨拶にゆく。手交文書に「皇」「勅」の文字の多用があると、受け取りを拒否。その文中には、「上皇」や「勅許」などの字句がありました。こんな文字が使えるのは支那・清の皇帝だけと、夜郎自大な朝鮮は極めて非礼な対応をしたのです。
以後、朝鮮に送ったすべての使者が「即時征韓論」を説くことになるというジンクスが生まれます。
●明治6年(1873)
というわけで、西郷隆盛の下野から「西南戦争」につながることになる「征韓論争」が生まれます。
●明治8年(1875)
江華島事件が起こります。これは、朝鮮沿岸を調査・測量していた、もちろん許可を取って、小さな日本の軍艦が、江華島の近くで、飲料水を得る為にボートを下ろし、岸に近づいたところ砲撃を受けます。そんなきっかけで砲撃戦になり、朝鮮側に25名の死者が出ました。日本側は負傷1、死者1でした。
この事件を、ペルリの巨砲外交と並べるアホな学者がいるようですが、だいたい船の大きさが違いますし、的外れもいいとこです。
●明治9年(1876)
上の事件の収拾の為に日朝修好条規が結ばれました。

その頃、朝鮮内部はどうだったのか。依然としてどうしようもない李氏朝鮮の時代なのですが、ずっと2つの勢力の陰惨な権力闘争がありました。
朝鮮は日本を見下し、金も力もないくせに大国ぶり、問題が起こると常に清国にすがります。日本は、日本がやったように植民地化されない近代国家になるように手助けしますが、これに反対する2つのうちの一つが清国と結んで邪魔をするという構図が生まれます。
こういう訳で、半島は日本と清国との代理戦争の舞台となってゆくのです。

朝鮮の2つの勢力というのは、大院君VS閔妃(ミンぴ)という図式です。
大院君というのは、李氏王朝末期の王様。
閔妃というのは、大院君の息子・高宗の妃です。大院君の妃の推挙で息子の妃となります。しかしこの高宗という王様が、とんでもないバカで政治はほったらかしです。そこで閔妃が権力を握り、大院君と対立することになりました。
縁故と贈収賄で、政治はむちゃくちゃになります。日本は日本人顧問団を送り、なんとか改革してあげようとすると、清朝が介入してきます。
大院君のクーデターで漢城の日本公使館焼き討ち事件が起こり、日本人顧問団が殺害されます。日本は済物浦条約を結び、日本軍駐留の権利を確保します。すると閔妃が清に接近します。(漢城というのは今の京城です)

朝鮮にも、日本の勤王の志士のような志を持った若者が沢山いました。彼らは、日本が明治維新によって急速に近代化し、欧米列強の仲間入りできる強国となっていくことに、圧倒的な存在感と魅力を感じていました。彼らは日本に来て、福沢諭吉が作った慶応義塾で学びます。最初に朝鮮人留学生を受け入れたのは慶応義塾でした。
その中の一人に、金玉均(きんぎょくきん)がいました。
金玉均は、もともと朝鮮貴族である両班(やんばん)の出身で、科挙試験にも合格した秀才です。朝鮮でのはじめての新聞である「漢城旬報」の発行者のひとりでもあります。
金玉均は、日本の明治維新を模範として、清朝から独立し、朝鮮の近代化と自主独立を目指しました。そして明治17(1884)年4月には、清国がベトナムをめぐってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、閔妃政権打倒のためのクーデター(甲申事変)を起こします。もちろん日本はこれを後援しました。

KinGyokukinところが事件は清国の武力介入で失敗し、わずか3日間でクーデター政権は崩壊してしまいます。
日本に亡命してきた金玉均を、福沢諭吉は自宅にかくまいます。これは大変危険なことで、彼やその同士たちは、命がけで彼を守ったのです。しかし、金玉均は清国の李鴻章(りこうしょう)と閔妃らの陰謀にひっかかり、上海で虐殺されたうえ、五体をバラバラに引き裂かれて、韓国内に遺体を晒されました。
この甲申事変で、日本公使館は焼き討ちにあいます。
朝鮮は漢城条約で謝罪と賠償金を支払うことになりました。
そして、その翌年の明治18年(1885)。日本と清国は天津条約を結びました。そこで定められたことといえば、●朝鮮より両軍撤兵、●軍事顧問団不派遣、●出兵前に事前通告の原則などでした。
福沢諭吉が「脱亜論」を書いたのは、まさにこの年だったのです。

「脱亜論」はその全文の口語訳を、<高田直樹ウェブサイトへようこそ>の資料集にアップしましたので、それを見て頂くといいのですが、主要分のいくつかをここにピックアップして、この稿を終わりにします。
それにしても、朝鮮という国は、時代を経ても、国名が変わっても、なんの進歩もないどうしようもない国なのだなあと、今更のように思わせられたことでした。

【「脱亜論」要約】
日本が近代化して西欧と対等につきあえる国となるか、それとも幕府を中心とした旧体制を維持するか。
その二者択一を迫られたときわが国は、「国を重んじ政府を軽し」とする大義に基づいて行動し、ご皇室という神聖かつ尊厳ある存在とともに、もはや老害以外の何ものでもなくなった旧幕府を倒し、新政府を打ち立てることを選択しました。
日本は、国中、身分の別なく、西洋文明に追いついて行こうという体制を打ち立てたのです。

ところが、その日本には、実はたいへんな不幸があります。
なにかというと、支那、朝鮮です。

アホにはアホの可愛らしさというものが、普通ならあるけれど、この二国に関しては道徳心などかけらほどもなく、その残酷さは破廉恥をきわめています。
それでいながら、態度だけは傲慢そのもので、いかに他国や他人に迷惑をかけても、自省の色なんて毛ほどもありません。
私に言わせれば、この西欧文明の東進という脅威に対し、この二国が独立を維持し続けるなどというのは、およそ不可能なことです。

たとえば、支那朝鮮が古い専制君主独裁体制で、法治の観念を持たない国であれば、西洋人は、日本もまた、ああ無法律の国かとみなしてしまいます。
支那人や朝鮮人が理屈にならない手前勝手な屁理屈ばかり並べ立てれば、ああ日本人も屁理屈をこねくりまわしている、訳のわからない国だと思われます。
あるいは支那朝鮮人が、西欧の武力に恥かしげもなく屈して卑屈な態度をとっていれば、ああ日本も同じ卑屈な習俗の国だとしか思われません。
また、朝鮮の刑罰に、およそ人に行うには酷すぎる残虐な刑罰があれば、日本も同様に残虐非道な国だと疑われてしまう。

そして、支那朝鮮と接するときには、いちいち「隣国だから」といって格別の配慮など、もやはする必要などさらさらありません。
支那朝鮮に対しては、西欧諸国が両国に接するのとまったく同様に、相手を人の住む国とさえ思わず、厳しく対処すればよろしい。

悪友と仲良くする者は、共に悪名をまぬがれないものです。
私は、心において、もはやアジア東方の悪友である支那朝鮮とは、絶交を宣言するものです。 福沢諭吉『脱亜論』口語訳全文

注:この稿を起こすにあたっては、ブログサイト<ねずさんのひとりごと>及び倉山満「しっかり学ぼう!日本近現代史」を参考にしました。