『葉巻のけむり』のヘッダーの画像は、私の撮ったものが15枚ほどプールされていて、ランダムに表示されるように設定してある。
中には、なんのことか分かりにくいものもあるので、おりおりに説明文を書いて行くことにした。
パキスタンのフンザ周辺では、いまも薬用としてケシが栽培されている。子供の頃、風邪を引くとミルクに混ぜて飲まされた。よく効いたよ。ナジールはそういっていた。
中国から国境のクンジェラーブ峠(4800m)を越えてパキスタン側に走り下り、フンザ河に沿って
カラコルムハイウェーと呼ばれる舗装道路をしばらく走ると、左右に見上げる高さでカラコルムの岩峰が現れる。
ヨーロッパで最古の橋として有名なカレル橋。
2008年プラハからイタリア・リモネットに向かった。プラハに数日滞在の後、パリ経由でニースに向かったが、パベル夫妻とお別れの前に、川縁のレストランで食事を楽しんだ。『高田直樹ウェブサイトへようこそ』の「プラハからりもネット」(2008年春)の「カレル王の王冠」参照
この写真には、少々の説明が要る。
それは15年ほど前のこと。ぼくの還暦パーティが、1996年滞在3日のベニスで行われた。この時の最重要なプログラムの一つは、世界一といわれるオペラ座フェニーチェ劇場で、「蝶々夫人」を観ることだった。
ところが、ぼくたち一行が到着する数日前に、フェニーチェは火事で焼失した。でも公演は、少し離れた郊外に設置された大テントで行われた。
世界中のオペラファンの要望で、再建に向け募金が募られた。ぼくたちもいくばくかの寄金をした。
大分経って再建がなった。1年間は音響エージングにあてられ、音楽会などが行われた。ぼくは万難を排して新築なったフェニーチェのこけら落としに向かった。
出し物は『椿姫』。画像はその舞台の一つで、全面にお札が撒かれていて、話しの筋を象徴している。どんな演出も許されるのがオペラの興味の一つでもある。『高田直樹のウェブサイトへようこそ』にあるフランスからイタリアそしてフランス往復の旅参照
ベニスのゴンドラの舳先。ゴンドリエにはかっこいいお兄さんが多い。
ベニスは歳をとっても行けるところだと思う。ローマなどと違って土地にまったくの高低がない。たとえばローマでの上り下りは、年を取ったらかなりきついものになると思う。
何回目かのベニスで、夜ホテルの外へ出ると数人のゴンドリエが橋の袂で立ち話をしていた。一人が話しかけて来た。昨夜乗ったゴンドラのお兄さんだった。挨拶くらいしか出来ないぼくは、なんにも会話は出来なかった。
彼は、石橋の端の太い石柱を掌で叩き、それからぼくを指差し、そしてその柱にもたれかかる仕草をした。
多分ぼくを頼りにしている、あるいはあなたは信頼できるということを伝えようとしたと、ぼくは勝手に理解したのだが。それにしても、外国人のボデーランゲージでの表現の豊かさには感心させられた。
京都四条花見小路下ルの祇園甲部歌舞練場でのスナップ。舞妓さん、芸妓の踊り。地方さんの一糸乱れぬ演奏は見事。
「都をどり」は、祇園甲部の舞踊公演。1872年(明治5年)に始まり、2011年で139回を数える。
それにしても、どうして「都おどり」ではないのか。これはずっと前からの疑問だった。調べてみたら、こんなことが分かった。
1946年11月15日までは、「踊り」の表記は「をどり」だった。踊りに限らず、
男は「をとこ」女は「をんな」乙女は「をとめ」青「あを」など全ての「お」は、
「を」と書いていた。だから、都をどりだった。
たぶん、日本人は古来、「odori」ではなく「wodori」と発音していたのだろう。
1946年(昭和21年)は大変な年だった。年頭に天皇陛下の人間宣言、秋に教育勅語廃止、年末には日本国憲法が公布された。
このGHQ占領政策下の11月15日に、内閣告示によって当用漢字の制定とともに表記の変更も行われたようだ。
珍しい彩雲の写真。でもこれは、ぼくが撮ったものではなく、教え子の佐々木君が池の平に裏劔を撮影に行った時の作品を頂いた。
ほかに、まるで赤富士のような裏劔の写真も載せたが、枠の関係で池に写る逆さ劔はカットせざるをえなかった。
(続く)