GHQの親玉であったマッカーサーが、後にアメリカの議会で証言したように、日本は自衛のための戦争に追い込まれることになりました。あれーっ、それは違う。日本の軍部が暴走した結果、侵略戦争を行ったから連合国にやっつけられ、原爆を落とされるというひどい結末を招いたのではないのですか。そう思う人がいるはずです。そういう風に永年教えられてきたのですから。
でもそう思う人は、だんだん減ってきているようでもあります。ここ数年、近現代史についての関心が高まり、多くの人が学習を始めたからです。むかしのように図書館に通う必要はありません。ネット上に情報はあふれています。
なんとなく信じ込まされた自虐的な歴史観のようなものは減りつつある一方、安倍政権に対する暴走政権という攻撃が強まっているようです。
日米が戦った大東亜戦争。この呼び方はGHQに禁じられたので太平洋戦争と言い換えたのですが、東アジア(東亞)を拡大した「大東亜」での戦争で、地理的にこの呼び方が正しい。
この戦争で日本はまけました。しかし、もし大東亜戦争がなかったとしたら、今の世界はひどく違ったものになっていたと思います。それは、この戦争を機に次々とアジア・アフリカの有色人種の國ができたからです。
日本が世界の5大列強の一つとして常任理事国だった国際連盟の加盟国は第二次大戦が始まる前には50ヶ国ほどだったのですが、第二次大戦後の国際連合ではどんどん増え、現在では190を越えています。こうした世界の流れを作ったのは、間違いなく大東亜戦争だったといえるでしょう。だから、日本は戦争には負けたけれど、目的は完遂したなどと唱える人もいます。しかし、ぼくとしては、そんな負け惜しみみたいな言い方はしたくありません。しかし、事実は事実なのであって、いずれそうした歴史が明確に語られることになると思います。
戦争が終わり世界大戦を防げなかった国際連盟の反省をもとに作られたのが国際連合です。この国際連合という日本訳語の原語はUnited Nations(連合国)です。これは第二次大戦で日独伊三国同盟を始めとするいわゆる枢軸国と戦った連合国という呼称で、これがそのまま国際連合という呼び名に引継がれている訳です。
そういう意味でも、国連(国際連合の略称)は戦勝国連合でもあると言えます。その規約の中にはいわゆる敵国条項というものがあります。これは、連合国に歯向かった枢軸国が、確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こしたりした場合は、国連の承認なしに勝手に攻め滅ぼしてよろしいというものです。
こんなとんでもない敵国条項なるものは現在では意味を持たず死文化しているという見解もあるようですが、それは書き換えも削除もされることなく、厳然と存在しているのです。
日本人は遵法精神に富んだ国民だといわれます。日本人はルールを守るべきものと考えるが、中国人は自分に都合の良いように変えるべきものと考えると、チベット出身のペマ・ギャルポさんはいっています。これは中国人に限らず欧米人も同じことだと思います。
有名なスイスの心理学者・ジャン・ピアジェ(Jean Piaget 1896〜1980)という人がいて、特に子供について多くの実験的臨床研究をおこなったのですが、その中に遊びのなかで、子どもたちがルールをどう捉えるかという興味深い研究があります。それは次のようなものでした。
10歳以下、特に7〜8歳の子供の場合、年長者に教わった規則を厳守する。ルールは「強制的で神聖な何ものか」で、絶対的な拘束力をもち変更は許されないとみなされる。10〜12歳の子供の場合、ルールは年長者の「権威」にではなく、遊戯集団の仲間たちの「同意」に基礎をおく。だから、強制的にではなく自発的に受入れられるものであり、より楽しく遊ぶために必要とあらば、「合意」によって変更される。
これからいうと、GHQに作ってもらった憲法を「平和憲法」などとありがたがり、挙げ句の果てには、「ノーベル平和賞」申請までに至る日本人は7〜8歳の子どもレベルということになりそうです。マッカーサーはGHQ指令を守ろうとする日本人をみて、その従順さを日本人の美徳とは見ず、「中学二年生」などと称したのかもしれません。
