ぼくは京都府の岩滝というところで、1936年の9月17日正午に生まれた。産声と同時に正午のサイレンがなったので、父親はこれは吉兆と言ったという話を聞いた。その後、満一才で楠木正成の湊川の合戦の落人が逃げ延びたとされる京都府の園部町大河内村の山中の天保年間に建ったという茅葺き屋根の家で、祖父母に育てられて大きくなった。
学齢期になって祖父母の願い通りその土地の西本梅国民学校に入学が決まっていたのだが、父母のいる場所の京都府和知の国民学校に入ることになった。和知での生活はぼくにとって辛いものだった。そこには、全く未知の妹がおり、二人の下女もぼくには冷たかった。
街道べりの高台に立つ国民学校は、大きなイチョウの樹があり、霜柱のたつ広い校庭では、毎朝冬でも行われる上半身裸、裸足のラジオ体操は辛いもので、ぼくの両足裏は霜焼けで真っ赤になった。
暖かくなってきた頃、ぼくは奈良の隣の木津国民学校へ転校した。父母共に小学校の教師でその転勤に伴う移動だった。
木津では町外れの下河原という辺鄙な場所で山田川という川の堤防の下に建つ長屋が住まいだった。長屋は木津町へ向かって東へ田んぼを横切る一本道の土手の下にあった。
道から少し降って、長屋の一番左手に一人暮らしの大家のじいさんの右が我が家だった。その右には北海道から越してきたという役所勤めの人の家族が住んでいた。その右、長屋の右端は庭のある大きな屋敷で、この長屋の家主の家だった。
長屋の部屋の構造について思い出して書いてみよう。
狭い潜戸みたいな玄関の引き戸を開けて中に入ると、四角いコンクリート敷きの土間がある。正面の壁にに丸い荒い竹格子のはまった障子窓があり、その向こう
は板敷の小さな部屋となっていた。この部屋はすぐ土間に続き、左の釜戸、調理場を通って裏口の戸に至る。
玄関土間の左の腰段の向こうは障子戸を隔てて6畳の畳間で奥に押し入れがあった。この部屋に入って右手の奥も6畳の畳間で、これがこの長屋の主部屋である。その奥は、縁側で濡れ縁はL字型で、それを通ると厠に至る。いわゆる汲み取り便所である。厠と裏口は塀で繋がれ中は正方形の中庭となっていた。
屋根はまともな瓦ではなくコンクリートの粗雑なもので、台風の後には必ず雨漏りがした。大雨になると裏手の山田川の堤防は決壊し家は水浸しになった。下水道などなかった時代だから汚物が溢れ出し、不衛生極まりない状況だったが、小学生のぼくは水にぷかぷか浮かんだ西瓜を集めたりして、結構のこの水害後の異常な世界を楽しんでいる風でもあった。
木津国民学校の2年生に編入したぼくは、入学の翌日早速学年のガキ大将と喧嘩をしてしまった。ぼくはそんなに喧嘩に強くもなかったし、なぜそんな喧嘩をしたのかもほとんどと言って覚えてはいない。でも放課後教員室に呼ばれて説諭されたのは覚えている。喧嘩の相手は西村といった。
これが西村とぼくの写真で、前にいるのが西村。喧嘩の後大の仲良しになってよく手製のバットで野球をして遊んだ。
たしか4年生の時戦争が終わり下河原からの集団での登校時、隊列が奉安殿の前を通る時「カシラァ、ミギ!」とぼくが号令をかけることもなくなった。
この学年にはヤオというとんでもない秀才がいて彼を中心にぼくとニシの3人が学年を仕切っていた。
ぼくが講堂の演台の下に大量の使用しなくなった生徒用の机と椅子が詰め込まれているのを見つけ、これを積み直して机と椅子の大きな団塊にちょっとわからないような隙間の通路を作って、真ん中の大きな空間に通じるようにした。これがぼくたち数人しか知らない秘密基地になった。何冊かの本も置いてあり、飴玉などもあり授業をエスケープしてここにいることもあった。
終戦まもない小学校では、結構自由な雰囲気もあった。生徒はグループで教科の学習集団を作り、小学生のカリキュラムによって授業が行われた。ぼくは理科班で、親父の専門学校の「水素は無味無臭無色の気体にして・・・」などと書いてある教科書をテキストに、水素や酸素の発生実験などをやった。よくそんなことが許されたと思うのだが、薬品庫の鍵はぼくに託され、毎日外が暗くなるまで予備実験をした。結果、希硫酸が飛んで、ぼくの服は穴だらけになった。
