先日、京都烏丸通を歩いていて、小用を足したくなりコンビニに入った。
出がけにちらりと本棚を見ると、『日本の妖怪』という書名が目に飛び込んだ。よく見ると、その横には、同じ体裁で『哲学がわかる本』というのが並んでいる。
これはなんとも面白い。おおいに興味がわいた。「これを読めば“真理”がわかる!?」という副題がついた哲学の概説書が並んでいるのも、この取り合わせがおおいに面白いと思えたのだ。パラパラとページを繰ってみた。
『日本の妖怪』は妖怪の図録と解説であり、『哲学がわかる本』は、歴史上の哲学者の一覧と解説である。これはまるで、江戸時代の状況ではないか。
少し前にも書いたのだが、日本の妖怪を知ることは、日本の国柄・国体を知ることでもあると、ぼくは思っている。
また、世界の国の成り立ちや、現在の世界中の紛争の原因を知るには、国家や社会に対する考え方を知る必要があり、思想・哲学に対する理解がどうしても必要だと思っている。
この『哲学がわかる本』の目次を開くと、そのPart4として「”社会”とは何か?」という分類があり、そこには、「ルソー」、「マルクス」、「レヴィ=ストロース」、「フーコー」などが並んでいる。
それぞれの項には、まず見開きで全般的な記述があり、次の見開きには、「XXXXを知るためのツボ」という記事があって、これがなかなかよくまとめられている。
「ルソー」の項を見てみる。こう書いてある。<これをルソーは「一般意思」と呼ぶ。政府は常に「一般意思」をめがけて、社会を統治しなければならない>。ちゃんと「一般意思」についての記述があるではないか。もっとも、「全体意思」の記述がないので、それとの対比と比較がなく、ある意味ではおおいに誤解を与えている通説通りなのだが、これについては後ほど述べることにする。
行きつけの古今烏丸の喫茶店で、『日本の妖怪』のページを開く。見開きページに「日本全国妖怪マップ」の地図がある。京都府では、「酒呑童子」と「鵺」が上がっている。
夜に鳥と書いて「ぬえ」と読む。今日でも化け物の喩えとして多用されるようだが、平安時代の化け物で『平家物語』に取り上げられた。黒雲に向かって放たれた源三位頼政(源頼政)の矢で雲の中から落下したのは、鳥ではなくて猿の頭に、狸の胴、尾が蛇で、虎の手足を持つ化け物だったという。
その鳴き声がトラツグミ(鵺)の鳴き声に似ていたので、そういう名になったとされるそうだ。いったいどんな鳴き声なのか。気になったので、YouTubeに上がっていたトラツグミの鳴き声を聞いてみた。「ピー」とも「ヒー」とも聞こえるような鳴き声で、これを夜の暗闇で聞いたらちょっと怖いかも知れないと思った。
この平成の妖怪図絵は、第一章から第八章までに分類されていて、そのそれぞれは、「国民的有名妖怪」、「怖い妖怪」、「動物の妖怪」、「空と海の妖怪」、「地元の妖怪」、「家の妖怪」、「あやしい妖怪」、「おかしな妖怪」となっている。
先の「鵺」は「空と海の妖怪」に入っている。
平安時代の陰陽師・安倍晴明は、ドラマや映画でも取り上げられているから知らない人は少ないと思う。しかし、彼が狐から生まれたと知る人は少ないのではなかろうか。ぼくもうっすらとは知っていたが、この本を見て、その母は「動物の妖怪」に入る「葛の葉」であることを知った。
「人間と恋に落ちた狐」葛の葉の伝説を、ここに引用してみよう。
摂津の国阿倍野(現在の大阪府大阪市)に住んでいた安倍保名という若者は、日参していた信太森にある葛葉稲荷神社の帰り、森で猟師に追われていた白狐を助けるが、そのとき傷を負ってしまう。そこへ葛の葉という名の美しい娘が現れ、保名を介抱すると家まで送り届けた。実は葛の葉は、保名が助けた狐が化けたものだった。何度も保名を見舞ううちに二人は惹かれ合い恋仲となり、葛葉は保名の子を身ごもる。生まれた子は「童子丸」と名付けられた。
幸せな生活が続いたある日、葛の葉は狐に戻っている姿を幼い童子丸に目撃されてしまう。自分の正体を知られた葛の葉は「もう一緒には暮らせない」と涙をこぼし、障子に「恋しくば たずね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」と別れの歌を書いて、森に戻っていった。
