「元徴用工(?)判決」で思い出したこと

 最近、お隣りの韓国で、最高裁が元徴用工の損害賠償を認めるという判決を行った。これは国際協定を無視した非常識極まりないもので、いわゆる「元徴用工判決」と呼ばれ話題となっている。
 そもそも、この「徴用工」という呼び方にも問題がある。安倍首相も国会で答弁した通り、この人たちは自ら応募してきた人たちであり、正確には「戦時労働者」と呼ぶべきだ。同じような例として、いわゆる従軍慰安婦があり、これは戦時売春婦が正しく、最初からそう呼ぶべきだったと思われる。こうした呼び方を考えたのは、日本人だったからどうしようもない。さらに、「Sex Slave」を世界に広めたのは日本弁護士会の弁護士だった。彼は国連で何年にもわたって刷り物を配布し続け、慰安婦が「Sex Slave」だというでっち上げを定着させた。
 今に始まった事ではないが、特に最近の韓国の日本国に対する対応には、目にあまるものがある。
 福沢諭吉が『脱亜論』で述べたごとく、「大陸と半島の二国に対しては、ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない」と、つくづく思う。

 ところで、このいわゆる「元徴用工判決」で、ぼくにはある記憶が蘇った。
 小学校から中高にかけて、ぼくは奈良のそばの木津という町に住んでいた。我が家は町の中心からかなり離れたたしか下河原という辺鄙なところだった。そこには避病院と呼ばれる伝染病患者を隔離するための、廃屋のようないく棟もの病棟が並ぶ空き部屋の連なる大きな病院があった。
 その近くに町営の長屋があり、そこがぼくの家だった。

 一段高くなった街道を隔てて、青年学校があり、父親はそこに勤めていた。
 青年学校というのは、少年が尋常小学校6年を終えたのち、中学校や実業学校に進学せずに勤労に従事するための社会教育を施すための学校だったが、戦後はなくなった。
 この中から多くの青年が、特攻隊に志願したようだった。軍事教練を担当していた父親は、そのことを大変気に病んでいたらしく、戦後なんども特攻隊基地を訪れたと聞いた。

 この辺りには、朝鮮人が沢山住んでおり、ぼくの両親は彼らとは親しく接していた。ぼくにも何人かの朝鮮人の友達がいた。その友達の家に泊まり、オンドルの床で雑魚寝をしたこともあった。
 彼らの生業は、養豚だった。ぼくの父親は朝鮮人から「センセ様」と呼ばれ、大いに信頼されていた。父親の専門は農業で、畜産にも詳しかったから、いろいろと指導していたからだった。
 ブタ小屋の一匹は父親のもので、その餌として、町のうどん製造屋の釜の茹で汁を用いることを考えた。それは無料でもらえたからである。そしてその運搬をぼくに命じた。

 特注の大きなブリキ製で円筒形の容器を荷物運搬用の自転車の荷台に積んで、家まで運ぶのがぼくの日課となった。塩を含んだ茹で汁が溢れるから、自転車は真っ赤に錆びた。うどんの茹で汁で満たされた容器を積んでの帰りはそうでもなかったが、行きは空だったから、町中の穴ぼこだらけの地道で、ブリキ容器はガンガンガラガラと大きな音を立てた。
 みんなが見ているようで、ぼくは大変恥ずかしく、必死でペダルを踏むと、音はさらに大きく鳴った。
 中学生になってからだが、こうしたことを、作文に書いたら、それがコンクールで賞をもらうことになり、その結果ぼくにはトンちゃんというニックネームが与えられることになった。

 その頃、父親は何十匹もの鶏を買っていた。これは、食糧難の戦時において我が家の重要なタンパク源でもあった。鶏の餌の一つがイナゴだった。イナゴは田んぼに行けばいくらでもいた。口に竹筒をセットした布袋を持ってのイナゴ取りも、ぼくの役目だった。
 茶色の名古屋コーチンと白色の白色レグホンが主だったが、その中にひと番(つがい)のブラマーという巨大な鶏がいた。これは確か米国産と聞いたが、父親はこれを名古屋から取り寄せたと言って、大切に育てていた。大型の肉鶏で、足にまで毛が生えており、実に堂々とした鶏だった。ブラマーは次の動画でみてください。

 ある時、朝鮮人の一人が、「センセ様、頼みがあるのですが」と切り出し、あの大きな鶏を飼いたい、ぜひ譲ってほしいと頼んできた。父親は、わかったと答えた。

 父親は、その朝鮮人に渡す二つの卵を、収める箱に入れる前に、掌に握って激しく振った。その所作を訝しげに見つめるぼくに、「こうしておけば、絶対に孵化しない」と言った。
 このことは、ぼくにはショックだった。それはある裏切りとも感じられたが、ぼくは何も言わなかった。このことは長くぼくの心に残っていた。だいぶ後になって、ぼくは父親は正しかったと思うようになった。もしあのまま、あの受精卵を渡していたら、変な混血の鶏が大量に生み出されることになっただろう。それは困った事態だったのだ。
 そしてさらに時間が経って、やはり父親の対応は間違っていたと思うようになった。
 あの時、父親は、はっきりと断るべきだった。それが正しい態度だったのだ。駄目なものはダメなのである。

 戦後の日本の隣国への対応・態度を考える時、断る時は断固断る。変な同情など微塵も必要なかった。
 これまでの曖昧さ、自己満足的な善意、そんあれやこれやが、どうしようもない今日の状況を生み出したのではないだろうか。そんな気がしてならない。
 世界の情勢は大きく変わり、韓国と北朝鮮は一つになる可能性も出てきた。もう一つの隣国はやがて変革の時を迎え、日本には難民船が殺到する。そんな日が来るかもしれないし、それはそれほど遠くはないかもしれない。
 我々日本人は、次のよう言葉を肝に銘じるべきではなかろうか。
 「地獄への道には善意という絨毯が敷き詰められている」
福沢諭吉の『脱亜論

「元徴用工(?)判決」で思い出したこと」への1件のフィードバック

  1. わたし、も そう思います、日本人、一人、ひとり、がもういい加減 目を覚まさないと、大変な時代になってしまうんじゃないかと思う、今日 この頃です!何か解決策は無いのか⁉️難しい事です。

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