熟成肉「中伊勢」の作成始末

「ぼんよ」と祖父は幼いぼくに声をかけた。
 「肉を焼いてやる」と出刃包丁を片手に土間の西の戸を開けると、母屋の西隣の小屋にぼくをいざなった。天井に跳ね上げてある吊り梯子を下ろして上に登っていく祖父を追って、ぼくは必死に急な梯子をよじ上った。
 屋根裏部屋の梁には,大きな牛の脚がぶら下がっていた。
 それは密殺された牛の脚だった。牛の屠殺は公認された屠殺場以外では許されてはいなかったが,戦時中の食糧難の農村では密かな屠殺が行われ、それを密殺と称していた。
 こうして、竃の火で焼いた大きな肉塊を日常的にぼくは味わい、その深みのある味わいは、幼いぼくの幼児の記憶として残ったといえる。

 30年以上も前に始まった「北山パーティー」の春のメニューは、当初は山菜の天ぷらがメインだった。やがて「たらの芽」などが、スーバーの棚に並ぶようになるとともに、採集がきわめて困難となり,メニューはステーキとなった。
 そうなると、おいしい肉を選択する必要に迫られることになった。
 最初は,神戸肉とか松阪牛、いや近江牛などと選んでいた。
 あるとき、郷里のるり渓に帰る途中、八木のスーパーに立寄り、すき焼き用に亀岡牛を買い求めた。そのスーパのお肉屋さんで、「すき焼き用にお肉をください」といい、「手切りにしてほしいんだけど」といった。
 お店のマスターは、「そうですか。まあこっちに入ってください」とぼくを、冷蔵室に入れてくれたのだった。
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