大阪NHKで「兵隊さんよありがとう」を唄う

前稿に書いた通り、ぼくは和知国民学校から木津国民学校へ転校編入となった。それは1944年4月のことだった。
木津国民学校へ通い出して確か数日経った頃だったと思う。担任のすこし年配の女の先生が教室に備え付けのオルガンを弾いて、クラスの全員に歌を独唱させた。全員がそうだったかどうか覚えてないのだが、とにかくぼくは「夕焼け小焼けの赤とんぼ・・・」と声を張り上げた。
その後、ぼく一人が呼び出され、放課後音楽室に行くようにとのことだった。音楽室には20数人の生徒が集まっており、教室の時と同じように次々と独唱が続いた。これは一人を選ぶためのオーディションだったようだ。
そしてなんでだか分からなかったが、ぼくが一人選び出されたのだった。なんでも1ヶ月ほどして、大阪NHKが軍隊慰問番組を放送する。その時に小学生が歌を唄うことになって、その人選が行われたのだと、説明を聞いてその時ようやく分かった。

小学校の音楽の先生として有名な吉中先生がこのことを引き受けていたようである。準備期間は1ヶ月足らず、日程が絞られていることもあってか、準備練習は厳しいものだった。
毎日夕食後、暗い田中の一本道を東へ向かい木津の街中を抜けて町外れのお寺、そこが吉中先生の住まいだった。お寺の本堂に置かれたピアノの横に立って、まずは発声練習。それから歌の練習が繰り返された。多分3時間を超えていたと思う。いつも家に帰り着くのは10時を回っていた。道端の電柱に街灯が付いていたとは思うが、小学2年生にとって全く人家のない夜中の田圃の一本道は結構緊張の毎日だった。

大阪NHKは中之島にあった。そこまでどうして行ったのか、おそらく誰かが連れて行ったのだと思うが全く記憶にない。ラジオ局の数人のお兄さんに迎えられ、すぐにぼくはマイクの前に立った。そのマイクは四角で白い磁器製みたいなもので、左右両側からピンと張ったワイヤーで吊るされていた。その前にぼくは立った。
まず、アナウンサーが、「南方の島々で日夜命をかけて頑張ってくださっている兵隊の皆様本当にご苦労様です。今宵は、皆様のご苦労を労って小学2年生高田直樹くんが歌を歌います。」と紹介し、ぼくは直立不動、力を込めて「兵隊さんよありがとう」とボーイソプラノの声を張り上げたのだった。
(下の歌詞、右へスクロールすると最後の部分が見えます)

一、
肩をならべて兄さんと
今日も学校へ行けるのは
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦った
兵隊さんのおかげです
二、
夕べ楽しい御飯どき
家内そろつて語るのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために傷ついた
兵隊さんのおかげです
三、
淋しいけれど母さまと
今日もまどかに眠るのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦死した
兵隊さんのおかげです

 

兵隊さんよありがたう

兵隊さんよありがたう

歌い終わると、周りのお兄さんたちは口々に「坊や、よく頑張ったね」と褒めてくれて、ぼくは嬉しかった。その後、地下室に案内され、そこは食堂のようだった。美味しいものがなくて悪いけれど、これを食べてからお家に帰ってと、ぼくの前に大きなヒラ皿に白ごはんに茶色のドロリとしたものがかかった食べ物が置かれた。
それはこれまで食べたことのない不思議な味の食べ物で、美味しいというより始めて食べるという感覚が先に立った。これがぼくがカレーライスを初めて食べた経験だった。

