その年、何年だったか定かでないのですが、山岳部に入って1年すこし経った頃でした。ぼくは山岳部のサブ・リーダーになりました。リーダーの竹さんはぼくを前に膝を正すと真剣な面持ちでこう言ったんです。
「お前をサブにしたけど、ワシはお前にリーダーを託そうと思うんや。なんでやゆうたらワシは関西二部でスキー混合のチャンピオンなんや。これを人に渡しとうない。練習せんならん。山岳部まで手ェ回らんのや。お前やったらワシ以上のことがやれる。ぜひ引き受けてくれ。尻は全部俺が拭く」
そんな経緯で、ぼくは突然京都府立西京大学山岳部のリーダーになったのです。
リーダーになってぼくがしたことといえば、先輩の小川はんの家に泊まり込むことでした。家に泊まり込んで、そこにある専門誌『岳人』を読むことでした。小川はんの家には『岳人』が創刊号からあったのです。メモをとりながら読むのに一週間近くかかったと思います。それで山登りの世界が分かったわけではありません。多分何にも分かっていなかったのでしょう。時々小川はんがコメントしてくれて、日本山岳会という組織が牛耳っていてこれがインチキだという話を聞かされました。山の世界は実力と記録が絶対だということはよくわかりました。
その年の冬山合宿は、白馬槍から白馬登頂が目標に決まりました。馬尻から鑓ケ岳尾根を登って白馬に向かうというものでした。竹さんと部員一人が頂上を目指し、ぼくはサポート隊を指揮します。この合宿のリーダーはぼくが勤めることになりました。馬尻の少し下に猿倉小屋というと山小屋があり、この小屋の物置の一軒家を借り切ってベースハウスとしました。
晩秋に竹さんとぼくとスミさんの3人で偵察山行に出かけ、白馬大雪渓を登り鑓ケ岳尾根を降りました。途中に鑓ケ岳温泉があるのですが、もう営業は終わり閉鎖して解体され木材が積み上げられていました。スミさんは温泉に、おおはしゃぎで山靴のまま露天風呂に飛び込み大騒ぎでした。
借り受けた小屋は広くないのですが、テントよりは広々としていて薪ストーブもあり、まあまあ快適な日々を過ごしていました。雪が降り続くので、ほとんど行動できず、ぼくたちは、毎日イグルー作りに励みました。イグルーというのは、エスキモーが作る氷の家で、雪のブロックを積み上げて、ドーム状の家を作るのです。雪を踏み固めノコギリとスコップで切り出してスパイラルに積んでゆきます。夜はそこに泊まります。何回もやっているとどんどん早く上手く作れるようになりました。
相変わらず雪は降り続いていました。ぼくはふと気づいたのです。雪が変でした。なんか少し青みがかっていて、イグルーに積もった層の上端にそっと触れるだけで、サァーッと溝状に流れ落ちるのです。
そんなある夜半、小屋の戸を激しく叩く者がいました。「開けてください。助けてください。雪崩に流されました」靴は履かず全身雪まみれです。場所を聞いても「ソウシ尾根、ソウシ尾根です」と繰り返すばかりで、判然としません。雪崩に流された時、振り回した手に包丁が当たり、それを振り回したらテントが切れて外に放り出されたのだそうです。
すぐに食事をとって出かけるようにぼくが指示した時、小川はんが「待て、タカタ」と止めました。「場所も分からんのに出かけてどうする。暗がりで二重遭難がオチや。出るのは明るなってから。山では自分らの命が先やぞ」
明るくなって、村人たちも駆けつけ、6人の遺体を掘り出し、雑木を束ねた芝ゾリに乗せて運び下ろしたのです。
京都に帰ってすぐだったと思います。亀岡の叔父の訃報が届きました。叔母の嫁ぎ先です。ぼくはすぐに駆けつけました。そこでは、ちょっとした問題、いや大問題かもしれない、が起きていました。叔父の遺体が棺桶に収まらないのです。足が30センチばかり出てしまうのです。棺桶を作り替える時間はない。折って入れようか。そんなことはできない。というわけです。
「ちょっと待ってください」とぼくは言いました。「なんとかなるかも知れません」
猿倉で雪崩に埋まった遺体を掘り出した時、遺体は一様に丸まった姿勢で固まっていました。そのままでは、芝ゾリに積めません。村人たちはみんなで遺体の四肢の関節を揉みほぐし始めたのです。1時間もすると関節は動くようになり肢体は真っ直ぐになったのです。
きっと上手くゆく。そう思いました。1時間もしないうちに膝は曲がるようになり、立膝の姿勢で叔父は棺桶に収まったのでした。
「なおきさん。すごいことを知っとてや」みんなは驚きと称賛の声を上げたのでした。
というわけで、ぼくは突如入棺技術者になったというお話です。