『なんで山登らへんの』の転載を終えて

『なんで山登らへんの』の転載を終えて

 23回に亘った『なんで山登らへんの』の転載が終了した。
 この記事は1996年から97年にかけて、〈山と渓谷〉誌に連載したものだった。
山渓連載の記事はいつも、終了後すぐに単行本になっていたのだが、なぜかこれは例外だった。
 1996年とか97年といえば、いまから15年前になる。ぼくが高校教師を止めたのが、1990年。
 当時の世界の状況を見てみよう。
 80年代に入ってドルの信用低下に不安を覚えた先進五カ国は、円高ドル安に誘導する為、アメリカ・ニューヨークのプラザ・ホテルに集まった。この1985年のいわゆる「プラザ合意」によってドル安円高が起こり、これを防ぐべく日本政府がうった過度な対策の結果、バブルが発生した訳だ。
 でもこうしたことは、後になってわかる訳で、その当時はそんなことはなにもわからず、54歳のぼくは、宮仕えを止めて自由の身になってなんとなくおおはしゃぎ。円高のうまみを享受しながらアメリカヨーロッパと渡り歩いていた。
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僕にとって、山は人生の最高の学校でした(1997.3.1)

なんで山登らへんの 最終回 1997.3.1
体験的やまイズムのすすめ

 ぼくはいま、岐阜と長野の県境にある御嶽山のスキー場に来ています。
 昨年の暮れ、例によってニセコの初滑りに出かけ、あまりの快調さに悦に入っていました。
 新年会で「新雪が最高だった」としゃべったら、みんなが「いこう」「いきましょう」と一気に盛り上がったのでした。
 宴会は、昼過ぎの祗園のとり鍋で始まりました。夕方の二次会は伏見の寿司屋に移りました。夜半近くの三次会は京都駅近くのホテルのバーで、人数は15人ほどになっていました。このときになって、スキーの話が再燃したのです。2月に入らないと休みが取れないという者と、それまで待てないとする人がいて意見が割れています。
 「どっちも計画して、行けるもんが行ったらええやんケ」
 と、ぼくがいったので、そういうことになったようでした。
 教え子で市会議員のカメさんが、「2月なら信州の別荘が借りられる」といい、場所は自動的に決まりました。八方か五竜遠見スキー場で滑ることになります。
 1月の方をトッツァンに頼まれたぼくは、インターネットを見て回り、八方より近場で雪質が良く、新雪も楽しめそうなこのスキー場を探し出したという次第なのです。
 ぼくがインターネットから打ち出した宿のリストを片手に、トッツァンは順番に電話して訊いています。
 「あのう、盲導犬は連れてゆけますか」
 盲導犬が許されるなら、もしかしたらビータスも同伴できるかも知れないとぼくがいったからです。結果は、全て駄目だったようです。答えの中には「身障者は困ります」というようなのもあったそうです。
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憧れの小屋泊り縦走で出した、ぼくの答え(1997.2.1)

なんで山登らへんの 第22回 1997.2.1
体験的やまイズムのすすめ

 縦走というのは、山頂と山頂をつなぐ山登りの方法です。
 ヨーロッパの高山、ヨーロッパ・アルプスの場合、縦走はより難しく、だから初縦走が行われるのは、それぞれの頂の初登頂が行われた後のことだったようです。
 日本の高山、日本アルプスでは、氷河はなく、樹林限界を抜けたばかりの山なので、初登頂などということは、日本登山界の記録以前に行われてしまっていました。
 奈良時代に伝えられたという修験道の行者は、燃えるような宗教心を持って、日本アルプスの高山の頂を目指しました。さらにはもっと以前から、そこアルプスの山域は衿羊や月の輪熊あるいは野兎を狩る猟師たちの活動の場でした。
 3000m近い連山の峰々を辿るというような山登りは、山頂近くまで樹木があって可能だったといえるでしょう。
 もう40年ほども前、ぼくが大学の山岳部に入った時の顧問のガメさんは、今西錦司の先輩だったという名物教授でした。彼は、ぼくの北アルプス縦走計画を見て、
 「縦走か。そらええわ。わしら昔はなぁ、おめぇ。あのへんは行ったり来たりで、山の上になん週間も居座っとったもんや」
 「食うもんヶ、そんなもんおめぇ、人夫にゆうたら味噌やら米やらなんでも麓から担ぎ上げて来よる」
 日本の山では、3000mの稜線といえども、這い松の下に潜り込み、油紙をかぶっただけで、雨露をしのげたのだそうです。
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百名山に登る意味って何です?(1997.1.1)

