乗馬の思い出

パキスタン・カラチの海岸で

パキスタン・カラチの海岸で。

 初めてぼくが馬に乗ったのは、たぶんパキスタン・カラチの海岸でのことで、それ以前に日本での体験はなかったと思います。それは、1965年のカラコルム・ディラン峰遠征の時のことでした。
 大使館のM氏が愛車のオペル・レコルトで連れて行ってくださった。大量の船荷のカラチ港への陸揚げ業務や現地調査の為に本隊より何ヶ月も前に入国していたぼくは、毎日のように大使館に出かけ、仕事を手伝ったり夜はパーティーに連れて行ってもらったりしていました。
 何年か前、池田首相が東南アジア4ヶ国歴訪の一環としてこの國を訪れた時、「こんな暑いところで仕事をしていらっしゃる皆さんは大変です」と、お金を下さったので、それでこれが建ったんです。M氏がそう説明したのは、カラチ市街地のそばの海岸・フォークスベイに立つシー・ハウスでした。(調べたら、池田首相の訪パは1961年のことで、彼はまるで安倍さんの地球儀俯瞰外交の先駆けをやっています。東京オリンピックを招致したのも彼だったようですが、ぼくがパキスタンに行った1965年に癌でなくなっています。65歳でした。政権は東京オリンピック閉会の翌日、佐藤栄作氏に禅譲されました。富国強兵によって日本の地位を高めたのはまさしくこの人だったと思います。)

 カラチのフォークス・ベイは観光名所ですから、そこの砂浜には貸し馬屋や貸しらくだ屋が沢山いるのが常で、なにがしかのお金を与えて、乗せてもらうのです。海岸線沿いに歩かせたり走らせたりするのですが、馬は引き手のパキスタン人のいうことしか聞きません。何度か乗っているうちになれては来て、自分で走らせるようになったつもりでしたが、実際は馬はぼくのことなど聞かず、そばを走る引き手の舌の合図(舌鼓)に反応していただけであることは、後で分かりました。
 4年後の1969年には、大変優雅な乗馬の体験をしました。
 この時、長い間建設中であったイスラマバードがほぼ完成し、首都がカラチからイスラマバードの移っていたのです。当然日本大使館も移動し、カラチの大使館は領事館となりました。
 ランドクルーザーでカラチから北上して、ようやくイスラマバードそばのむかしからの町ラワルビンディーに到着したぼくは、大使館に行き、大使にマリーの別荘を貸して欲しいと頼みました。
 マリーというのは、イギリス統治時代からの山上の避暑地で、イギリス人が作ったビール醸造所があり、有名なマリー・ビールが供給されていて、各国大使館の別荘があるなどという情報は、前の遠征で仕入れていたのです。大使は快諾してくださいました。

 別荘には、管理人がいて、召使い(ベアラー)とスイッパーがいました。これはどの家でも同じなのですが、パキスタンでは普通多くの使用人を使っています。
 まず入り口には門番(チョキダール)がいて、夜中でも番をしています。中に入ると庭師(マリー)。屋内ではベアラーとスイッパーがいます。そして必ずコンサマー(コック)がいます。通いの場合もありますが、普通彼らは家族とともに邸内で暮らしています。ほかに通いで洗濯屋(ドービー)や裁縫をする女性(スーイー)などがいます。
 こうしたシステムはイギリス人が作ったもので、スイッパーは汚物や床のものしか触ることは許されていません。一つの衛生管理質システムだったようです。
 こうしたことは現在ではなくなっているのが普通です。門やガレージを造るよりチョキダールに番をさせた方が安上がりだったからで、今の状況ではチョキダールは銃を持って立っています。しかし、ちょっとした金持ちの家では、コンサマーやベアラーがいるのは普通のことだといえます。

