本多勝一氏と吉田二郎氏と

 先の項で『岩と雪ベストセレクション』にぼくの『登山と「神話」』が取り上げられたとして、その内容がデジタル化されている<高田直樹ドットコムへようこそ>なるサイトを紹介しました。しかし正しくは、その冒頭の1章「スポーツ神話について」のみでした。正確を期してここで訂正しておきます。
 さて、前に示したこの本の紹介文で、冒頭に掲げられている作品は、本多勝一氏の「パイオニアワークとはなにか」であり、そして二番目は吉田二郎氏の「スーパーアルピニズム試論」でした。

 ところで、この二方とも、大変問題のある方です。
 吉田二郎氏というのは、「鹿島槍研究」という鹿島槍ヶ岳のバリエーション・ルートを詳述した大変優れた本の著者でした。
 ところが、幾つかのルートについて、単独で初登したという記録に疑いが持たれたのです。ぼくが第二次RCCに入った頃に大きな問題となっていて、東京の会合に出るといつもこの問題が議論されていました。
 しかしぼく自身は、そんなことはどうでもいいという感じで、あまり気にもしていなかったように思います。そうした会合には、その頃には吉田氏も出ていなかったようで、ぼくは会ったことはありませんでした。

 ネットで調べてみると、JAC三水会というベージがあります。どうやら日本山岳会の毎月第3水曜日に開かれるサロンではないかと推察しました。
 この会の平成25年2月例会のテーマは、「岳界から消えた登山家 ~あらためて吉田二郎の疑惑問題を検証する~」となっており、砂田定夫という人が詳しい考察の発表を行っています。
 50年以上も経って、なお話題となる。そんな大きな事件だったといえるのでしょう。ただ、こういう事件というか出来事は、日本の山だけではなく、世界の高峰でもゴロゴロあります。
 結構面白い話もあるのですが、ここでは書きません。

 そして砂田氏は結論として、次のように述べられたということです。
 昭和30年代は、空前の登山ブームで第2次RCCの中心だった奥山章の参謀役の吉田二郎が当時の気鋭のクライマーたちに伍して初登攀の記録に自らの名を残したいという焦りがあり、三大岩場(穂高・剣・谷川)でなくやや日の目を見なかった後立山に目をつけ、そのオーソリティとしての地位を確保することを思いついた。
 巧みな文章を駆使して虚構の世界に足を踏み入れ、次々に初登攀の報告を重ねていった。当初は一部にはその記録に違和感を持った人もいたようであるが、表面的には糾弾するものも現れず、吉田は虚構の泥沼に浸っていった。
 ある意味では、初登攀競争時代の犠牲者ともいえる。吉田はフイックション作家だったら成功していたかもしれない、という人さえいる。それほどの吉田が記録の疑惑に対して明確に反論の文を書くこともなく、岳界から消えていった。結局、吉田二郎は書斎で遭難して果てたのである。

 よくある話なのです。おそらく彼の登攀は本当ではなかったのだろうとぼくは思っています。でも反論も再登攀もすることなく、黙って山の世界から去った。それはそれで潔いのではないか。という気もします。
 こんなことがありました。
  1961年、52歳のカシンは、北アメリカの最高峰のアラスカ・マッキンレー峰への技術的に困難なルートー現在カシンリッジとして知られるーからの初登頂者として、ジョン・F・ケネディー大統領からの祝電を受けた。1984年、78歳の時、初登頂50周年として、ピッツ・パディレーに再登攀した。このイベントにメディアが疑いを持っているのを知って、彼は写真で証明するため一週間後に再び攀った。
 これは次の記事からのコピベーです。リカルド・カシンの訃報
 吉田二郎氏はとんでもない男ということになるでしょう。しかし、しかし、もしそうであっても、彼が唱えた「スーパーアルピニズム試論」なるものがダメといことにはならない。それは別の問題ということも言えるのだと思うのです。 

 次のもうお一方は、本多勝一氏。大変有名な方で、皆さんもご存知だと思います。
 『カナダエスキモー』に始まる極限の民族三部作はなかなか素晴らしく、ぼくも熱中して読んだものです。
 しかし、山登りについての論説には、例えば「山は死んだ」などという物言いには違和感を覚えるようになったようです。なんというか、そこにある作為みたいなものを感じたのかもしれません。パイオニアワークの論述にもなにかイラつくものがありました。
 だから、中国の旅などの新聞連載はあまり集中して読みませんでした。

 彼とは一・二回顔を合わせたことがあります。最初にあったのは、安川茂雄さんの家でした。
 安川さん宅は東京でのぼくの定宿になっていました。もともとぼくを第二次RCCに誘い込んだのは安川さんで、初めて会ったのは剱沢小屋でした。
 東京のお家では、二階に泊めてもらい、いつも朝、奥さんが運んできてくださった冷えたビールを、二人並んで寝床で腹ばいで飲むのが常でした。
 ある時、昼過ぎに安川さん宅に着くと、応接間に10人近い山屋さんが集っていました。少々ただならぬ雰囲気で、一枚の絵葉書を囲んで議論していました。

