39年ぶりにラトック1峰が登られたことを知った。それで、1979年にラトック1に成功して帰国後、確か1年後だったと思うのだが、日本山岳会の会報・『山岳』に報告を書いたことがあったことを思い出した。
その分厚い会報を開きながら、ぼくはあの頃のことを思い出していた。
正直いって、あの頃、この遠征の成功を素直には喜べず、なぜか他人事のように見ようと努めていたようだった。
だいぶ前から、ぼくにはある固定概念みたいなものが出来上がっていて、それは山登りでマスコミに乗ったり、変に有名になると必ず死を迎えることになる、というものだった。そういう例をいくつも見てきたからからかもしれなかった。
スポンサーの朝日新聞社が帰国の便の日時を尋ねて来た時も、決まっていないと答え、隊員たちと別れて、クエートの友人の元に向かった。帰国したのちのテレビの出演もなんとかかわしたものだった。
すこし後になって、この登山隊のドキュメンタリー本を出版することが決まった時も、決してぼくのことを褒めない、むしろ悪く書くに違いないライターを出版社に紹介した。
そういう感じだったから、日本山岳会からの原稿依頼にあまり応じる気にはなれなかった。日本山岳会の会員でもないぼくがなぜ書く必要があるのか、などと思っていた。
ぼくには日本山岳会にある反感を持っていたのかもしれなかった。大学山岳部の頃、ぼくを教えてくれた先輩は、決して日本山岳会のことをよく言わなかった。
ここで、ぼくの勝手な見方かもしれないが、その当時の山の世界について説明してみよう。
その頃、日本のスポーツ界は、戦後の組織として、都道府県ごとにそれぞれの分野で、連盟が作られていた。東京都山岳連盟があって、その所属団体の一つが日本山岳会という形だった。所属団体の一つに過ぎないといっても、山岳会は日本で最も古い歴史を持っていて、人材も豊富だったから、いろんな軋轢が生じていたようだった。
日本山岳会は東京の六大学の山岳部のOBたちによって構成されていた。しかし、日本の高度成長の波とともに、社会人の山岳団体が雨後の筍のように生まれてきた。それは「三人寄れば山岳会」とも言われる状況だった。
経済的にも恵まれず、町の山屋という蔑視を受けながら、彼らは短い休日を使って、極めて先鋭的な山登りを行い、既存の登山家集団に対抗意識をむき出しにしていた。
こうした中で生まれたのが、「第二次RCC」と呼ばれる先鋭的登山集団だった。そこには大学山岳部の出身者も沢山いたし、ぼくもその一人だった。
だいぶ時が流れた時、多くの人が、それまで目の敵のように言っていた日本山岳会にどんどん入会するようになった。一緒に入ろうと何度か誘われたけれど、あまり乗り気にはなれなかった。すこし不思議がられることもあるけれど、今もぼくは日本山岳会員ではない。
話を戻すと、あの時、『山岳』の編集に携わっていた若い人からは、繰り返しどうしても隊長の手記が必要だとしつこい依頼があって、ようやく書いたのが「ラトック1遠征を終えて」の稿だった。
もう30年も続いている週一回の木曜ミーティング、これは最初はコンピュータの勉強会だったのだが、この集まりの常連の一人が、ちょうど机の上に出ていた『山岳』を手に取った。
彼は、つい最近まで高校の校長を勤めていたのだが、一読して、「今はリーダー論とかメンバー論とかが、教育界でも注目されていますよ。これは今も新しい話です」
そう言って、プログに乗せることを勧めてくれた。
そこで、この<葉巻のけむり>に転載することにしたわけである。
結構長いので、三回に分けて載せることにした。元のままにしたので、段落の空白行がなく、かなり読みづらいかもしれません。
ご辛抱の上ご笑読ください。