朝日新聞はどうしたわけか32年の頬かぶりを続けてきた捏造報道を一部認めざるを得なくなったようですし、文科省は2016年か17年に予定されている指導要領の改訂で、高校での日本史の必修化と「近現代史」という科目の新設を決めたようです。
現在は世界史が必修で日本史と地理が選択科目となっています。自国の歴史を選択科目にするとは、一体どんな神経なのでしょうか。今回、現在の世界史Aと日本史Aを統合して「近現代史」とするといいます。
そもそも、日本史という言い方自体おかしい。アメリカではその国の歴史は「National History」つまり「国史」です。そしてそれはまた同時に「世界史」でもあります。これはどこの國でも同じです。
日本も戦争に負けるまでは「国史」でした。そして、この呼び方が日本帝国や大日本などという呼び方と共に禁止されました。そして、日本や我が国は「この國」に、国史は「日本史」となりました。
明治維新から、いや江戸時代よりもっと前から、日本は外国との関係の中で歴史を紡いできました。
少し前の<葉巻のけむり>で、クリミア戦争の正にその時、黒船が現れた理由について述べましたが、こうしたことはこれまでの日本史と世界史という区分では見えませんでした。
当時は、「大英帝国」に見られる如く、そうした言い方は、世界の大国であることを表明するもので、なんの問題もなかったのです。戦争を戦った世界の各国とサンフランシスコ講和条約を結んで独立した後は、日本国や大日本などの呼称は復活させるべきだったのに、謝罪と萎縮とで誇りを失った日本の指導者層は、その状態を続けているうちに、習い性となったといえるようなのです。
それにしても、どう考えても納得のいかない侵略と呼ばれる事案や一方的に押し付けられた勝手な「歴史観」。「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」などの捏造の事実。これらは60年を越えていまなお訂正されることなく流布され続けている。その理由はなんなのでしょうか。これはぼくにとっても大きな疑問でした。
これらの疑問を解く為には、今日現在常識となっている多くの考えを放り投げてみる必要があります。それらは、間違いなく一方的に押し付けられ刷り込まれたものだったからです。
「大東亜戦争は誤った侵略の為の戦争であった」。
「弱い日本が強大なアメリカに無茶な戦争を仕掛けて惨敗を喫した」。
このいずれも正しくはありません。日本は強大な軍事力を持つ國だったし、無茶な戦争などではなく、むしろ負けるはずのない戦争でした。こうしたことの詳細はこの稿の目的ではないので、ここでは書きません。ともかくそう信じ込まされたということです。
「日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した」
これも違います。日本はポツダム宣言を受諾して、戦闘を止めたのです。つまりポツダム宣言の条件の一つ、戦闘停止という条件・帝国軍隊の無条件降伏を受け入れ、大本営が降伏の指示を下したということです。
ここで、戦闘は終わりました。でも戦争が終わったわけではありません。多くの人が混同していますが、戦争と戦闘は明確に区別されるべきです。戦略と戦術もしかり。戦略は素人が論ずるべきものではありません。戦争と戦闘の区別も出来ず、戦略を語る能力もない素人が、堂々と昭和史を書いているという変な状況がありました。
さて、戦闘が終わって日本は占領状態におかれますが、それは戦時のままで占領状態になりました。この状態では、国際法のジュネーブ条約が守られるべきでしたが、アメリカGHQはことごとくこれを無視した暴虐を行ったといえます。
焚書や指導者の追放、信教の自由を侵した神道指令、最大は報復に凝り固まった東京裁判でした。
法律論を無視した前代未聞の「平和に対する罪」という急ごしらえの事後法で一方的な裁判を行い、7人を絞首刑に処し(軍事裁判では銃殺刑が普通)ました。
処刑は、日本国皇太子殿下(現天皇陛下)の誕生日に行われ、焼却された遺体の灰は東京湾に投棄されました。