 マリーの別荘に着くと、すでに連絡が来ていたらしく、ベアラーとコンサマーが出迎えてくれました。
 翌朝小鳥のさえずりで目覚めると、前夜言っておいた通りの時間に、部屋にお茶が届きます。ティーカップや受け皿には全て金の国章・菊の御紋が入っていました。クッキーをつまみ、お茶を飲んでシャワーを浴びて外に出ると、門のところに馬方が馬を連れて待っていました。
 前夜にそう頼んでおいたからです。夕食についても、メニューを指示しておくと、コンサマーがバザールで買い物をして用意してくれます。
 馬は舗装された道に蹄鉄の音を響かせて歩きました。約半時間の乗馬で一日が始まる、そういう一週間を過ごしました。カラチからのシンド砂漠縦断の旅、これはけっこう大変で、数日前に英国人二人がワーゲンで試みて遭難死亡していました。マリーでのこの素敵な一週間で旅の疲れは完全にいやされたようで、ぼくは当時の戒厳令下のパキスタンで奥地に向かうという冒険旅行に出発したのでした。
詳しくは<高田直樹ウェブサイトへようこそ>の西パキスタンの旅参照

 その後の乗馬の記憶と言えば、時系列がけっこうあやふやなのですが、思いつくままに上げてみることにしましょう。
 最初に思い浮かぶのは、やはりチェコスロヴァキアでのものです。チェコに行くことが多かったのです。
 友人のパベル・イヴァンイはオランダ国籍のチェコ人で、ぼくがバンコックで英語の勉強をしていた時に知り合ってからの長い付き合いです。その時彼は大学生でした。
 大学を出て、KLMの社長秘書を何年かやり、あとコンピューターソフトを後進国の航空会社に売る部門に移ります。その後、KLMをやめてABNアムロ銀行の副頭取になります。ヘッドハンティングされたようです。でも数年してここを止め、どぶのゴミから宇宙のゴミまでを扱うというゴミ処理会社に移ります。アムステルダムの家からプラハの隣町Bruno(ブルーノ)に移り住むことになりました。
 ここに行ったとき、ぼくは彼に乗馬したいからどこか探してくれと頼んだのです。

パベルの勇姿で、フェースブックに載せている。

パベルの勇姿で、フェースブックに載せている。

 それで行ったのは、森の中にある乗馬クラブでした。この時初めて、長靴の乗馬靴を履かされたのですが、脚を入れるのに大変苦労したのを覚えています。女性のインストラクターがけっこう厳しく指導してくれました。別の馬場では、若い女性が障害を飛ぶ練習を繰り返しており、彼女は間もなくの競技会に出るのだということでした。
 アメリカでは、何時間もかけて原野を歩く乗馬を何回もしたことがありましたが、こんな具合に細かな姿勢などを指導されたことは初めてでした。
 その頃、バペルはぼくのバイク仲間でしたが、乗馬にはなんの興味もなかったと思います。それが今では大変な凝りようで、自分の馬を持ち障害競技をやったりしています。

 その後のチェコでの乗馬で、よく覚えているのは息子の結婚式のときのものです。
 息子がどこか外国で結婚式を挙げたいといい、それはシンプルでいいとぼくも賛成したのですが、彼は付け加えてパキスタンは駄目とと言いました。アメリカはどうだと聞いたのですが、アメリカも駄目だと言います。ちょうどその前年、アメリカの友人のクリスの結婚式の招待を受けたのですが、なにか予定がつかなかったので、名代で息子をサンフランシスコに遣わしたのです。その時の経験から、「あんなハリボテみたいな教会は駄目」と彼は言います。
 パベルに相談したら、ヨーロッパのどの国でも何ヶ月かの居住履歴が必要だということで駄目だけれど、プラハでは可能だというのです。
 ただ手続きが大変で、新郎新婦が独身であるとの証明を法務局で取り、これをチェコ語に翻訳した書類を作成しなければなりません。その他にも色々の手続きが必要でしたが、でも、これまで何回も難しい登山申請を繰り返していたぼくにとってはあまり大したことではないように思えました。最終的にはプラハの結婚庁に出頭して、口頭での申請が必要でしたが、これにはパベルが同行して通訳してくれました。
プラハ旧市庁舎の天文時計。後ろに見える尖頭の教会はコペルニクスがいたと言われている。