なんで山登らへんの 第21回 1997.1.1
体験的やまイズムのすすめ

 高校生の頃、定期試験の前になったりすると、決まったように無性に本が読みたくなったりしました。
 かっては全然面白くなかったので、途中でほっぽりだしたものであっても、不思議なことにこれがやたら面白くて、止められなくなる。
 困ったぼくは、試験期間中は、押入の上段に机と試験科目の教科書と参考書だけを持ち込んだものでした。
 不思議なことに、この連載原稿の締め切り間際になるといつも決まったようにぼくのマックが不調となるのです。
 今回などは強烈で、家のⅡfxとオフィスの7500が相次いでおかしくなりました。
 Ⅱfxはもう10年以上も経ったマシンです。値段は当時なんと100万円以上もしました。もともとはマックⅡで、後に新型のⅡfxが出たときに、ボードを差し替えてⅡfxにアップグレードしたのです。
 その頃、マックといえば、いわゆるディスプレー・本体一体型でした。
 はじめて本体と分離された型のマックⅡの専用のディスプレーはまだ輸入されていませんでした。通の人はもっぱらソニーのディスプレーを使っていました。
 もっともアップルのディスプレーはソニーのOEMでしたから、それでなんの差し支えもなかったのですが……。でもぼくは純正のディスプレーが欲しかった。大阪の支店長に掛け合っても、あまりらちがあきません。
 東京のパーティーで行き会ったアップルの社長に頼むと、あっさりと引き受けてくれました。(注:この人現在のマクドの社長さんです)
 ついでにいうと、今ではごく普通の3・5インチのディスケットは、そのころはマックでしか使われていませんでした。マックを作ったスティーブ・ジョプスが日本に来て、当時ソニーでまだ試作段階だった、この恐ろしく小型の記憶媒体の採用を決めたという話です。
 当時、ぼくはまだほとんど実務の実用とならないマックを「極めて教育的マシン」として、みんなに推薦していました。だから現在ぼくの周りの人間は、ほとんどがウィンドウズもマックも使えます。ぼく自身は、五年ほど前から、ほとんどマックになってしまいました。
 大学の夏期集中セッションの時と、ウィンドウズソフトの開発の時以外、ウィンドウズはほとんど使いません。
 独断と偏見の大家を自認するぼくとしては、マイノリティであることのほうが、どうしようもなく気色がいいのです。
 Ⅱfx不調の原因はどうやら内蔵のニッカド電池の消耗のようでした。
 ほとんど同時に二台のマシンの機嫌を損じてしまったぼくは、そんなこと出来るわけもないはずなのに、「まあやりながらでも構想は練れるやろ」とハードディスクのフォーマットからやり直して、マック二台のシステム・インストールを始めたわけです。
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ビータスが死んだ(2006.8.7)

mixi日記2006年08月07日06:37より転載

ビータスが逝ったのは、2006年7月12日の夜。
生きておれば、今日が誕生日で14歳になるはずだった。
ゴールデンのような大型犬は短命なので、13歳は人間でいうと96歳に相当する。天寿を全うしたといえるかもしれない。
山登りを続けてきた結果、ぼくは若い頃より普通ではない数の人の死に立ち会ってきた。
しかし、こんな感じの強烈な喪失感を味わったのは初めてのことだった。
思い出したり、文字にしたりするだけで、もう涙があふれそうになり、胸が詰まってくるので、話すことさえ出来なかった。

一ヶ月近くがたち、漸く文字にすることが出来るようになったといえる。
ビータスはゴールデンレトリーバーという犬種で、彼のお父さんは、通称「フリスコ」で日本中に知られた有名な犬だった。
BITASと綴る。これはボニート、インテリジェンテなどスペインン語のいい単語の頭文字をとったもので、スペイン語科卒の末娘が名付けた。
その名前通りに、いいやつで賢かった。トイレから「ビータス、しんぶん」とどなると、新聞をくわえて持ってきてくれた。
寝るときを含めて、いつもぼくと一緒だった。
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雪の来た北山は犬一匹の寒さです(1996.12.1)