フィリピンで敗北を喫したマッカーサーは、復讐心に凝り固まっていたようです。日本に赴く際に周囲に宣言した天皇廃絶は思いとどまりますが、靖国神社は取り壊してドッグレース場にするという案を出します。しかしこれもバチカン王国の神父の「歴史の汚点として名を残す」という手紙で思いとどまったとされています。
敗戦から7年後のサンフランシスコ講和条約の締結によって、日本は連合国との戦争状態を脱して、主権をもつまともな独立国となりま、なったはずでした。しかしどうもそうではない。この7年間に今に続く世界でも珍しい状態が醸し出されたのではないか、そんな気がしているのです。
すでに述べたように、ポツダム宣言受諾で武装解除が行われ、戦闘は終結したとしても戦争は終わっていません。普通は武器を持たない形の戦闘やレジスタンス活動が行われても不思議ではありません。それが世界の常識ではないかと思います。スイス政府発行冊子『民間防衛』には、占領状態に置かれたときの戦い方について書いてあったように記憶します。
しかし、日本ではそんなことは一切なかった。そんな異常な状態を説明するには、やはり天皇陛下の存在を挙げる必要があると思うのです。
『終戦の詔勅』の「時運の赴くところ、忍びがたきを忍び・・・・」を守って、日本の国民はみんな頑張った。
この「時運の赴くところ」はもとの文では「義命の存するところ」となっていたのを、馬鹿な官僚が書き換えたのだそうです。これによって「終戦の道を選ぶのは道義的に正しい」というのが、「終戦はそういう成り行きなのだから」という内容になったのです。
このポツダム宣言からサンフランシスコ講和条約に至る7年間が問題だとぼくは思うのです。それを説明するには、大東亜戦争が始まる前から説き起こす必要があります。
皆さんは、「コミンテルン」をご存知でしょうか。「聞いたことがある」という人もいらっしゃるでしょう。全く知らないという人も多いと思います。
大辞林で引いてみるとこうあります。
【第三インターナショナル】
1919年レーニンらの指導の下,ロシア共産党を中心としてモスクワに創設された国際共産主義運動の指導組織。43年解散。コミンテルン。国際共産党。共産主義インターナショナル。
そのころ、共産主義は斬新なイデオロギーであり、この科学的な理論によって作られた国家がソ連邦でした。ソ連は共産主義を輸出し、世界中を共産主義国にしてしまおうと考え、行動を始めました。そのための組織として、コミンテルン(第三インターナショナル)が作られたのです。
コミンテルンの支部は世界中に作られました。日本では、共産党がコミンテルン日本支部となりました。
コミンテルンは世界に向けて何度か指令を発しています。有名なのは1927年と32年のもので、それぞれ「27年テーゼ」と「32年テーゼ」と呼ばれています。
「27年テーゼ」が出たのは、レーニンが死んで3年後スターリンの時代です。ここでは、天皇制の廃止を唱っています。「天皇は大土地所有者であるだけでなく、多くの株式会社および企業連合の極めて富裕な株主である。最後、天皇はまた、資本金一億円の彼自身の銀行を持っている」
「天皇制の廃止」により、天皇、地主、政府および寺社の領地の没収が行われる。
これって、聞いたこことのある台詞です。いつかぼくがここで書いた、憲法学者の先生がこんなことをおっしゃってました。
<この国のことを、なぜ一人の『おじさん』が決めるのか。天皇というオーナーが、『全株』を持って国を仕切っているような仕組みはおかしい。国民一人一人が『株主』であるほうが正しい組織だ」>
なんと、もしかしたらこの発言のルーツは、「27年テーゼ」なのかも知れません。
次の「32年テーゼ」は日本共産党への指令書で、日本の情勢分析が教条的に行われています。
•日本は強盗的帝国主義であり、現に帝国主義的強盗戦争を行っている。
•日本独占資本主義は絶対主義的な軍事的・封建的帝国主義であり、軍事的冒険主義である。
•日本国内には封建制の強大な遺物、農民に対する半封建的搾取方法が認められる。