中学に行くことになって、ニシは東京のぼくは新設の帝塚山学園、ヤオは地元の中学に進み、3人は離れ離れになった。その後、ニシは獨協大学、ヤオは京大の教育学部に進学した。大学2年生でぼくが家移りするまで、数回会ったことはあると思うが、あまり記憶にない。何しろぼくは山登りに熱中していたからである。
ぼくたちが再会するのは終戦2年後の1947年からなんと57年も経った2004年のことだった。
この年ヤオは、担任の先生の頼みもあって同窓会を企画した。町中先生は奈良
の女高師(女子高等師範)を出てすぐに職に就かれたこともあり、ご存命であった。
ヤオたちは、名簿を作るのに苦労したらしい。特にぼくに関しては全くといっていいほど手掛かりがなかったらしい。みんながもう無理だと諦めたのちも、一人探し続けた女性がいた。それがさっちゃんだった。彼女が掴んだ手がかりを追うと、ある老人ホームに辿り着いた。そこにいたのはぼくの父親だった。彼女には本当に感謝しないといけない。
同窓会はぼくの記録では11回開かれている。どの回も中々凝ったものだ。第一回目は2002年10月26日に開かれた。会場は琵琶湖ホテルで、昼食後遊覧船ミシガンに乗り周遊、降りてからホテルマイクロにて周辺観光、ホテルで夕食後解散となっている。
2回目は木津小修学旅行再現旅行と銘打ったもので、2003年5月17日伊勢に出かけた。同じ旅館を探したのだがもう無くなっていたので、似たような宿を探したという。ぼくの記憶では二見浦で夫婦岩がこんなに小さかったのかと思ったのが印象的だった。
3回目、2004年5月15日、奈良の三笠温泉ホテル。町中先生だけではなく山口先生もおいでになった。出席者は70名に及んだ。
4回目、翌年の2005年12月4日に奈良の菊水楼で開かれた。
5回目は2006年10月29日から1泊2日で四国に出かけた。同窓生の一人が4国に嫁いでいて、ぜひ四国に来てと言ったからだったそうだ。明石海峡大橋を渡り、淡路自動書道を走って眉山カンポの宿で一泊した。ここまで、木津小同窓会は毎年開かれてきた。ヤオとさっちゃんの貢献に寄るところだと思う。
6回目から毎年ではなくなって2009年1月18日になる。場所はホテルセントノーム京都の2階平安の間だった。この時の出席者は6年い組15名、ろ組13名、は組18名、に組12名の計58名だった。
7回目、2011年1月29日。会場は近鉄奈良駅近くの春日ホテルだった。
8回目は2014年5月10日、場所はホテルセントノーム京都。
9回目、2015年5月10日で場所は春日ホテル。
10回目、2017年5月14日。春日ホテル。
11回目、2019年5月12日。春日ホテル。これが最後の同窓会となった。
ヤオは、これらの学年全部の同窓会だけではなく、い組だけの同窓会も何度か開いていた。京都八瀬の床で鮎を食べに行ったこともあるし、保津川下りをしたこともあった。
10回の後、ヤオが身罷り、町中先生ももうおられないので、同窓会はもう無理と誰もが思っていたのだが、なんとか開いてくれと多くの人がさっちゃんにお願いしてなんとか開いたのが11回目のものだった。この時数人の人たちがぼくになんとかやってくれと頼み込んできた。ぼくもその気になって、ヤオの遺志をつがんといかんと思ったのだった。それで、一人でやるより複数の世話人がいる方がいいと思い、めぼしい数人に声
をかけ、終わりに集まって打ち合わせをしようと提案した。
集まった4・5人と話し合いを始めようとした時、突然西村が大声で割り込んできた。そしてこういった。
「そんなもん相談するまでもない。俺が一人でやったる。任せといてくれ。」
有無を言わさぬ勢いだった。ぼくはたじろいで、でも連絡もそうやけど、出欠連絡もあるし一人では大変やで。いや大丈夫。俺一人でやれる。任してくれ。ぼくは鼻っ柱を折られた感じで引き下がったのだった。
一年たってもなんの音沙汰もなかった。次の年と約束した訳でもないしと次の年を待っていた。次の年も動きはなかった。連絡を取ろうとしたが電話は繋がらなかった。
そう越しているうちに4年がたった。そしてぼくは、ふと気づいた。もしかして西村は自分の死期を知っており、自分のいない同窓会を絶対に開いてほしくなかったのではないか。そう考えると、あの彼の必死の一人でやるという気迫が理解できるような気がしたのだった。