「日本の歴史教科書」 2013/04/16
「日本史教科書、天皇は大王か」 2013/04/19
「日本史教科書・倭寇のくだり」 2013/04/20
「日本の歴史教科書について(承前)」 2013/05/14 などなどです。
そもそも「新しい日本の歴史教科書」は、1996年西尾幹二氏等を中心として結成された「新しい歴史教科書をつくる会」によって、出版されるようになった。従来の歴史教科書が「自虐史観」の影響を強く受けているとして、従来の「大東亜戦争肯定史観」にも「東京裁判史観」ないし「コミンテルン史観」にも与しない立場から新たな歴史教科書をつくる運動を進めるとしてきた。
路線をめぐっての幾度かの内部対立や毀誉褒貶があり、現在の会長は7代目である。
あたらしい歴史教科書は、育鵬社と自由社の2社から出版されてきた。その路線対立を写してか、この二社は色々と争いがあるようだ。私たち日本国の国民にとってはそんなことはどうでも良いことのように思える。
今回出たのは自由社のものである。その帯には「虚構の南京事件を載せず実在した通州事件を書いた初めての教科書」と高らかに謳っています。通州事件を始めとする謀略によって日本が日華事変にひきずりこまれたのは歴史的事実なのですが、マルクス史観を奉じる日本の歴史学者どもはついぞ取り上げようなどとはしてこなかったのです。
アマゾンから届いたので、早速最初から読み進めることにしました。いや違うのである。これまでもそうだったのだが、もっと面白い。読んでいて楽しくなってくるのである。
教科書を読んで暗い気持ちになるようではいけません。教科書はすべからく青少年に夢を与え、日本国に生まれたことを誇りに思う気持ちを持つようなものでないといけません。そうでない教科書など世界の国のどこを探してもないのです。ところが唯一の例外が日本という国だったと言えます。
例えば、近代日本国の礎を築いた伊藤博文、初代から始まってなんども総理大臣を務めお札の図柄にもなっている卿のことを「ハルピン駅で安重根によって射殺された」と記述している教科書があるのです。いったいどこに国の教科書かという話です。韓国の教科書ならいざ知らず、日本の教科書であれば、最低「暗殺」でないといけないと思います。
では、これからこの「新しい歴史教科書」読みながら目に止まった記述とか図とかを取り上げてゆきたいと思います。 縄文時代は世界でも一二を争う豊かな時代だった。まず、日本には旧石器時代がなかったと考えられていたが、60年前の岩宿遺跡の発見によってこの定説がくつがえったことが述べられている。そして、この大発見をしたのは学者ではない一市井の考古学愛好家であり、この人・相沢忠洋について詳述されている。日本には旧石器時代から人が住み着いていたことが記されています。日本には、そこまで詳しくは書いてはないのですが、世界4大文明が始まるもっと前の時代アルタミラ洞窟の壁画の時代から人が住み着いており、かなり豊かな縄文文化が花開いていたのです。
特に食生活は豊かであり、クッキーのようなものが出土していますし、食材に至っては実に多岐にわたり、調理と煮炊きが行われたいたことが明らかとなっています。
この教科書には、随所に「もっと知りたい!」という見開きのコラムがあって興味深い著述がされています。「和の文化」縄文というタイトルのコラムは、次のように結ばれています。
「1万年以上にわたる縄文時代の大きな特徴は、遺跡から戦争の武器が出土しないことです。三内丸山のような巨大な遺跡からでさえ、動物を狩るための弓矢や槍はありましたが、武器は見つかりませんでした。お互いが助け合う和の社会が維持され、精神的な豊かさを持ち合わせた社会であったと考えられます。私たちの祖先である縄文の人々は、「和の文明」とも呼べるこのようなおだやかな社会を築いていたのです。 邪馬台国とか卑弥呼とか、まことに差別的な名付けの当て字を行ったシナ人も、日本人の類稀な人柄を認めざるを得なかった。やがて、古代国家が形成されてゆくのですが、それに関しては中国の歴史書である『三国志』に漢字3000字ほどで簡単に記述された有名な「魏志倭人伝」があります。
そこに邪馬台国の人々の社会・生活・性情についての記述があることをぼくは全く知りませんでした。ここに書き写すことにしましょう。
魏志倭人伝の中で、倭人の性格と倭人社会の特徴が書かれており、日本人の性格にまで言及した最古の記録ということができる。3点だけが取り上げられている。