音楽に関する活動は、この放送で終わったわけではなかった。吉中先生は生徒による楽団を組織していて、その公演活動がかなり広範な小学校を巡って常に行われており、ぼくは知らぬ間にその一員となっていた。だから毎日の歌の練習は続いていた。
歌だけでなく、ぼくの主な役目は擬音係だった。「あした浜辺を彷徨えば・・・」と唄う合唱団の後ろで、豆の入った大きな柳行李を傾けて、「ザァーッ」と波の音を出した。また、「カエルの歌が聞こえてくるよ・・・」の歌の合間に両手に持った二つの湯呑み茶碗のお尻を擦り合わせた、「ケロ、ケロ」と鳴いて見せるのが仕事だった。
こうした活動は中学にも申し送られたらしく、進んだ帝塚山中学では勝手に合唱部と演劇部に入ることになっていた。

と、こんな風に書いてくると、世の中いかにものどかであるかのように感じられるかもしれない。しかし、実際はそうではなかった。学校の帰りには何度も米軍のグラマン戦闘機に狙われた。日本は、もう制空権を失っていた。
ある時、飛行機の爆音がしたと思ったら間近にグラマンが迫っていた。ぼくは走って道脇の土手に飛び込み、両手で頭を覆ってうつ伏せになった。近づく爆音に頭をもたげ、まっすぐこっちに向かってくるグラマンを見た。操縦席のパイロットの顔がはっきり見えた。その顔はなんと笑っていた。そして、ダダダダダダッと聞こえたが、ぼくは無事だった。当たるようには撃たなかったのだと思った。
少し離れた土手にはかなり大きな穴が空いており、微かな煙が立っていた。手で掘って、小さな鉛の塊を見つけた。持ち帰り母親に見せると、彼女は金切り声をあげて、すぐに捨てるように命じたのだった。

NHKのアウンサーは、「南方の島々で日夜命をかけて頑張ってくださっている兵隊の皆様・・・」などと言っていたが、南方の島々ではそのほとんどが既に玉砕して果てており、生き残った兵隊さんたちもジャングルの中で飢えと疫病に苦しんでいたはずだ。だからあの慰問番組はもしかしたら、そういうことを知った上での国民に向けての大本営のプロパガンダ放送だったかも知れなかった。
そう考えたのは、ずっと後になってのことだった。教師を辞めて時間ができ、日本のことを色々調べてようやく気づいたのだった。
國體の護持にこだわり、ポツダム宣言受諾を渋る中、ソ連の参戦を知ってようやく敗戦の決断をしたのだった。この決断は原爆投下によると一般に言われているが、それは誤りである。
それにしても、生き残り、かろうじて生き続けている日本の兵隊さんは、一体どんな気持ちでぼくの「兵隊さんよありがとう」を聴いたのだろうか。
その歌声、ぼく自身も聴いてみたい。でも、直後の大阪大空襲で燃えてしまったのだった。

小学校の同窓会

ぼくは京都府の岩滝というところで、1936年の9月17日正午に生まれた。産声と同時に正午のサイレンがなったので、父親はこれは吉兆と言ったという話を聞いた。その後、満一才で楠木正成の湊川の合戦の落人が逃げ延びたとされる京都府の園部町大河内村の山中の天保年間に建ったという茅葺き屋根の家で、祖父母に育てられて大きくなった。
学齢期になって祖父母の願い通りその土地の西本梅国民学校に入学が決まっていたのだが、父母のいる場所の京都府和知の国民学校に入ることになった。和知での生活はぼくにとって辛いものだった。そこには、全く未知の妹がおり、二人の下女もぼくには冷たかった。
街道べりの高台に立つ国民学校は、大きなイチョウの樹があり、霜柱のたつ広い校庭では、毎朝冬でも行われる上半身裸、裸足のラジオ体操は辛いもので、ぼくの両足裏は霜焼けで真っ赤になった。
暖かくなってきた頃、ぼくは奈良の隣の木津国民学校へ転校した。父母共に小学校の教師でその転勤に伴う移動だった。

木津では町外れの下河原という辺鄙な場所で山田川という川の堤防の下に建つ長屋が住まいだった。長屋は木津町へ向かって東へ田んぼを横切る一本道の土手の下にあった。
道から少し降って、長屋の一番左手に一人暮らしの大家のじいさんの右が我が家だった。その右には北海道から越してきたという役所勤めの人の家族が住んでいた。その右、長屋の右端は庭のある大きな屋敷で、この長屋の家主の家だった。