•日本はフランスとともにソビエトに対する出征の発頭人としての役割を引き受け、反ソ計画を持っている。
当時、日本を罵るだけのこの文書は分析というにはあまりに稚拙で問題にされませんでした。
しかし、日本の共産主義者、左翼、進歩的文化人は聖書のごとくこれを崇めたのです。
当時は、共産主義は一つの人類の理想の形とも思えたようですし、かっこ良かった。多くの若者の心をとらえました。日本国は皇室の廃止を唱える勢力を問題視したのは当然のことでした。日本国政府は特高(特別高等警察)を設置しました。これは国事警察として発足した高等警察から分離した組織で、国体護持のために無政府主義者、共産主義者、社会主義者、および国家の存在を否認するものを査察・内偵し、取り締まることを目的とする政治警察でした。治安維持法も作りました。ロシアのように帝室を皆殺しにされてはならないと考えたからでした。しかし、この法律で殺された人は一人もいません。
特高は、映画・ドラマでも過酷に描かれることが多いのですが、コミンテルン分子に取っては大敵であり、脅威の的だったともいえます。
共産主義者・社会主義者たちは、オッピラな活動は封じられ、そのシンパは息をひそめる状況が戦時体制の強化とともに進行しました。これが開戦前の状態でした。
大東亜戦争は終結し、東京裁判が行われました。戦犯の追放のみならず、戦争に協力したかどで、村長レベルまでの大量の公職追放が行われました。そして、息を吹き返したのが、捕らえられていた罪人でした。いわば「曳かれ者」が復活したのです。「曳かれ者」とは、江戸時代の言葉で前科者のことでした。
「曳かれ者」たちは、最高学府の学長などの地位を占め、配下に自分の弟子を配しました。当然のことながら、彼らは「東京裁判」を支持し、「東京裁判史観」なる歴史観の流布に努めました。そこで、「東京裁判史観」のことを、「曳かれ者史観」と呼ぶことも出来ます。
戦後の混乱の中で、あす革命が起きるかもしれない、粛清されるかもしれない、そういう恐れが日本の知識人や学者に「32年テーゼ」の枠の中でしか発言させない、ものを書かせないようにしたといえます。さらには、より過激に日本を貶めておく方が、身の安全につながるという考えのもとに、行動した輩もあったといえるでしょう。
この東京裁判史観信奉の立場に立ってものを言い、あるいは文章を書くほうが、自己の保身のため、あるいは処世術として自分にとって有利であり、好都合であるという風に考えて、この史観信奉の立場に立つ輩、すなわち、いわゆる進歩的文化人、一部の学者、評論家、作家、マスコミなどのことを、まとめて「戦後利得者」と呼ぶのです。
彼らに大きく加勢したのが、アメリカのいわゆる「ウオー・ギルド・インフォメーション・プログラム」と呼ばれる、日本弱体化計画でした。
この日本弱体化計画というじつに緻密なプロジェクトの底に流れるものは、日本人に対する根本的な恐怖の感情だと思います。大体、圧倒的に勝ったのならば、そんなに真剣にこんな計画を考える必要などないはずです。
アメリカは心底、日本人の復讐を恐れたのです。ということは、日本はそれほど強かったといえると思います。
アメリカの「日本弱体化計画」と手を携えて活動したのは、「講座派史観」と呼ばれるものでした。「32年テーゼ」に基づいて、『日本資本主義発達史講座』という学術論文が刊行され、時の知識層に大きな影響を及ぼしたのだそうです。彼らは弾圧されますが、占領軍の支援のもと講座派史観は生き生きと復活したのです。
その骨子は「絶対主義天皇制の軍国主義的支配階級は人民を搾取し、アジアに市場を求めて侵略戦争に明け暮れ、そして国民を悲惨のどん底に陥れたのみならず、あくなき侵略主義の毒牙は近隣諸国にも多大の損害と苦痛を与えた」というもので、全く史実に基づかない恣意的な創作物語が造り上げられたのです。
これは、学習指導要領という教科書作成指針が日教組の巧妙な浸透に侵される中、歴史教育を覆うようになります。
そして、大敗戦の衝撃を受け、国家指導者を呪詛し憎悪する敗戦国民の心理に訴え、あるいは未来の理想郷を夢見る青年の心を動かす力を持つことになったのです。