 黙って話を聞くうちに、だんだん様子が分かってきました。その時は、日本山岳会のエベレスト登山が進行中で、目標はエベレスト未踏の南壁だったのです。
 この日本山岳会隊には、山岳同志会の小西政継氏が参加しており、彼から届いた絵葉書の内容が問題だった。南壁は断念され、一般ルートだけに絞られることになるようだと書いてあったのです。
 なんだこれは。小西は使い捨ての当て馬に使われただけではないか。日本山岳会はけしからん。ハガキに込められた無念さが、明確に書かれていないからこそ、なおみんなの胸に響いたようなのでした。
 そこで、明日の朝日新聞に弾劾文を載せようという話になっていました。安川さんが、事の経過は俺が書く。エベレストの登山史はやはり君に頼む。それから・・・・。などと分担を決めています。

 そこで輪の外側から、ぼくは言ったのでした。「弾劾してそれでどうなるのです? なんともならんのではないですか。それより皆さんで登ったらいいんではないですか」
 一瞬シーンとなって、沈黙が続きました。
 それまでほとんど喋らず、ずっと沈黙を保っていた一人の男が立ち上がり、すっと部屋の外へ消えました。それが本多勝一氏でした。
 京都からやってきて、あんまりみんなにも知られていない新参者に近いぼくが、偉そうなことを言ってしまったと、ぼく自身もやや後味の悪い思いで、沈黙を続けていました。
 本多氏は五分もしないで、戻ってくると、「今カトマンズに連絡して訊いてみたんだけど、来年は塞がってるけど、再来年は空いてるそうです」
 こうして、話は一気に第二次RCC隊がエベレストの南壁を目指すことになったのです。
 その時、第二次RCCでヒマラヤ遠征経験のあるクライマーは、カラコルムのディラン峰の隊員だったぼく一人だったのです。

 話を戻して、本多勝一氏です。
 彼は今になっても、ネットでの言語空間で蛇蝎のように疎まれているように思えます。その最大の原因は、南京大虐殺の捏造ということです。
 ネットでは、彼に関する記事が溢れています。武田邦彦先生によれば、「この人はよほど日本に恨みがあるみたいです」。
 朝日新聞の気鋭の記者として中国に赴き、「中国の旅」を朝日新聞に連載したのです。ここで日本の人たちは、日本軍人による百人斬りや南京大虐殺なるおぞましい事件を知ることになりました。

 本多勝一研究会などというサイトが作られています(1999年)。実に緻密な検証が行われています。そこでは、南京だけではなく、カンボジアでのポルポトによるカンボジア大虐殺も取り上げられています。
 そこでは、著書や雑誌における発言の変化が問題となっています。ポルポトの大量殺戮について、それは次のようなものでした。
「『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだった」(1975年)
 本多勝一は、このように雑誌に書いたのですが、翌1976年の著書『貧困なる精神・第4集』にそのまま載り、これが1987年の8刷りまで続きます。
 ところが、1990年の9刷りになると、この部分は抹消され、次のように書き換えられました。
「事実そのものが全くわからず」 「軽々に論じられない」
 当然、これは問題となり、批判にさらされ、他の著書にも見られる多くの「書き換え」が指摘されるようになりました。これらに対して、彼は次のように返します。
「『虐殺はウソだ』と根拠もなく叫んでいる幼稚な段階の方たちには、とてもまともな相手はできません。」

 こうゆう状況について、山形浩生という人が「ポルポトをめぐる本多勝一」という考察文を書いていて、次にように要約してあります。
要約: 本多勝一はかつてポル・ポト政権を賞賛していており、そしてベトナムの情報をそのまま垂れ流すことで事たれりとしていた。でもかれは純粋に社会主義を信じ切っていて、社会主義同士が争うなんてことが理解できなかったらしく、一時は明らかに困惑しきっていた。かわいそうに。そのまま自分の軌跡を見直すことなく、いまのだらしない姿に堕してしまったのは残念だが。(2007年12月)
 
 1963年1月、この年昭和38年はいわゆるサンパチ豪雪と呼ばれる年で、薬師岳の冬季登頂を目指した愛知大学山岳部の十三人が、引き返しの途中、誤って黒部川に落ちる尾根に迷い込み、全員が死亡した。
 下山予定日を1週間過ぎても戻らない山岳部員を求めて、捜索隊はベースハウスとなっていた薬師平の薬師小屋へと向かっていた。
 朝日新聞の藤木高嶺写真部員は、新聞社の小型ヘリで、捜索隊を飛び越して折立の北電詰所に入り、芦峅の志鷹敬三さんとスキーで薬師平を目指した。
 一方、朝日新聞記者の本多勝一は、晴れ間をついて大型ヘリで、太郎小屋のすぐ下まで達して、雪洞を掘っていた藤木高嶺を飛び越して小屋に達し、全員不在のスクープをものにした。