長屋の部屋の構造について思い出して書いてみよう。
狭い潜戸みたいな玄関の引き戸を開けて中に入ると、四角いコンクリート敷きの土間がある。正面の壁にに丸い荒い竹格子のはまった障子窓があり、その向こう
は板敷の小さな部屋となっていた。この部屋はすぐ土間に続き、左の釜戸、調理場を通って裏口の戸に至る。
玄関土間の左の腰段の向こうは障子戸を隔てて6畳の畳間で奥に押し入れがあった。この部屋に入って右手の奥も6畳の畳間で、これがこの長屋の主部屋である。その奥は、縁側で濡れ縁はL字型で、それを通ると厠に至る。いわゆる汲み取り便所である。厠と裏口は塀で繋がれ中は正方形の中庭となっていた。
屋根はまともな瓦ではなくコンクリートの粗雑なもので、台風の後には必ず雨漏りがした。大雨になると裏手の山田川の堤防は決壊し家は水浸しになった。下水道などなかった時代だから汚物が溢れ出し、不衛生極まりない状況だったが、小学生のぼくは水にぷかぷか浮かんだ西瓜を集めたりして、結構のこの水害後の異常な世界を楽しんでいる風でもあった。

木津国民学校の2年生に編入したぼくは、入学の翌日早速学年のガキ大将と喧嘩をしてしまった。ぼくはそんなに喧嘩に強くもなかったし、なぜそんな喧嘩をしたのかもほとんどと言って覚えてはいない。でも放課後教員室に呼ばれて説諭されたのは覚えている。喧嘩の相手は西村といった。
これが西村とぼくの写真で、前にいるのが西村。喧嘩の後大の仲良しになってよく手製のバットで野球をして遊んだ。
たしか4年生の時戦争が終わり下河原からの集団での登校時、隊列が奉安殿の前を通る時「カシラァ、ミギ!」とぼくが号令をかけることもなくなった。
この学年にはヤオというとんでもない秀才がいて彼を中心にぼくとニシの3人が学年を仕切っていた。
ぼくが講堂の演台の下に大量の使用しなくなった生徒用の机と椅子が詰め込まれているのを見つけ、これを積み直して机と椅子の大きな団塊にちょっとわからないような隙間の通路を作って、真ん中の大きな空間に通じるようにした。これがぼくたち数人しか知らない秘密基地になった。何冊かの本も置いてあり、飴玉などもあり授業をエスケープしてここにいることもあった。
終戦まもない小学校では、結構自由な雰囲気もあった。生徒はグループで教科の学習集団を作り、小学生のカリキュラムによって授業が行われた。ぼくは理科班で、親父の専門学校の「水素は無味無臭無色の気体にして・・・」などと書いてある教科書をテキストに、水素や酸素の発生実験などをやった。よくそんなことが許されたと思うのだが、薬品庫の鍵はぼくに託され、毎日外が暗くなるまで予備実験をした。結果、希硫酸が飛んで、ぼくの服は穴だらけになった。

中学に行くことになって、ニシは東京のぼくは新設の帝塚山学園、ヤオは地元の中学に進み、3人は離れ離れになった。その後、ニシは獨協大学、ヤオは京大の教育学部に進学した。大学2年生でぼくが家移りするまで、数回会ったことはあると思うが、あまり記憶にない。何しろぼくは山登りに熱中していたからである。
ぼくたちが再会するのは終戦2年後の1947年からなんと57年も経った2004年のことだった。
この年ヤオは、担任の先生の頼みもあって同窓会を企画した。町中先生は奈良
の女高師(女子高等師範)を出てすぐに職に就かれたこともあり、ご存命であった。
ヤオたちは、名簿を作るのに苦労したらしい。特にぼくに関しては全くといっていいほど手掛かりがなかったらしい。みんながもう無理だと諦めたのちも、一人探し続けた女性がいた。それがさっちゃんだった。彼女が掴んだ手がかりを追うと、ある老人ホームに辿り着いた。そこにいたのはぼくの父親だった。彼女には本当に感謝しないといけない。