その後、成長した童子丸は晴明という名前に改名し、もともと持っていた利発さと葛の葉が遺した宝玉の力を助けに、陰陽師として大成し、朝廷から認められて、天文博士の位につくのである。
この話は偉大な陰陽師、安倍晴明の出生譚であり、涙を誘う子別れの場面が印象的な伝説で、人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」をはじめ、さまざまなエンターテイメントの題材となっているわけだ。
ちょっと訳がわからず、驚いたのは、動物妖怪の「件(くだん)」である。人偏に牛と書く如く、人面牛身の化け物である。件は牛から生まれ、人間の言葉を話し、大きな災害が起こるという予言をして、数日すると死んでしまうといわれた。
件は、飢饉や病気の大流行など社会的な危機が起こるとき決まって現れるという。なんと第二次世界大戦中にも出現したといわれており、「大戦争と疫病で国民の大半が死ぬ」という予言が巷に流れたといわれている。
その予言は必ず正しく、間違うことはないとされた。だから、証文などの文末にこの内容には嘘偽りはないという意味で「よって件のごとし」と書くのだそうである。
ここに取り上げられている妖怪は112例で、こんな調子で紹介していたらきりがないので、もうやめにする。興味のある方は買って読んで日本人の奔放な想像力と創造力を感じて欲しいと思う。
さて、最初に「哲学」に関して述べた時に、取り上げた「ルソー」の「一般意思」である。これについて、述べておきたいと思う。
知られる如く、「ジャン・ジャック・ルソー」はフランス革命の思想的基盤を唱えた人として知られている。あんまり褒められたものではない暴力革命を煽ったということで、彼の思想に異議を唱えたエドマンド・バークの保守思想が評価されるようになってきているようだ。
しかし、ルソーがその『社会契約論』で唱えた「一般意思」は、注目すべきであるとぼくは思っている。
彼はこう唱えた。
社会に於ける全構成員が、その各自の身体と財産を保護する為には、各人の財産と身体などを含む全権利を共同体に譲渡することが必要である。人々が権利を全面的に譲渡することになって初めて単一な人格とそれに由来する意志を持った国家が出現する。この国家の意思をルソーは「一般意思」と呼んだ。「一般意思」に依って体現されるものが主権なのであるといっていいと思う。
一方、各個人にはそれぞれ異なった個人的な私的利益を求める「特殊意思」がある。「特殊意志」(各個人の意志)と「全体意志」(特殊意志の総和、全体の総意)という概念とわけて、それらとは別に「一般意志」があるのだとルソーは主張している。選挙の投票によって得られる意志や、議会での政党間の合意などで得られる意志は、「一般意志」ではない。「一般意志」は政治家の意志でもない。ルソーは、『社会契約論』の全体を通して、「一般意志」への絶対服従を説いているのである。
『社会契約論』の第二篇第三章は「一般意志はつねに正しく、つねに公の利益を目ざす」ことを確認する文言から始まっている。
つまり、「一般意思」は常に「特殊意思」や「全体意思」の上位にあると見るべきである。
ところが、日本において、戦後憲法が作られたとき、宮沢教授を始めとする東大憲法学者は、「一般意思」と「全体意思」をおそらく恣意的に混同する説明を行った。ほとんどの人が、選挙で得られる全体意思と一般意思を同一に見ているのではなかろうか。
ある言い方をすれば、全体意思とは最大公約数であるが、一般意思は素数なのである。
そこに、現在の公共利益が私的権利を侵害するという、憲法改正に於ける馬鹿げたとも思える論争の原点があると思える。
また、敗戦直後、世論調査で皇室の存続を望んだ国民が8割を越えていたなどということとは関係なく、日本国の一般意思というものが、明確にされておれば、「女性宮家創設」の是非などという馬鹿げた議論も起こりえなかったのではないかとも思うのだ。