なんで山登らへんの 第20回 1996.12.1
体験的やまイズムのすすめ

 いまやアウトドアブーム、中高年がRV車を駆って野山に向かう。また空前のペットブームのようで、ぼくの家の近くには、ペットの巨大なスーパーマーケットができています。
 RV車には大型犬を乗せて走るのがかっこいい。
 誰に聞いたかは忘れましたが、大型犬はいまやステータスシンボルなのだそうです。どうしてかというと、大きな家に住んでいないと大型犬は飼えないとみんな思っている。本当はそんなことはないのですが……。
 テレビにも犬の躾をテーマとしたものがそこここで取り上げられるようになってきたようです。これは明らかに大型犬のブームと関係があると思うのです。
 躾がされず訓練が入っていなくても、小型犬ならなんとかなるでしょう。でも30kgを超える大型犬はそうはいきません。勝手に走り出したら引きずり倒されてしまいます。飛びつかれたら突き倒されてしまう。
 少し場所を移動させるのだって、大型犬は押したくらいではびくともしません。どうしても、口で言って自分で動いてもらうしかないわけです。
 何時だったか、浜松の有名な犬の泊まれるペンションでのことです。ある若夫婦がラブラドール・レトリーバーを連れてやってきたのですが、その犬は、がんとして二階に上がることを拒否し、どうしようもなくて二人は、前と後ろを抱えて運び上げていきました。
 そういうわけで、躾が必要となるのですが、ここで、極めて日本的な形で犬の学校が登場します。つまり、本来家庭でやるべき事を学校に押しつけているのが日本だからです。
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ベニスの片隅で蘇る、ずっと昔の気持ち(1996.11.1)

なんで山登らへんの 第19回 1996.11.1
体験的やまイズムのすすめ

 ヨーロッパから帰ってきてすぐ、ぼくはBMWのバイクを買いました。
 オランダのフリーウェイを、レンタルしたBMWのK75RTというバイクで走って、そのすばらしさに心底感動したからです。
 ぼくのZZR1100というカワサキのバイクだと、180キロほどもスピードが出ると、もう大変。激しい風にヘルメットは突き動かされ、必死に首の筋肉をかためるかカウリングの内側に突っ伏さないといけません。スピードメーターを見る余裕もないくらいになります。いくらメーターが320キロまで切ってあるとはいえ、それはほとんど飾りとしか思えません。
 ところが、この古い型のナナハンBMは、180キロを越えても首の周りはまるでそよ風、馬に乗った様な姿勢のまま実に悠然としたドライビングが出来るのでした。
 R1100Rというネイキッド(カウリングのない)BMWに乗ったナオトが、「やっぱりBMはちゃいますなあ」と感心しています。
 ずっと昔に試乗したBMWのバイクはこういう感じではありませんでした。「なんといってもやっぱりバイクは日本製」と勝手に思いこんでいた自分の不明を恥じる思いだったのです。
 その夜のバーベキューの椅子で、
 「日本に帰ったらBMWを買おうと思うんだ」というと、パベルは我が意を得たりという感じで、
 「ぼくは、きっといつか君がBMWのバイクを買うことになると確信していたよ」といいました。
 そばの奥さんが、「おとうさん、お金はどうするの」と尋ね、ぼくは思わず返答に窮したのです。
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剱岳源治郎尾根Ⅰ峰の夏、還暦ヨーロッパの夏(1996.10.1)

なんで山登らへんの 第18回 1996.10.1
体験的やまイズムのすすめ

 いまから数えてもう十数年も前のことになりますか。そのころ急に右腕が上がらなくなりました。腕を上げようとすると肩に激しい痛みが走ります。
 バイクで走っていて、ピースサインの対向車にVサイン、「アイター」とバイクがよろけ、こけそうになる。
 「どうやら四十肩らしい」と言うと、「五十に近いのだから五十肩でしょう」といわれたものでした。
 この五十肩、医者にいっても針灸に通ってもなかなか治りません。もう岩登りもできんのかな、と思い始めた頃から快方に向かい始めたようでした。
 ちょうどそのころの夏の終わり、剱沢から電話が入り、「ぼく暇になりましたし……」。
 教え子で京大山岳部員のタケダ君からで、
「よっしゃ分かった」とぼくは二つ返事で、
「テント張って待っててくれ」とザックに一升瓶2本とつまみを詰め込むと汽車に飛び乗ったのでした。
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ぼくが望む死のデザイン(1996.9.1)