同窓会はぼくの記録では11回開かれている。どの回も中々凝ったものだ。第一回目は2002年10月26日に開かれた。会場は琵琶湖ホテルで、昼食後遊覧船ミシガンに乗り周遊、降りてからホテルマイクロにて周辺観光、ホテルで夕食後解散となっている。
2回目は木津小修学旅行再現旅行と銘打ったもので、2003年5月17日伊勢に出かけた。同じ旅館を探したのだがもう無くなっていたので、似たような宿を探したという。ぼくの記憶では二見浦で夫婦岩がこんなに小さかったのかと思ったのが印象的だった。
3回目、2004年5月15日、奈良の三笠温泉ホテル。町中先生だけではなく山口先生もおいでになった。出席者は70名に及んだ。
4回目、翌年の2005年12月4日に奈良の菊水楼で開かれた。
5回目は2006年10月29日から1泊2日で四国に出かけた。同窓生の一人が4国に嫁いでいて、ぜひ四国に来てと言ったからだったそうだ。明石海峡大橋を渡り、淡路自動書道を走って眉山カンポの宿で一泊した。ここまで、木津小同窓会は毎年開かれてきた。ヤオとさっちゃんの貢献に寄るところだと思う。
6回目から毎年ではなくなって2009年1月18日になる。場所はホテルセントノーム京都の2階平安の間だった。この時の出席者は6年い組15名、ろ組13名、は組18名、に組12名の計58名だった。
7回目、2011年1月29日。会場は近鉄奈良駅近くの春日ホテルだった。
8回目は2014年5月10日、場所はホテルセントノーム京都。
9回目、2015年5月10日で場所は春日ホテル。
10回目、2017年5月14日。春日ホテル。
11回目、2019年5月12日。春日ホテル。これが最後の同窓会となった。
ヤオは、これらの学年全部の同窓会だけではなく、い組だけの同窓会も何度か開いていた。京都八瀬の床で鮎を食べに行ったこともあるし、保津川下りをしたこともあった。

10回の後、ヤオが身罷り、町中先生ももうおられないので、同窓会はもう無理と誰もが思っていたのだが、なんとか開いてくれと多くの人がさっちゃんにお願いしてなんとか開いたのが11回目のものだった。この時数人の人たちがぼくになんとかやってくれと頼み込んできた。ぼくもその気になって、ヤオの遺志をつがんといかんと思ったのだった。それで、一人でやるより複数の世話人がいる方がいいと思い、めぼしい数人に声
をかけ、終わりに集まって打ち合わせをしようと提案した。
集まった4・5人と話し合いを始めようとした時、突然西村が大声で割り込んできた。そしてこういった。
「そんなもん相談するまでもない。俺が一人でやったる。任せといてくれ。」
有無を言わさぬ勢いだった。ぼくはたじろいで、でも連絡もそうやけど、出欠連絡もあるし一人では大変やで。いや大丈夫。俺一人でやれる。任してくれ。ぼくは鼻っ柱を折られた感じで引き下がったのだった。

一年たってもなんの音沙汰もなかった。次の年と約束した訳でもないしと次の年を待っていた。次の年も動きはなかった。連絡を取ろうとしたが電話は繋がらなかった。
そう越しているうちに4年がたった。そしてぼくは、ふと気づいた。もしかして西村は自分の死期を知っており、自分のいない同窓会を絶対に開いてほしくなかったのではないか。そう考えると、あの彼の必死の一人でやるという気迫が理解できるような気がしたのだった。