私たち日本人の内、昭和二桁生まれの同胞はもちろんのこと、平成生まれの人も、すべての日本人は否も応もなくこうした思想・歴史観を根底にしみ込まされているということ、そしてそれを自分で気付くことが出来ずにいるということを、かならず自覚・自省する必要があると思うのです。
サンフランシスコでの講和条約締結で、日本は主権を回復したのだから、占領下の条文ともいうべき「現行憲法」を廃棄して、帝国憲法に続く自前の憲法を持つべきでした。しかしそうはさせない強い勢力が存在したのです。これをポツダム宣言派と呼んでいいでしょう。この勢力の後ろに外国の勢力が控えていました。
日本国民はといえば、大勢は次の二つになっていました。
一つは、戦後利得者といわれる曳かれ者史観にたつ進歩的文化人、一部の学者、評論家、作家、マスコミです。もうひとつは、東京裁判についてはほとんど何も知らないけど、有名な学者や評論家たちが、あの判決は正しいと言っているから、きっと正しいに違いないと考えて、判決内容をそのまま信じ、その結果、東京裁判史観信奉の立場に立つ一般人です。
とても自前の憲法など作れる状況ではなかったといえます。
少し調べたことのある人なら誰でも知っている有名な「マッカーサー証言」です。それは1951年のアメリカ上院の軍事外交合同委員会でのことです。次のようなものでした。
「日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い。錫(すず)が無い、ゴムが無い。それら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。したがって、彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」
ここでのマッカーサーの証言は、大東亜戦争の目的が、自衛の為の戦争であって、侵略戦争ではなかったとの見解を表明したことになります。普通に考えれば、ここにおいて、「東京裁判」の内容は否定されたことになり、「東京裁判史観」いわゆる「曳かれ者史観」は瓦解したはずなのです。しかしそうはならなかった。これを報じた新聞は一紙もなかったのです。つまり、「曳かれ者史観」はそれほど護持すべき「歴史観」だったということでしょう。
こうした状況はずっと進行し続けてきたと思われるのですが、近年どうやら様子が変わってきたとも思えるのです。とはいえ、集団的自衛権問題に見られる反応を世論調査などで見ても、ボツダム史観はなかなかに根強く染み渡っていると思わざるを得ません。
ある人の思想傾向を決めるのに、左とか左派左翼、右寄りとか右派あるいは右翼などと分ける。また頭にリベラルをつけてリベラル右派とか、また「新」をつけて新リベラル右派など、なにがどうなのか分かりません。そんな右とか左で分ける時代ではないという気がしています。
ぼくが考えるには、「ボツダム派」か「サンフランシスコ派」かで分けてはどうかなということです。日本が強くなっては困る、戦えない状態に置いておきたいというのは、その理屈はともかく「ポツダム派」です。
自分は自民党員だから保守だと自他ともに認めている議員がいたとして、よく見ると「ポツダム派」だったりします。
「ポツダム派」と「サンフランシスコ派」は見えざる戦いを続けて行くのでしょうが、「ポツダム派」が徐々に勢力を弱めつつあるように感じます。
それは、テレビに登場する評論家などで、集団的自衛権に反対している「ポツダム派」とおぼしき人が、変にいらついていたりすることが多々見られ、なにを焦っているのだろうと、少し同情してしまったりすることがけっこう多いからなのです。
このことだけで、いくつもの『昭和史』は信用度が低いといえるでしょう。
少し心配なのは、読み終えたら、きっとなにかもの申したくなるかも知れないということで、この問題にはあまり立ち入ると出られなくなりそうな危険を感じるので、書かない方がいいのではないかという気もしています。