WOWOWのドラマW『沈まぬ太陽』

 先頃からWOWOWであの有名な『沈まぬ太陽』が連続ドラマWとして放送されている。
 WOWOWの連続ドラマといえば、他にあの「ツインピークス」の放映も始まった。このいずれにも、ぼくはけっこう特別な思い入れがある。「ツインピークス」については別項に譲るとして、ここではあの『沈まぬ太陽』について書くことにしよう。
 
 1965年の春のことだったと思う。ぼくは京都府山岳連盟派遣の京都カラコルム・ディラン峰登山隊の先遣メンバーとしてパキスタン(当時は西パキスタン)のカラチ空港に降り立った。
 確か前年にその規制は緩和されていたとはいえ、スポーツのための外貨の持ち出しは制限されていたから、特別なルートを使って外貨を獲得しなければならなかった。
 全ては今では考えられないようなことばかりだった。登山隊の装備は数トンに及び、それは半年前に神戸港を出てカラチ港に入る船便が使われた。隊員は飛行機で南回りのルートでカラチに向かう。
 当時はジャンボ旅客機はなかったし、伊丹空港の周りは鉄条網の柵で、見送りの人たちはこの柵の外から手を振ったのだ。
 先遣隊は本隊より半年近くも先に出発し、現地の状況を調べたり、船便の到着を待って、陸揚げを行うという任務があった。パキスタン側から同行する軍人の連絡将校と人間関係を作っておくことも重要な仕事だった。ぼくが、初めての外国であるパキスタンに飛んだのは、1965年のことだった。
 
 伊丹を発って香港で一泊し、そしてカラチについて、独特の匂いを含んだ熱風の中に降り立ち、パスポートコントロールへ向かっていると、一人のコンブレを着た日本人が足早に近づいてきた。色は浅黒くキリッとした体型で、ひときわ目立つビジネスマン風の男性だった。彼は唐突に「ドルは持ってますか?」と尋ねてから、「日航のおぐらです」と名乗った。
「はい、持ってます」

当時のケントはもっと真っ白の箱だった。

当時のケントはもっと真っ白の箱だった。

 彼はポケットから取り出した三つ四つのケントの空き箱を渡し、「すぐにトイレに行ってこれに隠して下さい」と緊張した声で言った。
 固定相場制の当時、円を高レートでドルに変えるためには、香港でマネーチェンジをする必要があった。レートは日々変わる。いわゆる現在の変動相場制で、香港のみでそれが可能だった。こうしたドルをパキスタンに持ち込み、闇レートでルピー交換すれば、通常の円⇨ルピーの数倍の交換が可能だった。香港のレートはいくらで、パキスタンでの闇レートはいくらかを調べることは、先遣隊の最初の仕事だった。

 慌ててトイレに駆け込んだぼくは、焦りながらドル札を折りたたみケントのハードボックスに詰め込んだ。なんでも昨日、一人の日本人が大量のドルを持ち込んだのが発覚して、没収されたのだそうだ。小倉さんはそれで緊張したのだと思った。
 彼の助けで、無事入国を果たしてから、小倉さんはぼくたちをホテルに案内した。たしかタージ・ホテルといった。彼はウルドー語はほとんど使えず、英語で伝えるのだが、それがまたあまり伝わらないので、「ティケー」「ティーケ」とやたらウルドー語のOKに当たる言葉を連発しているのが印象的だった。
 どうしてそう感じたのかというと、ぼくはその時すでに1年以上ウルドー語の勉強を続けており、東京オリンピックに来たパキスタン人とも片言の会話を交わしたりしていたし、少しはわかる段階に達していたからだと思う。
「高くなくてまあまあのホテルです」 
 そう言って彼は帰っていった。

 翌日早朝小倉さんはホテルにやってきた。
 「アナカンの荷物が着いてます。一緒に取りに行きましょう」
 車を発車させるとすぐ、彼はダッシュボートを開けてネクタイを取り出すと、それを着けるようにぼくにいった。
 「いや、ネクタイをしてないとこの国の空港ではまともに扱ってもらえないんです」
 ぼくのその時のいでたちといえば、ショーパンにポロシャツにゴム草履だった。その格好でネクタイとはなんとも珍妙な服装ではあったのだが、それでも空港の税関ではまともに扱ってもらえたようだった。
 この経験は後々大いに役立った。4年後のスワット・ヒマラヤへの遠征では、隊員には全員スーツを用意するように命じた。カラチで書記官のイマガワ氏のお宅に伺うときは、いつも全員スーツを着用した。イマガワ夫人は、
 「やはり京都の方は違いますねぇ。皆さん登山隊の方はポロシャツにショート・パンツですよ」とえらく感心してくださった。大使館にあったランドクルーザーを全行程で使うことができたのは、もしかしたら、この服装にあったのかもしれないと思ったことだった。

 小倉さんが、『沈まぬ太陽』に描かれたような事情で、カラチに赴任した直後であったというようなことは、その当時のぼくには知る由もなかった。
 でも思い出してみると、隊長のコタニさんが、彼の会社はJALのボーディング・カードを印刷していたからJALには詳しかったのだが、かばん持ちであちこちに随行しているぼくに、
 「JALの松尾社長はね、大変包容力のある人で、活動家でも入社させたりするんだよ」
 そんな風に語ったのを聞いたような気がする。
book 山崎豊子の『沈まぬ太陽』が発表され始めたのは、あの時から30年もあとの1995年のことだった。読みながら、30年以上も前のことを思い返していた。そうだったのか、小倉さんは大変だったのだなと思った。カラチ勤務の後、小倉さんはカイロ支店に転勤になったということは小説を読んでわかったことだった。
 そういえば、ディラン隊の隊員だったツチモリ君がカイロを訪れ、小倉さんに会ったと話したことがあったのを思い出していた。
 「オグラはん、おっきな家に住んでて、塀の上にビール瓶並べて、それライフルで撃って遊んだはった」