プラハ旧市庁舎の天文時計。後ろに見える尖頭の教会はコペルニクスがいたと言われている。

 そんなわけで、日本人としては初めての結婚式を、プラハのあの天文時計のある旧市庁舎で挙げさせることが出来ました。パベルは中学の時、プラハの春を契機に亡命を決めた有名な脳外科医の両親とともにオランダに逃れました。ソ連邦は崩壊したといはいえ、チェコに戻って結婚式を挙げるわけにはいかぬという事情があったようで、ぼくの息子の結婚式に必要以上の思い入れがあったようでした。
 この結婚式、テレビこそ来ませんでしたが、新聞の一面には「地球の裏側からイエスと言いにきた」と言う見出しで乗りました。京都市がプラハと姉妹都市を結ぶ一年前のことでした。

 結婚式の前日には、男性と女性がそれぞれの集団でパーティーやイベントを別々にやるというのがヨーロッパの習慣のようです。ともに独身最後の日を祝うという主旨のようで、大いに騒ぐ。
 このパーティのスケジュールには男性女性ともに乗馬が入っていました。なかなか立派な乗馬クラブでした。
パベルの馬

先日息子が送ってきた写真のパベルの馬

 この時の乗馬で、馬場を周回していた時、突如馬がけつまずき、ぼくはもんどりうって前方に投げ出されたのです。一回転して尻餅をついたという恰好で、問題はなかったのですが。
 それで、終わった後で、一緒に走っていてくれたインストラクターの女性に訊いたのです。
「どうして馬がけつまづいたのか」
 彼女はあっさり答えたものです。
「あなただってけつまづくことあるでしょ」
 言われてみれば、その通りでした。
 この乗馬の後、全員でシャンパンを飲んだのですが、これがぼくの落馬で振る舞われたものであることを、何年も後になって知りました。そういうならわしなのだそうです。
 ぼくの孫はそういう結婚の経緯からプラハにちなんだ名前がつけられているのですが、高校生になった彼をつれて、息子一家はいまプラハやパベルの住むブルーノを訪問しており、「パベルの馬の写真」を送ってきました。

 1981年ぼくは、中国の新疆省にあるコングールという山に行くことになりました。この山のベースキャンプのそばには、キルギス族のパオの集落がありました。彼らは馬を持っておりました。少し小型でおとなしく乗り易い馬でした。特に鞍というものはなく、ほとんど裸馬といっていい状態で、ぼくは彼らから乗馬を教わったのです。
 左手でたてがみを掴み、腹這いになると、脚の指先が脇腹の後ろに来ます。この指先で合図して馬を動かすのです。
 こうした乗馬姿勢が身に付いて、前屈みの癖が付き、その結果プラハでの落馬につながったのかもしれません。
 この遠征では、二つのルートからの登頂を目指していたため、二つのベースキャンプをしょっちゅう往復しなければなりませんでした。往復には2日かかり2日間の馬の旅でした。増水した川で馬もろともに流されたりするような経験もありました。
 でも、この連続した馬の旅で、不思議なことにずっと調子が悪かったぼくの膝が良くなったのでした。
天山山脈にて

天山山脈にて

 不思議なことに、これだけ馬に乗っていたのに、その写真がないのです。
 あるといえば、その何年か後に、まだ解放されていなかった天山山脈の国境の町・伊里などを訪れた時の、秘密の旅での写真だけです。
 この多分、白石といったと思うのですが、その牧場のキャンプ場のパオで何日かを過ごした時に馬に乗る機会がありました。
 その日は競馬があった日で、馬は出走した後だったらしく、えらく興奮しており走りすぎるので、押さえるのに苦労しました。あまり楽しい乗馬ではなかったような記憶があります。

日本では望むべくもない乗馬です。

日本では望むべくもない乗馬です。

 つい最近になって、乗馬を始めました。そんなことどもについては、次稿に書くつもりです。
 いま、このブログのアップを知らそうとフェースブックを開いたら、パベルの一時間前のこんな写真が上がってきました。友人と二人で遠乗りに出かけているようです。
 チェコに行きたくなりました。