たぶんそれは、ぼくがまだ30歳になっていなかった頃のことだったと思う。
親父が、シラビソの樹が欲しいのだが、手に入らぬだろうかと尋ねた。庭に植えたいのだという。
シラビソというのは、ぼくの知る限り、北アルプスの2000メートルあたりに生えている、クリスマスツリーの樹で、そんなものが、田舎の家の庭に育つとは思わなかった。
シラビソは、ぼくたち北アルプスを歩き回るものにとっては、たいへん親しみ深い樹なのであった。
たとえば、夏山で有峰から薬師岳を越えて剱岳まで縦走しようとすると、薬師の樹林限界を抜けるまで、薬師を下って、上の岳から五色が原に至るまで、ずっとこの木々を見ることになる。
雪山では、その根っこは必ず枝の間が空洞になっており、非常時のビバークに都合よい場所を提供してくれるのだった。
大辞林によると、しらびそは白檜曾などと難しい漢字を用いている。
マツ科の常緑高木。本州中北部の高山に群生し、高さ20メートルにも達する。樹皮は灰白色、葉はモミに似るが、短く密につく。雌雄同株。6月ごろ開花し、まつかさに似た実がつく。材は建材・パルプなどに利用する、とある。
ぼくは、山岳部の後輩で、山に近いからと富山県県庁の林務科に就職したヨシユキに頼んでみることにした。彼が、有峰の事務所に配置されたことを聞いていたからだった。
彼は快諾してくれたが、しばらく時間がかかるといった。この時、ヨシユキはその木のことを「オオシラビソ」と呼んでいた。ぼくもそのままの口移しで、オオシラビソと言ってきたのだが、シラビソとオオシラビソは同じなのか違うのか知らなかった。いま、ネットで調べると、同じものともいえるが、同じではなかった。
シラビソは、主に太平洋側の雪の少ないところに生育するが、オオシラビソは日本海側の雪の深いところに生えるという。
数か月して、一澤帆布店のサブ・ザックを担いだ彼が現れた。根元だけでザックはいっぱいになっており、小さなクリスマスツリーが枝をのぞかせていた。小さな苗樹を見つけ、周りを掘り割り、そのままにしておくと、根から小さな根が生えだすという。そうした準備をしないと根付かないのだそうである。樹の部分は30センチほどなのだが、根元は大きな球状になっており、荒縄でぐるぐる巻きにされていた。
それは、茶室の中門風に作られた格子戸から玄関に至る道の傍らに植えられた。
1年そして2年が経った。オオシラビソは順調に育っていた。3年目に入り樹高は1メートル近くになった。ぼくは、こんなところでも育つのだと、ほとんど信じられない気分で、親父からの報告を聞いていた。きっと後輩の彼の根切りが功を奏したのであろうし、有峰の山の土をそのまま纏ってきたのもよかったのだと思った。
1971年、その年ぼくは、ソ連のコーカサス山脈に出かけた。ソ連邦は、プロスポルトという国際的なスポーツ組織を作っていて、各種スポーツで世界各国と交流を図っていた。日本では、総評が選手交換協定を結んでいた。日本からはウクライナのコーカス山脈の登山、ソ連からのアルピニストは日本の山に登るということが行われていた。
日本の山の組織は伝統的には日本山岳会が代表とされていたが、それは明治時代にイギリスのアルパインクラブを模して造られたというだけで、日本を代表するものではないということが言われていた。
そこで、日本の大学、社会人の山登り集団をまとめる組織として全日本山岳協会が組織された。日本の山岳集団の中で当時最先鋭を誇った同人組織の「第二次RCC」があった。
ソ連と選手交換を行っていたのは、この「第二次RCC」だった。その年は3回目のコーカサス遠征で、チャティン・タウという難峰に挑むことになっていた。そして、どうしてかぼくに隊長を務めるように依頼があった訳である。
当時は、外貨が自由化されて間もないころで、外国に出かけるのは大変な時代だった。従って海外登山の経験を持つ人は、きわめて少なかったといえるなかで、ぼくはすでに2回の経験があった。これがぼくが隊長指名を受けた理由の一つだったと思われる。もう一つは、これが大変大きかったと思うのだが、東京では、戦後雨後の竹の子のように生まれた社会人山岳会が互いに激しい競争をしており、その中での隊長選出が難しかった。その点、京都という離れた場所にいて、あまりよく知られていないぼくが、適任とされたのではないかと思われる。
このぼくにとっての3回目の外国遠征は、山登り以外において、ソ連という国交もなく、当時ほとんど明らかでなかった未知の国への旅は、きわめて新鮮で、まさに目から鱗の体験を数多く得ることができたのだった。
一例をあげれば、小学校を見学したときのこと、廊下にずらりと張り出された全校生徒の成績の順位表を見たときは、衝撃を受けたものだった。それは、日本で考えられていたことの真逆だったのだ。
このぼくがソ連にいたちょうどその頃、オオシラビソが枯れたのだった。親父は驚き、たいへん嘆き悲しんだという。 彼は、間違いなくぼくに変事があり、日本に戻ることはないと思ったらしかった。 帰国して、オオシラビソが枯れたことを聞いた。たぶんその夏は大変暑い夏で、有峰生まれのオオシラビソには、限界を超えたのだろう。
オオシラビソは、全身を褐色に変色させて立っていた。やはり駄目だったのか。そう思ってしげしげと見ていると、その根元から約10㎝程の小さな木が生えているのに気付いた。
まことに小さくなよなよとした態だったが、その可愛い葉々は、その緑色をことさらに強調しているように、ぼくの目には映った。
その葉の形状からして、それがオオシラビソでないことは明らかだった。樹の種類を見分けるには、ふつう葉の形状を調べる。植物図鑑を頼りに、そのおさな木がブナであることを知るのにさして時間はかからなかった。
思い返してみると、たしかこのオオシラビソの苗樹が来たとき、その根元に可愛い双葉の植物があったような気もした。しかし、この記憶は確かではなく、その数か月のちに芽吹いたのかもしれなかった。
ブナといえば、ぼくの記憶にあるのは、白馬大雪渓・馬尻に至る猿倉からの道は、ブナの大原生林の中を進む。一抱え以上もあるブナの巨木が林立している。
剱・立山に至る弥陀ヶ原にも高度1000mを越えたあたりに、巨大なブナ林があり、ブナ坂やブナ平という地名になっている。
オオシラビソが2000mあたりブナが1000m、この違いが生存の分かれ目になったのだろう。
ブナは戦中戦後に乱伐され、代わりにより建築材として有用な杉の植林が推奨されたため、残ったものとしては、世界遺産に登録された白神山地のものが有名である。
ブナは秋になると大量の落葉を落とす。掃除が大変である。しかし、この落葉から生ずる腐葉土は、強力な保水材となって、地滑りや洪水を防ぐ重要な働きをしていることがわかってきた。
さらに、水の浄化作用もあり、ブナ林の再生によってサケの遡上がみられるようになった川の話を聞いた。
我が家のブナの樹は、この地方での生育の証明であり、あまり見込みのない丹波松茸を夢見ての松の植林よりもブナの植林がより重要なのではないかと思っている。
指折り数えるとこのブナの樹齢は43年になる。弥陀ヶ原のブナは300年以上だそうだ。我が家のブナは何百年生き続けるのだろうか。この樹を守るように子孫に言い伝えねばならないと思っている。