「田原総一郎の不埒な作り話」には、ぼくが記憶に頼って書いた武見敬三氏の発言があって、そこのところがずっと気になっていました。ようやく時間ができたので、苦労してその動画を探し出して確認したところ、やはり間違いがありました。
だからといって、田原氏の話が嘘っぱちであることは、変わらないのですが・・・。
それは、2016年5月6日(水)のプライムニュース「シリーズ”昭和90年”の肖像③ 吉田茂の”遺産”と”誤算”」でのものでした。
ここに、当該記事でも予告したように文字起こししたものを掲げることにしたました。
武見敬三氏の発言は次の通りです。
吉田茂が最初から天皇制について堅固な理解と確信があったかといえば、そうではなかったと思いますよ。実はですね、総理になってからもね、白金の外務大臣公邸にずっといたんですよ。そこに私の父親もいましてね。主治医で一緒にいたんですよ。それでアドバイスもいろいろしてたらしい。
その時に、あるとき宮中から帰ってこられたときに、吉田茂がもう顔色が悪くて意気消沈して、体がきわめてすぐれない状況であることがわかった。
それで、吉田総理にいったいどうしたんですかと、主治医の立場から聞いたら、実は先ほど宮中で、陛下から新たな憲法のもとで民主主義下における天皇の在り方やいかに、というご下問を受けた。
しかしそのとき私は陛下にきちんと納得のできるような説明ができなかった。本来ならば俺はここで腹を切らなければいけないけれど、しかしそれは今の状況ではできない。だから自分は今大変困ってるんだという話だった。
そこで私の父親が、いや戦前でも民主主義と天皇の在り方について論じていた人たちはいましたよ。例えば福沢諭吉です。福沢諭吉は帝室論というのを明治の21年の議会の前で議論していた時期ですから、論文を書いてたわけですね。
そしたら、すぐその福沢諭吉の帝室論を持ってこいと。そのときは柏に疎開してたからそっちにありますと言ったら、今すぐ俺の車を使って取りに行ってこいと。
私の父親は総理の車に乗って千葉県の柏に行って疎開していた柏に置いてあった福沢諭吉全集を持ってきて総理に渡したんですって。そしたら、徹夜でずーと読んでたらしい。
翌朝、ちょっと来いって呼ばれて、そして文部大臣は慶應義塾の出身者からやりたい。これから、小泉さんですよ小泉信三さんに文部大臣になってもらいたいので、お前頼みに行ってこいと。親父はそう言われて広尾の小泉さんのお宅へ行って、そこで直に小泉さんに、総理から小泉さんに文部大臣を引き受けていただきたいというお話がございます。そう申し上げた。
そしたらですね。戦災にあって顔は焼けただれていて、どてらを着て玄関に出てこられた。そして、自分は今こんな状態なので文部大臣を引き受けることはできません。したがって、その旨よろしく総理にお伝えいただきたいと。こう言われてそのまま伝えに行ったんです。そしたら今度は総理の方から、そんならどうしようかというんで、今度は改めて慶應義塾出身者の中から文部大臣に選ばれたのが高橋誠一郎さんだったわけですよ。それで高橋誠一郎さんが文部大臣やった。
そして教育基本法という新たな基本法の制定から、天皇と民主主義のあり方についての考え方を国民にも理解できるように計らうことについての期待を持ったわけです。
とまあ、こんな発言で、MCの反町さんは、「へぇー」と驚きの声をあげていました。
この発言を読んで見て、ぼくの記憶は吉田茂を天皇陛下に置き換えてしまうという大きな間違いを犯していることがわかりました。話の流れは田原氏が正しくてぼくは間違っています。
しかし内容が勝手に捏造されているのが田原氏の話です。けしからんことはけしからぬわけです。
とはいうものの、腹立ち紛れに、確認せぬまま書き急いだのが失敗だったと反省しているところです。