国連に関しても、日本人は過度に信頼し過ぎているきらいがあるとぼくは感じています。どこの國も日本人ほど国連をありがたがっていないと思います。国際法に関しても又しかり。
かつて、伊藤博文が日本の近代化を学ぶためヨーロッパに遊学したとき、ビスマルクに諭されたことは、「国際法」などなんの役にも立たない。強い國は好き勝手に変えたり無視する。だから重要なのは「憲法」を持つことだ。そこで活眼した伊藤博文は、憲法を猛勉強し、ヨーロッパの先進国も驚く「大日本帝国憲法」を作ったのです。
「帝国憲法」ほど、貶められ無視されているものはない。よく読んでみて初めて分かることなのですが、当時最も先進的と言われたことが頷けます。大災害勃発時の対策など現行憲法には欠けていることもしっかり備わっているし、基本的人権もしっかり書いてあります。
「天皇は神聖にして侵すべからず」の条文をもって、まるで北朝鮮みたいだなどと思っている人がいるようですが、とんでもない誤解です。この条文の意味は、国際的な意味合いの憲法の特殊語法で、天皇は政治に責任を負わないという意味内容なのです。ペルギーの憲法にも全く同じ条文がありました。
伊藤博文が最も心を砕いたのは、天皇の権力をいかに制限するかということで、明治天皇もこの点を充分に理解しておられたといいます。
昭和天皇の詔勅の一つに「天皇の人間宣言」というのがあります。詔勅にはそうしたタイトルなどというものはありません。単に新年の詔勅だったものを、たぶん学者がそんな間違った呼び方をしてマスコミが伝えたということです。正しい呼び方は【新日本建設に関する詔書】です。この時の天皇の本意は民主主義というのはアメリカに教えてもらうまでもなくすでにあった。日本国民よ自信を失うなという意味だったと、天皇陛下自らが記者の質問に答えておられるのです。この詔勅の冒頭に置かれた「五箇条の御誓文」がそれを示しています。
ところで、この「五箇条の御誓文」を「五箇条の誓文」と呼び、御誓文と言ってはいけない集団があるのだそうです。それは「日本歴史学会」です。
話を戻して、第二次世界大戦後に連合国によって作られた国際連合によって、新しい世界が作られることになりました。世界の平和に最も関わる安全保障理事会は15の國によって構成されます。アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア(かつてはソビエト連邦)、中華人民共和国(かつては中華民国)の5つが常任理事国です。他の10ヶ国は非常任理事国と呼ばれ、加盟国の投票によって決められ、2年任期で半分の5ヶ国が入れ替わることになっています。
この安保理といわれる組織はいわば最高議決機関といってもいい権限を持っています。意思決定は9ヶ国の賛成によってなされることになっていますが、常任理事国の一ヶ国でも反対すると成立しません。これがいわゆる拒否権というものです。
普通に考えれば、この拒否権なるものはじつに理不尽に思えるのですが、これは世界大戦を防ぐ働きをするものとも考えられます。強大な武力、つまり核を持つ國に拒否権がない場合、それは世界大戦の発生を招きかねないという経験的知恵の産物と考えられます。
日本は常任理事国入りを望んでいるかも知れないけれど、それは拒否権を持たない国の常任理事国入りという国連憲章の改定が必要で、敗戦国条項の削除さえできない国連では難しいことなのでしょう。
そんな状況の国連は、現在の世界の激動を鎮めるような働きをすることは全く無理と言っていいでしょう。調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、ぼくは絶望的な心境になっています。
日本人は日本のことをまず考えるべきです。
「墓の下の民主主義」という考えがあります。「死者の民主主義」ともいわれます。ぼくの考えでは、民主主義というのは多数決の原理でもあります。それはまた、したがって、政治においては衆愚政治の欠点を持つと言えます。そこで私たちは、一票を投じる判断をする時に、父親ならどう考えただろう。母親ならどう考えただろう。祖父母ならどう思っただろう。さらには、祖先はどうだったのか。そういう思惑を深めて判断する必要があるのではないだろうか。そんなことを考えるのです。