 この功績が認められ、本多勝一・藤木高嶺のコンビによる、いわゆる『極限の民族』3部作が生まれることになったわけです。
 しかしこの二人はその後、共同で取材することはなく、「藤木決裂」と呼ばれる事件があったようです。コングール登山の時、なにも知らないぼくは、参加することになった藤木さんに、「本多勝一さんを誘っては?」と言ったのですが、彼は無言で全く反応しなかったように記憶しています。
 藤木さんには、遠征中も何度か、本多さんについて尋ねたことがあったのですが、あれほどいろいろと一緒に取材しているにもかかわらず、ほとんどなにも語りませんでした。少々の奇異感を覚えたのを記憶しています。

 問題の著作『中国の旅』はどんなのだろうか。買ってまで読む気になれないので、ネットで調べてみました。2014年1月25日にアップされたこんな記事がありました。
開いて見たが、目を疑うような内容だった。
これが一応、日本の新聞としての朝日新聞のルポとして連載されたことが信じられない。
最初から最後まで、中国共産党のプロパガンダの連続だった。
これをまともなルポルタージュと思う人間は頭がおかしい。
 などという調子で、引用が列記されています。一つ、二つを挙げます。

★共産主義の開発はきれいな開発
「夜、ホテルの大広間で記録映画を見る。チョモランマ調査隊の記録と、河南省の巨大な水利工事の記録。・・・10年かかったこの大工事は、万里の長城の現代版かと思わせる驚嘆すべきものだった。アメリカ合州国がやったテネシー川のTVA計画を思い出したが、同じ大工事でも、資本家のもうかる開発と、人民に還元される開発とでは、なんという相違であろうか。(P47)
★人民革命の世界への輸出
「毛沢東主席が正しく指導してくれた中国共産党や人民解放軍。それが戦いとって、私たちを暗い海底から救い上げたのです。この幸福を守るためには、断固として戦います。林彪同志のいうように、毛沢東思想を一層学んで、実際の行動で世界の人民の革命運動に参加してゆくつもりです」(P156)

 しかし、これはチャイナの人民のしゃべくりを忠実に転記しているだけとも言えます。
 それは、冒頭に書いてある次のような記述からも明らかです。
 「私の訪中の目的は、すでに入国申請のときから中国側に知らせてあったように、戦争中の中国における日本軍の活動を、中国側の視点から明らかにすることだった・・・」(P4)
 「私たち二人は東北地方へ来たが、古川記者は主としてプロレタリア大革命後の中国の姿を取材し」(P7)
 つまり彼は、朝日新聞の命を受け取材を行った。それは彼にとっては、まさにパイオニアワークだったのではないか。そうも思えるのです。
本多勝一 Katsuichi Honda 2014年8月の取材とナレーション【英語圏の情報戦シリーズ】
 相手は極限の民族のようなプリミティブな人たちではなかったし、チャイナもプロパガンダとして最大限に利用することになりました。

 南京大虐殺に関して、毛沢東も周恩来も、南京の「な」の字も言っていないのです。
 それを言い出したのは、本多勝一であり、強力な後ろ盾になったのは朝日新聞だった。朝日の威を借る捏造記者と言われる所以です。
 だからぼくは、朝日新聞こそ捏造報道の元凶であり、本多勝一のみが指弾されるのは、問題ではないかという気がするのです。
 敗戦後の日本では、共産主義・社会主義思想は先進的で明るい未来を作る考えと思われていたのです。北朝鮮を夢の国と信じ込んで渡って行った女性もたくさんいました。そんな国が拉致などをするはずはないと信じ込んでいた女性の衆院議長もいました。

 そんな時代が少しづつ変化し、事実が明らかになっていっても、それを認めることは、自分の食い扶持を失うことになるような人たちが、この日本にはたくさんいた、いや今なおいることを知る必要があるのでしょう。
 本多勝一も否応なく真実を知ることになった結果が、「書き換え」だったのだろう。しかしそれを行った途端に、攻撃にさらされ、新たな訴訟や裁判を戦うことになりました。
 それはそれで、彼にとっては生き甲斐となっているのかもしれません。そうした人生を送っても、あの『沈まぬ太陽』の主人公のような小説のモデルになることはないだろう。そう思うと、なにか悲しい気分になってしまうのです。

 参考までに、武田先生の動画にリンクを貼っておきます。14分ほどの動画です。
南京大虐殺は「本多勝一、捏造事件」である / 武田 邦彦

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