①「その風俗淫ならず」 風俗は乱れていないと書かれている。別のところでは、会合には老若男女を問わず、共に参加していると書かれている。
②「盗みをしない」 盗みをしないとわざわざ書いていることは、邪馬台国を観察した中国人にとって、よほど印象深いことだったのであろう。のちの時代の7世紀始めのころの倭国を記録した隋書倭国伝にも盗みのないことが記されている。
③「争訟少なし」 争いごとが少ないということも、倭国が縄文時代以来のおだやかな社会を引き継いでいることの表れであると考えることができる。
この「新しい歴史教科書」の特徴の一つは神話への詳述であると言えると思います。ぼくの場合、イザナギ・イザナミの神による我が日本国の国つくりの物語は、学校で教わったものではなく、母親が語り聞かせてくれたものだったように記憶しています。
大東亜戦争に敗れたのちの日本を7年間にわたって統治した白人国連合としての連合国の代表GHQは、日本の古来伝統の神道に関して、全く理解を欠くというより理解の外だったと言えます。
日清・日露そして大東亜戦争において見られた日本の強さの源泉は神道であり天皇であると考え、これを壊滅させることが必須であると考えたようです。GHQは早々と1945年(昭和20年)12月15日、いわゆる神道指令を発しました。それは、神道に加え、皇室の伝統、そして歴史教育を全面否定することでした。同時に「大東亜戦争」「八紘一宇」などの文言も使用禁止とされたのです。日本が独立を果たした70年後のいまも、ホントに馬鹿げたことに、ほとんどの教科書はこれを守ったままなのです。
『古事記』に描かれた神話の世界の一大トピックとして国譲り神話が「もっと知りたい!」に「国譲り神話と古代人」として大きく取り上げられています。<争いをさけ、オオクニヌシがアマテラスに豊かな国土をわたした「国譲り」の神話。このお話の中に、当時の人々の信仰やものの見方があらわれている。>と冒頭のキャプションに記され、「◉古代日本人のものの考え方」の項では次のように述べられている。「古事記」に書かれた「国譲り」の神話には、古代日本人の思想を読み解く手がかりがふくまれています。
第1にアマテラスオオミカミはタカマガハラの神々と相談して使者の派遣を決め、オオクニヌシも息子の意見を聞いて身のふり方を決めています。日本には、できるだけ話し合いで物事を決める合議の伝統があったのです。
第2に世界の他の地域なら、国土を奪い取る皆殺しの戦争になるところですが、「国譲り」の神話では、統治権の移譲が戦争ではなく話し合いで決着しています。
第3に、オオクニヌシの心境を考えてみると、自分は何も悪いことをしていないのに、汗水垂らして苦心の末に作り上げた国を他者に譲るのですから、オオクニヌシはさぞかし悔しい思いをしたに違いありません。
そこで、希望通りに巨大な神殿が作られ、オオクニヌシを祀りました。それが出雲大社です。勝者は敗者に対して、その功績を認め名誉を与え、魂を鎮める祭りを欠かさない。古代の日本人はこうした政治のあり方を理想としていたのです。
かいつまんでピックアップすると、「◉「倭」から「日本」へ」では、「日本」という国名ができる前には、わが国は、周囲の国々から「倭」、「倭国」などと呼ばれていました。「倭」は、「人に従うありさま」、「背が曲がって低い」、「みにくい」などの意味を持った漢字です。なぜこんな国名になったのでしょうか。それは古代中国の人々が、わが国を軽く見て、あなどる気持ちで用いた国名だったからです。
「◉1300年の歴史をもつ国号」では、7世紀の初め聖徳太子によって中国に対する属国のような立場を改め、「天皇」という君主の称号を使うことにしました。それから1300年を経た今日まで、この国名は全く変わることなく使われつづけています。中国や朝鮮半島の国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それがいかに特別なことであるのかがわかります。わが国の国名が、この長い年月の間変わらなかったのは、その間国がとだえたり、他の民族にとってかわられたりすることがなかったからです。わが国は、世界でもっとも長い歴史をもつ国です。
「◉「ジャパン」の起源も「日本」」では、古くは中国で、「ジッポン」という発音も行われていました。それを西洋の人々が耳で聞き取って、「ジパング」となり、さらには、英語で「ジャパン」と呼ばれるようになりました。「ジャパン」の起源もまた、「日本」だったわけです。
