信じられないパシュトーン人との邂逅

 さきの花金の夜、ぼくは行き付けの祇園の「葵」に出かけました。
 ここのバーテンのI君とはちょっとした因縁的ないきさつがあって、東京からこちらにやってきたのです。
 もともと彼は汐留のシティーセンター・ビル最上階のバーでバーテンをやっていました。その頃、よく泊まっていたホテルの近くだったので、ぼくはたびたび出かけることになって、夜景を見下ろしながら明け方まで話し込むこともあったのです。大学には行かず大工の見習いの後自衛隊の経験もあるという折り目正しいこの青年の話を聞いて、ひょっとしたら日本の教育は人間を駄目にするのではないか。そんなことをぼくは思ったりしたのでした。
 そんなことで、修学旅行以来いったことのない京都に行きたいと言い出し、我が家に数日滞在しました。彼の主目的は山崎のサントリー工場の見学だったようですが、京都や奈良も案内したのです。
 その時はちょうど「都をどり」の時期だったので、これも見に連れて行きました。

 彼が京都に職を探し始めたのはその後のことだったように思います。ようやくその話が実現しそうになって、彼は六本木にある地下のバーに移ることになりました。なんでも話の決まった京都のお店のオーナーがこの六本木にもお店を持っていて、まずこのお店に移ってその後に京都に行くということになったのだそうです。ところがこの六本木のお店は、なんとぼくがよく行っていたバーだったのです。かつてぼくの東京での定宿は六本木にあって、そのホテルのすぐそばにこのお店があったのです。
 何年かして、祇園のバーに彼がやってきました。愛猫と一緒に京都の真ん中あたりのアパートに移り住んだ彼が、何度目かに我が家にやってきての去り際に、「猫ばかりか可愛がってたら嫁さんが来いひんよ」とぼくは言い、
 「まあこれでも見て、勉強したら」
 そう言って、その為につくた映画「恋人までの距離」のDVDを手渡したのでした。

 その効果があったのかどうかは疑問ですが、間もなく彼は結婚することになりました。相手はお店のスタッフだったソムリエの女性でした。すぐに子どもが出来て、もう小学生に育っているようです。
 さて、その日ぼくがそのバーに行ったのには理由がありました。
 いま人気の朝ドラ『マッサン』にちなんだBSプレミアムの「現代のマッサンたち〜知られざるウィスキーの世界〜」というのがあって、これが面白かったし知らないことばかりの内容だったので、博識の彼にも勉強になるとDVDに焼いて届けることにしたのです。
 
 「なににされますか」
 「いつのもやつを頼もうか」
 これは、カルバドスベースにミルクとオレンジ・リキュールなどをアレンジしたカクテルです。葉巻にあうのはアレキサンダーに限るともう十年以上もそれで通していたのですが、近頃もう少し軽めのものが欲しくなり色々試してもらった結果、そんなオリジナル・カクテルにたどり着いたという訳なのです。なんか命名しないといけないと思っている所です。
 「シガーはお持ちですか」ときいてから、ぼく用にキープしているものから二本を選ぶと掌に載せぼくに差し出しました。太巻きのホヨ・ド・モントレーとパルタガス。ぼくがホヨを指差すと、彼は「カットしますよ」といい、火をつけて手渡してくれました。
 「実は今日、君に渡そ思うてDVD焼いたんやけど、それ持ってくるのを忘れたんや。ほんま、おおぼけ」
 「そうですか。取りに伺いますよ」
 「いやいや、すぐにもう一回こいということやろ。次に持ってくるよ」

 紫煙をくゆらせていると、連れが現れました。夕ご飯がまだだと言います。
 「なにか出前をたのもうか」
 軽く夕食を済ましていたのですが、ぼくもつきあうことにしました。このお店では各種の食事の出前が可能です。いくつものメニュー・ブックがあります。
 あんまり迷うことなく、フランス料理をとることにしました。「黒毛和牛の赤ワイン煮」これがいい。これにしよう。「黒毛和牛のローストビーフカルパッチョ仕立て」もあるけどこっちの方がいいと思う。ねえ、ねえ、君はどう思う?「そうです。ローストは薄く切ってありますからね。分かりました。お二つですね」
 
 えらく前置きが長くなっていますが、これからが本題です。
 牛の赤ワイン煮のお皿がカウンターに置かれ、お肉のブロックをカットしようとしたとき、戸が開いて3人の外人が入ってきました。
 ぼくたちはカウンターの中程に座っていたのですが、彼らは薦められるままぼくの隣に座りました。
 「ハロウ」とその少しアジア的な顔立ちの外人は挨拶し、ぼくは「ハイ」と答えました。「どこから?」「アメリカから」「いつ来た?」「3日前」「いつ帰る予定ですか?」「明日です」
 彼は名刺を差し出したました。それを見て彼がインテル社の社員であることが分かりました。「なにかミーティンがあったんですか?」「そうです」
 その時の名刺をぼくは紛失したようで、今確かめようがないのですが、ファーストネームがNORIMOTOだったかYOSIMOTOだったか、とにかく日本名めいていたので「君の祖先は日本人?」と尋ねたのです。
 「そうです。おじいさんが日本人で、ぼくは三世です」おじいさんの出所は広島だったそうです。京都は大好きで、今度で4回目だと話しました。

