最近まことに次から次へと物騒な事件が地球規模で発生して、マスコミを賑わわしています。
考えてみれば、それは当然のことのようにも思えます。なぜかといえばいま世界は大きな変化、第二次世界大戦後につくられた枠組みの変化の中にあります。枠組みの変化はきしみを生みます。それを守ろうとするものと変えようとするものが対立し陰に陽に争い、それが激化しているのがその原因だと思われます。
今年は戦後70周年に当たるということで、やがて出されるとされる安倍談話が大いに注目されています。
一国の首相がその考えを述べることが、そしてその内容が、その国がいくら世界第3位の経済大国だとしても、なにゆえそれほど大関心となるのだろう。以後ぼくなりの勝手な考えを述べてみたいと思います。
まず、正面切って口出しをしているのは、先刻ご存知の通りチャイナとコリアです。この二国はいずれも日本と戦ったと言っています。いずれも正確に言って日本とは戦っていません。
日本の軍部はロシアの脅威に対抗するため、滅亡した清国の皇帝・愛新覚羅溥儀が日本国の保護を求めたのをきっかけに満州国の設立を後押ししました。その頃、中国には蒋介石の率いる国民党軍と毛沢東の八路軍がいて戦っていました。蔣介石軍が攻撃したと見せる八路軍の謀略による盧溝橋事件がきっかけで長い支那事変の戦闘が続くことになりました。日本軍は長い戦闘を続けましたが戦争はしていません。戦争というのは國と國がやるものです。だいたい誰もが、戦争と戦闘をごっちゃにしています。
蒋介石の国民党軍と毛沢東の八路軍は、ちょうど今のシリア・イラクのような状態でひどい殺し合いをしていました。南京あたりでの殺戮もみんなこうした内戦の結果で、日本軍はそのでっち上げの濡れ衣を着せられたと言えます。
というわけで、日本の軍隊は蒋介石の国民党軍とは戦闘を行いました。しかし、八路軍と戦ったことはありませんでした。日本がポツダム宣言を受諾し戦争を止めた後も、中国の内戦は続き、4年経ってようやく蒋介石を台湾に追い払った毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した訳です。
そんな國が、なぜ国連の常任理事国なんだろうか。ちょっと不思議です。
もともとアメリカは中国大陸への野望がありましたから蒋介石を支援していました。カイロ宣言の時にもルーズベルトはチャーチルの反対を押し切って蒋介石を呼んでいます。そんな流れの中で、これはぼくの勝手な推察ですが、第二次大戦後の国際連合の常任理事国に国民党の中国が加えられたと思われます。
この第二次世界大戦で、フランスなどはナチス・ドイツとほとんど戦うことなしにあっさりと降伏して占領下の安逸をむさぼっていながら、ナチス・ドイツが降伏すると戦勝国面をして大手を振って国連の常任理事国に入りました。
日米戦争で日本が負けて6年して講和条約が結ばれ、占領が解かれました。1951年のサンフランシスコ講和条約です。この時にアメリカは条約を作るための会議・サンフランシスコ講和会議への参加を呼びかける要請状を出しました。この時の発送先に、中国も韓国も入っていません。その時は、ルーズベルトはとっくに死んでおり、蒋介石は敗走して台湾に国民党政府を置き、毛沢東は中華人民共和国を宣言していましたが、アメリカはこれを認めず、いわゆる二つの中国があって参加を要請できなかったのです。すでに米ソの冷戦は始まっていましたから、とうぜんソビエト連邦は参加しませんでした。
この講和会議に呼ばれながら参加しなかった國がありました。それは、インドです。
サンフランシスコ講和条約の前年の1950年には、あの朝鮮戦争が勃発していました。インドは、日本との講和条約にはソ連と中国の参加が必須であると唱えていました。自国が印・パ対立と共産中国との紛争を懸念する國として、アメリカとソ連邦のいずれに与することも国益に叶うものとは考えなかったのです。二国間で講和すれば充分と考えたのです。
サンフランシスコ講和条約の署名国への参加に関してのお笑いは韓国でした。
韓国は何度もしつこく参加を要請していました。しかしいつも拒否されました。韓国は日本に併合されていたし、亡命韓国政府も存在しなかった。それが理由でした。だいたい、朝鮮人は日本軍として一緒に戦っていたのですから、おかしな要求と言えました。1949年には、李承晩ラインを一方的に制定したり、対馬領有を宣言したりしていました。同じ年のこと、在アメリカ大使のジョン・ジョセフ・ムチオはアメリカ国務省にこんな驚くような働きかけをしています。
中国国民党軍には朝鮮人部隊があったではないか。大韓民国臨時政府も存在した(これは嘘)。もし韓国を署名国にしてくれれば、非現実的な対日賠償請求の要求を諦めさせることもできるんだ。
おそらく、日本にも身勝手な働きかけもやっていたのは想像に難くない所です。日本政府としては、「在日朝鮮人を連合国民として扱わないことが保証されるならば、韓国の条約の署名への反対に固執しない」との態度をアメリカに表明しました。たぶん在日朝鮮人が日本から離別することを望まなかったからだと考えられます。
結論は1951年7月9日にでました。ダレス国務長官補は韓国大使との会談で「韓国は日本と戦争状態にあったことはなく、連合国共同宣言にも署名していない」ことを理由に、署名国になれないとの通知を行いました。
しかし韓国側はなおもめげることなく、日本の在朝鮮半島資産の韓国政府および米軍政庁への移管、そして竹島・波浪島の韓国領編入などを記した要望書を提出したうえで「十分な信頼と信任により平和を愛する世界の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と日本を国際社会に復帰させようとする対日講話条約締結に反対しました。これに対して、アメリカはラスク書簡で、在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認めるが他は拒否すると言う最終回答を行ったのです。
韓国のしつこさはなお止みませんでした。この最終回答後も署名国としての地位を要求し続けました。ダレス国務長官補は再度拒否し、オブザーバーとしての参加要求にも応じませんでした。しかし、非公式に参加するのなら、宿泊等の便宜は図りましょうと答えたのです。ほんとにビックリするほどのしつこさというべきで、このしつこさを知っておれば「河野談話(河野談合)」もなかったと思うのです。
話が、横に逸れた訳ではないのですが、本筋に入るまでに大いに行が重なって長くなりました。ここいらで、いったん中断しようかと思います。次には、本筋に入って、どうしてこの二国が70年経っても勝ちにこだわるのか。その理不尽な物言いに他の国々が変に同調しているようなのはなぜかなどについて考えてみたいと思っています。