「タカダさんみたいな人ですよ」重廣はそう言った。

「タカダさんみたいな人ですよ」
重廣恒夫は、吐き捨てるようにそう言った。
時は1979年夏、パキスタン・ラワルピンディー、ホテルミセス・デイビスのベランダでのことです。ぼくたち京都カラコルムクラブ隊はラトック1の初登頂を目指してスカルドゥへのフライトを待っていました。

日本から持ち来ったビックコミックの「浮浪雲はぐれぐも」を読み耽っている重廣にぼくは声をかけました。当時の日本で漫画の浮浪雲が大人気なのは知っていましたが、まんが本など手にすることもないぼくは、なんにも知らなかったのです。
「はぐれ雲ってどんな奴なんや」
そう尋ねたぼくに、重廣はしばらく考えてから、吐き捨てるように「高田さんみたいな人ですよ」そう言ったのです。
その語気のあまりの鋭さに、ぼくは言葉に詰まり、後に言葉を繋げないまま立ち去ったのでした。
その言葉にはあるいまいましさと憧れがないまぜになっているようにも感じられたのです。不思議なことにぼくはなぜかある安心感を覚えていました。そして重廣を誘い込んだのは間違ってはいなかったという確信めいたものが、ふと心をよぎったようにも思えたのでした。

大体一回りくらい年下の重廣とぼくは、少し前に文部省登山研修所が制作した『岩登り技術・応用編』という映画で共演したことがありました。二人はザイルを結んで剱岳のチンネを攀ったのです。さらにもっと前、第二次RCCがエベレストを目指した時、大阪・京都より西の隊員応募の元締めを務めたのはぼくで、ぼくはあんまりその頃の記憶がないのですが、重廣はぼくのことを知っていたはずです。
そんなこんなで顔見知りだったので、ぼくは彼を梅田の喫茶店に呼び出してかなり強引に口説いたのです。黒部の岸壁をいくつも攀っている彼の実力はよく知っていたし、1975年のラトック2の経験から、ラトック1は岩陵ではなく壁が鍵だと思っていたからです。
彼は奥淳一と渡辺優という二人の強力なクライマーを連れてきました。
ぼくはまず武藤君に声をかけました。ぼくは1971年に、日ソ選手交換協定でソ連邦に招待されたカフカズ(コーカサス)連峰遠征隊として東京山岳連盟が組織したシヘリダ峰登山隊の雇われ隊長を務めたことがありました。武藤英生はその時の最年少隊員で、実力は評価していました。松見親衛は、山渓の池田常道くんが推薦紹介してくれた優れたクライマーでした。
ぼくにはもう一人、加えたいメンバーがいました。それは遠藤甲太という男で、谷川連邦でのいくつかの記録があるものの、大酒飲みのだらしない男という評判が固まっていました。でもぼくが特に評価していたのは彼の文才でした。ラトックを攀らせたら変わるのではないか。そんなことを考えたりもしました。
この人選に強く反対したのは重廣でした。でも最終的には彼はぼくの頼みを聞いてくれたのです。隊のマネージャーとして馴染みの中村達、ほかに教え子の城崎英明を加え、
隊が出来上がりました。重廣はぼくのわがままをみんな我慢してくれたのでした。

ぼくが最初から言っていたのは、みんなに頂上に立ってもらう。だから、抜け駆けすることなど考えず、フルパワーで挑んでくれ。荷上げの計量はしない。目一杯担いでくれ。
そして、ラトック2での出来事を話しました。荷上げの計量をしなかった結果はどうなったか。なんと上部テントにはロールペーパーが山積みになったのです。
ラトック1でも、変なことが起こりました。上部テントでロールペーパーが欠乏したのです。
ぼくは、最初からこう言い続けました。あの壁の下でよく見て考えよう。ラインが引けるかどうかを。引けたら必ず登れる。引けなかったら、そこで諦めて帰ろう。
1975年のラトック2の時、同時期にラトック1を狙っていた原真隊のベースキャンプからその大岩壁を望んだことはありました。しかし、真剣にルートを引いたりはしませんでした。ただ、その岩壁を直上するルートが見つかるような気はしていたのです。