3人のアメリカ人。真ん中の二人はアジア人系の顔をしていた。

3人のアメリカ人。真ん中の二人はアジア人系の顔をしていた。

 コンピュータの話になりましたが、彼はハードウェアが専門なので専門的な話ではかみ合いません。彼が「どんなデータベースを作っていたのですか?」と尋ね、「顧客管理、営業管理、在庫管理、車検管理、何でも作った」と答えました。それから「それに、政府の犯罪データベースも作ったよ」というと、彼は急に「二人を紹介するよ」といって、一緒の二人を紹介したのでした。
 彼らは口々に素敵なバーだとこのお店を褒めました。「君はしょっちゅう来るのか」と聞かれたので、そうでもない。「実はこのバーテンさんとはちょっとしたストーリーがあるのでね」というと、「どんな?」と三人は身を乗り出しました。それで、ぼくはいきさつをかいつまんで話したのです。
 「君たちは、なぜこのバーにきたんだ」と尋ねると、「昨日も来たんだ。素敵な店だったので、また来たのだよ」
 バーテンのI君はすっかり忘れていたようなのですが、どこかの会社の接待ということで5人ほどが二階の座敷に上がったのだそうです。「それで、舞妓・ガールは来たの?」「いや来ませんでした」 

シャザッド・カーン

シャザッド・カーン

 このときまで、そばにいる日系三世の男とばかり話していたのですが、奥を見るとそこには大柄のインド人みたいな男がいるのに気付きました。
 「あなたはインド人?」とぼくは尋ねました。「パキスタン人です」
 ええぇっ!パキスタン人。驚きました。「では、あなたはムスリム?」「そうです」
 そこでぼくは、「アッサラームアライクム」と挨拶すると、彼は「ウォー、アライクムアッサラーム」と返したのです。
 「パキスタンのどこの生まれですか」とウルドー語でぼくは尋ねました。「ペシャワール」と答えたので、ぼくはもっと驚いたのです。そして「トウ、アープ、パシュトゥーンハイン?」(するとあなたはパシュトーン人でいらっしゃいますか?)と尋ねると、彼はそうですと答えたのです。
 ぼくはなんとなく感激してしまい、立ち上がると、すかさず彼も立ってこちらに駆け寄ってきました。そこでぼくたちは大きく手を広げてから、抱き合うパキスタン流の挨拶をしたのです。

 ぼくはパシュトーン人が好きなんだ。パシュトーン人は何よりも誇り高いし、自分が知っているパシュトーン人は、みんなサムライだ。日本人と一番近いのはパシュトーン人だよ。だから一番好きなのはパシュトーン人だ。パシュトーンに比べると、パンジャビーはずる賢いし、ちょっと女々しいし、あまり好きじゃない。
 そう話すと、彼は舞い上がらんばかりで、後の二人に「パシュトーン人は山の民でパシュトー語を話す。パンジャビーというのは平野に住むパンジャブ語を話す部族なんだ」と説明しました。
 後の二人が「君らは何語で話してるのか」と聞いたので、以後は英語に切り替えたのです。
 
 パキスタン軍の情報部にいたので、コンピュータはそこで学んだということです。アフガン戦争では狙撃兵としてアルカイダと戦ったのだそうです。
 アルカイダの話からスワットに話が飛びました。そこでも彼は掃討作戦に参加したようです。スワットは素晴らしい所だというので、ぼくは1969年にスワット・ヒマラヤに行ったことを話しました。その頃はスワットには王様がいて、山に登るので、お城の王様に日本製のワイシャツを贈ったら、彼は警護のためにポリスを2名付けてくれたんだ。そのポリスは不寝番をしていて、夜中に鉄砲をぶっ放すので、驚いて「どうした?」と訊くと「なんやら動いた」というので、ぼくは隊員に「小便に出る時は歌を歌え、さもないと撃ち殺されるぞ」と言ったんだよ。
 シャザッドは、「スワットのお城に行ったのか。そこにはぼくのおばあさんがいたんだよ」といいました。「ほんとか」とぼくはいい、もしかしたら彼は王族の末裔かなと思ったのです。

 「信じられない」と彼は二人の友人に繰り返しました。こういう空間にいてこういう話をしていて、信じられない。なんだか故郷の町に帰って話しているような気分なんだよ。
 なんの話からだったのか忘れたのですが、たぶんぼくが初めてパキスタンに行った頃のパキスタンの大統領はアユブ・カーンだったのですが、そんな話になった時、シャザッドは、「アユブ・カーンはぼくのおじいさんだ」と言ったのです。驚きました。そういうと顔が似ていました。
 奥さんもパキスタン人でドクターだそうです。3歳と5歳の娘がいるそうです。

 三人が帰るとき、ぼくと連れは見送りに外に出ました。そのとき、シャザッドはぼくの連れに、「明日の飛行機の中で、昨夜のあの出来事は夢ではなかったのかと何度も頬をつねることになるだろう」と語ったのだそうです。
 ぼくにとっても、この出来事は、ほんとに信じられないような忘れられない思い出の夜になりました。
 勘定をする時になって、ぼくたちの勘定はすべて彼が払ってくれたことを知りました。ここは日本なのだから彼はお客様で、なんだか申し訳ないような気がしたのでした。

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