ところで、この教科書ではチャイナのことを終始「中国」と記していますが、これはGHQの時代にチャイナが「支那」という呼び方を嫌ったせいであり、それがそのまま、この実態と乖離した呼称が使われつづけているわけで、ぼくとしては気になるところです。いずれ近いうちにこのことについて書きたいと思っています。 神話に関してと同じく日本の天皇について詳しい系図が載せられているのも、この教科書の特徴と言えます。
大東亜戦争において戦場が本土に近くなるほど熾烈さを増し、米軍は多大の犠牲を強いられました。対ドイツ戦とは対照的だったのです。占領下にあるにも関わらず、GHQは日本人の精神的強さ、復讐戦を恐れ、神道を衰退させ、日本人の大和魂を骨抜きにするという方法をとったのです。
天皇陛下など居て欲しくない皇室制度などなくなればいいと考えるコミンテルンの指令に忠実な歴史学者集団が日本の学会を乗っ取ったまま現在に至っていると言えるようなのです。しかし、日本国の現憲法では、冒頭に天皇の権能が述べられているにもかかわらず、歴史における天皇はまさにネグレクトされてきたと言えるでしょう。そのため、教科書に「万世一系」といわれる天皇家の系図が載ることはあまりなかったといえます。
しかし、院政政治や南北朝の構造を知るには天皇の系図なしには理解困難なのです。この教科書ではその点を完全にカバーしているのもこれまでのものを抜け出たものと言えるようです。
ぼくはこれまで、一揆というのは抑圧された民衆が権力者に異を唱えて蜂起することだと教えられたのですが、それは違うということを、この教科書で知りました。
「もっと知りたい!」に「一揆と合議の伝統」というのがあります。
一揆というのはもともと、揆を一にする(気持ちを一つにする)という意味で、人々が共通の目的のために寄り合いを持ち、立場の違いをこえて平等な資格で一致団結することを表す言葉でした。平安時代の末、寺院の僧兵が訴訟などの共同の行動をとるとき、団結を神仏に誓うために、行動の趣旨を書いた紙を焼いて水に混ぜ、全員で回し飲みをしました。これが一揆の始まりと言われます。
「⚫️広がる一揆と農村の自立」の項はこうなっています。
応仁の乱によって幕府や守護大名の力が衰えてくると、村の農民は、一揆を結成して行動方針を合議し、武装して実力で自分たちの村を守ったり、支配層に対して要求を通そうとするようになりました。1942(正長元)年、近江国(滋賀県)に始まった農民一揆は徳政(借金の帳消し)を要求し、京都の高利貸しを襲撃しました。このような、農民などの民衆が結束して借金の帳消しを求める一揆を徳政一揆と呼びます。
「合議」と「満場一致」を特徴とする一揆は、農民に限らず、武士・僧侶から職人にいたるまでの全ての階層において、人々が社会的に行動するときの集団のあり方となりました。
しかし気がついたことは、記述の流れのスムーズさでした。歴史というのはその変わり目にそれを示唆する事件があったり、その時代を表す人物が現れたりしながら流れるように移動して行くもののように思うのです。ここ中世の終わりまで納得しながら読み進められたように思いました。変なこじつけや型にはまったようなぎごちなさがなく誠に自然なのです。気分がまことによろしい。
そして、第3章の近世にこの絵が現れます。言わずと知れたゴッホの「タンギー爺さん」です。
よくご覧になってください。タンギー爺さんの後ろには、4・5枚の浮世絵の模写がかかっています。上の左は歌川豊国の「三浦屋の高尾」、上の右は歌川広重の「五十三次名所図会」、右下には渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」です。
当時は、ヨーロッパの美術界はジャポニズムがブームだったのです。浮世絵を見たヨーロッパの絵描きたちはその斬新さに驚嘆したのでした。最初に目を止まった浮世絵は、なんと漆器を包んでいた包装紙だったと言います。
日本の江戸はすごかったのです。人口はパリを上回り、糞尿を窓から投げ捨てていたパリやロンドン。パリの人はセーヌ川の水を飲んでいましたが、江戸では多摩川から上水道が引かれていました。汚物は汲み取り屋によって農村に売られていました。発達したリサイクルシステムがあったのです。
民衆のエネルギーや読み書きの能力も世界一だったと考えられます。
さて、問題の近現代の記述はどうなっているのでしょうか。長くなったので、それは次の稿に回したいと思います。