 ぼくが小倉さんと接触したのは、カラチに着いた直後の数日だけで、以後あまり会ったという記憶はない。ぼくは毎日のように大使館に行き、書記官のマキウチさんと行動を共にしていた。彼はこの国での振る舞いを教えてくれる導師だったし、なによりウルドー語の先生でもあった。
 小倉さんは間違いなく、登山隊の面倒を見るように本社から指示されていたと思われるのだが、面倒を見れるような状況ではなかったと言えるだろう。
 日本人が集まるジャパン・クラブという建物があり、そこではうどんなどの日本食を食べることができた。ここの管理人は島津日本大使の、たしか甥にあたる人で、彼からは回教や回教徒についての様々な知識を教えてもらった。
 50年代の朝鮮戦争によって起こった糸偏景気はもう終わっていたけれど、カラチには綿紡10社の支社や商社が揃って活発な活動をしていた。こうした商社の支店長や職員の奥様は、常に集まり、いわばカラチ村を形作っていた。商社のバラ・サーブ(支店長)たちは、ことあるごとに毎週のように寄り集い、ガーデン・パーティを楽しんでいた。ぼくも毎週のようにそうした集まりに招かれた。
 こうした閉鎖的な村社会の様子を、ぼくはいろいろと聞き知ることになったのだが、小倉さんの奥様の話をよく聞いた。それは常にあまり好意的なものではなかった。

 初めて小説『沈まぬ太陽』を読んだ時、主人公恩地の細君についての記述に注目したのは、今言ったような事情があったからだと思う。
 細かなことは忘れてしまったのだが、恩地が組合の書記長を前任の先輩から無理やり譲られたのち、結構緊迫した何らかの理由でその先輩が恩地の家を夜に訪問する。恩地は不在で彼は帰宅を待つことになる。
 その時、彼は奥さんにビールがないかと尋ねる。恩地の奥さんの答えは、確かこうだった。
 「ごめんさない。ありませんの。主人は飲まないものですから」
 ぼくは、ああこれかと思った。ぼくには、これは信じられない答えだった。ぼくの女房なら間違いなく買いに出かけただろうと思った。奥さんについてどのような人でどのような経緯で結婚したのかなどは、作品には全く書いてなかったと思う。それはぼくには知りたいことだった。

 小説は大いに話題になったと思われるが、映画化されることはなかった。ぼくは、この小説が映画化された時はJALの体質が変わった時だと思っていいと、そう考えていたしそのように唱えてもいた。
映画『沈まぬ太陽』 2009年

映画『沈まぬ太陽』
2009年

 映画化されたのは2009年のことだった。この時に話題となったのは、作品の内容と実際との違いだったと思われる。しかし、これはあくまでも小説なのだから、実際と同じ部分もあれば異なる部分もあって当然だと思った。作者の山崎豊子はそうしたことに対して、一切コメントしていない。
 その頃もう完全に普及していたネット空間で、これらのテーマに関して数多くの書き込みが見られた。ほとんどはもう忘れてしまっているのだが、いくつか覚えているものがある。
 作者が取材を行った時、それを聞き終えてから、山崎豊子がこう叫んだというのだ。
 「もしそれが本当ならこの作品は成り立ちません」
 小倉さんは東大で第一回目の「駒場祭」の実行委員長を務めたのだから、活動家だったのは間違い無いと思われる。そしてJALに入社するのだが、卒業してから数年間の知られざる空白がある。これはぼくにとって興味あることだったのだが、ネットの書き込みでそれが判明した。
 卒業した小倉さんは保険会社に入りそこで組合活動を行う。奥さんとはその活動を通じて知り合い結婚したのだということだった。なるほどとぼくは納得したのだった。

ドラマ『沈まぬ太陽』全20話、一部二部に分かれている

ドラマ『沈まぬ太陽』全20話、一部二部に分かれている

 今回、WOWOW25周年記念として、この作品がドラマ化され今放映中である。全部で20話だから、放映時間は20時間に及ぶことになる。
 映画では3時間20分ほどだったから、それに比べて大変詳しく描かれることになる。そう思って少し興味を持った。
 確か二回目だったと思うのだが、左遷された任地のカラチが描かれる。
 かなりビックリした。おそらくカラチなどはロケを行うにはあまりに危険すぎるから、多分インドネシアかそういう辺りで撮ったのだろう。映像自体にものすごい違和感があった。それはまあ仕方がないとして目を瞑ることにしよう。
 しかし、カラチ支社にはなんと10人近い日本人スタッフがいるのだ。そんなことはありえない。多くても2・3人で、他は現地人スタッフであったはずである。だから、ドラマで描かれるように、カラチでいじめに遭うなんてことは原作にもないひどい創作であると思える。
 この辺で、ぼくは続けて見る意欲を失ってしまった。  

 なまじっか中身というか実情を知っていると素直に鑑賞できないという困ったことが起こるのは事実のようである。何も知らずに、細かいことには気付かずに、見事に信念を貫いた一人の男の物語として、鑑賞すればいいのだし、そしてどう考え、それを自分にどう活かしていくのか、あるいは見なかったかのように忘れてしまうのか、それらは全くのところ個人個人に任された自由なのだろう。
 小倉さんは数年前にお亡くなりになったようで、ネットで偲ぶ会に集まった人たちの紹介があった。みんな年配の人たちばかりで、あのカラチでの初めての出会いのシーンを思い出し、過ぎ去った長い長い時と通り過ぎた人たちを考えてしまったことだった。