なんで山登らへんの 第17回 1996.9.1
体験的やまイズムのすすめ


 朝起きて人は朝刊を読む。でもぼくの場合、寝る前に朝刊を読むのが常です。
 決してすがすがしい気分でもなく、なかばボーとして、ぺらぺらとぺージを繰りながら、タイトルを見てゆくという感じです。昔からの習慣のせいかスポーツ欄はまず見ません。
 不思議なことにこのごろは、昔はおもしろくもなんともなかった一面に面白いタイトルが並んでいると思うことが多いのです。
 さきごろのリヨンサミットの時などは、日本の首相もようやく平常の構えで振舞えるようになったと、そのパフォーマンスのような写真を見ながらうれしく思ったのです。これまでの首相は、みんなまるで中国の高官のように、やけに構えてこわばった笑顔あるいは変に尊大な態度などが多いように思っていたからです。
 もっとも、あまりに明るすぎるのか、深刻な表情の他国の首相と対照的で、いまの世界が直面している大変な状況の理解が、もしかしてちょっと少ないのではないかしらと、ほんの少々心配になったのですが……。
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日本人が失ったもの、それは自己責任やないか(1996.8.1)

<高田直樹ウェッブサイトへようこそ>と同時掲載
なんで山登らへんの 第16回 1996.8.1
体験的やまイズムのすすめ

 外国にしばらく滞在して、日本に帰ってくると、普段は何ともないことが、やたら気になったりする。
 ヨーロッパから帰ってきて、気になるのが町中に林立する電柱と、クモの巣のように走る電線。
 いつだったか、パキスタンから帰ってきてすぐの頃のことです。京都の町なかの細い路地から空を見上げたとき、その電線の絡み具合が、ラホールのオールドシティのスラムの路地の電線を彷彿とさせるものだったので、驚くと共に何となくめげたのでした。電柱にしても、日本の細い道を車で走りながら、この電柱がなかったらどんなにスムーズに走れるだろうといつも思うのです。
 ヨーロッパでは、ふつう、駅に改札がありません。チケットは車掌がチエックする。
 町なかの市電や市バスなどでは、乗車券はだいたい自己申告で勝手に支払う。もちろん抜き打ちの検札があるようですが、でもあんまりただ乗りをする人もいないようです。
 もし日本で同じシステムにしたら―まず絶対にそうならないでしょうが―みんな平気でただ乗りをするかも知れません。
 日本でも無人のシステムとしては、産地のみかん販売所などがあるけれど、意外にほとんどの人は正直にお金を払っているようです。
 ミカンを取って、お金を払わなかったら泥棒。でも身体の移動というだけの形にならないものには、お金を払わなくても平気ということなのでしょうか。形のあるものにはお金を払うけれど、形のないものにはお金を払う気にならない。
 日本の都市では、この頃になってようやくヨーロッパのようにパントマイムやフォークソングなどの大道芸で、お金を集める外人がちらほらと見られるようになりました。観察しているとずっと見ていてお金は投げ入れない人がほとんどです。
 ただ食いはいけないけれどただ見は許されるということなのでしょうか。
 食べた分だけのお金を払わないといけないように、見た分聞いた分だけのお金も払うべきだというのが世界の常識。ただ、それに価値を認めなかったら払う必要はないのです。
 物にしか値段の付けられない日本人は、チップに関しても、それが習慣とかマナー・儀礼のように思ってしまう。それが、自分が受けたサービスの質を自分自身が判断評価して支払うもの、あるいは一種の評価システムであるというような理解などまるで無く、至る所でお札をふりまき、馬鹿にされ、ぼったくられる存在となる。
 ここでぼくが述べていることは、日本人のソフトウェア音痴ということなのでしょうか。
 目に見えない物を、お金に換算する能力、あるいはそうした価値判断の基準となる個人としての自己がない。
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