岩陵より岩壁だ。この考えはラトック2を終えた後、かなり強固なものとなったようです。岩陵ルートは、すこしの天候悪化だけで一気の困難になり、天気が回復してもその困難さはしばらく続きます。
一方岸壁の場合、一旦フィックスを張って仕舞えば、天気はあまり関係なく、荷上げができます。ルート開拓とフィックスロープの固定という極めて単純な作業となるのです。
重廣の見事な荷上げ管理によって、順調にルートは伸び、6名の登攀隊員の全員が登頂に成功しました。見事な成功だったと思います。この間重廣とぼくの間で意見の対立は皆無でした。隊員の登り下りに関して異動の要求は何度かありましたが、その全てをぼくは認めませんでした。ただ、重廣とぼくに関しては、自分の判断で自由に動いていいという申し合わせを最初にしていました。だからぼくは、頂上に向かっても誰からも文句は言われない状況でした。
でも、ぼくはこの隊は隊長はベースで指揮を取ることに徹すべきだと決めていたのです。松見君が後にあの時の隊長の指示が無かったら危なかった。それは一度では無かったと語ったと聞きました。
重廣が写真が撮れなかったからと言って2度頂上に向かったことが分かった時は、心底驚きました。ルート開拓と16mmの映画撮影を一緒にやるなんて人間技じゃない。ほんとに強い男なんだと思ったことでした。

見事な成功がもてはやされる。そうなって有名になる。そしたら自分はどこかで遭難する。それはぼくに付き纏ってきた強い思いでした。そんな例をいやほど見てきた。だから、新聞社からの質問があっても帰国の予定なども答えませんでした。みんなとは別行動で、セキタのいるクエートに飛び、数日を過ごして密かに帰国したのです。
テレビの出演も重廣に任せました。その当時は、ラトック1の第2登が40年間も成功しないなどとは考えもしませんでした。
それは、ラトック山群の岩陵は岸壁より難しいというぼくの仮説を裏付けることでもあったと思います。

ラトック1の計画が公表された時、山の世界の人たちは一様に違和感を覚えたようでした。登山隊というのは普通一般に既存の団体から出来上がるものです。でも、ぼくの作った隊は、ぼく個人が呼びかけて作ったものだったからです。
まともに行けるわけがない、向こうで空中分解や。いやいや行きの空港で分解する。そんな話が飛び交ったようです。そこでぼくは、この隊の準備の進行状況をドキュメントで雑誌の山渓に連載することにしました。大体登山隊の進行状況などというのは秘密にするもので、それをドキュメントするなどというのは、初めてのことだったようです。
ライターには、卒業生で神戸新聞に入った男に頼みました。
この男は、ちょっと癖のある男で、高校では新聞部でしたが、共産党シンパの教師の記事をぼくに取材して高校新聞の記事にしたのですが、取材源に関しての約束を破っていたので、ちょっとけしからん奴という感じはしていたのです。(後で挿入の注:これに関しては、高田直樹ドットコムにある『いやいやまあまあ』の15話「なんでバイク乗るねん」に書いてます)
時々家にやってくると、ここはまるで梁山泊ですなあと、褒めてるのか揶揄ってるのかわからない調子の言葉を吐いていました。ある時、ぼくの家内がぼくに靴下を履かせているのを見て、「奥さん、止めてください。それは奴隷のすることです」と叫び、ぼくも家内も驚いたのですが、家内は無視して続けたのでした。ぼくは、なに言うとるんじゃと思いましたが、そのまま無視したのです。

山渓の連載は、隊の出発と同時に終わりました。そして、ラトック隊の本が出版されることになり、誰にかかせるかとの相談を受けました。ぼくは迷うことなく彼を推し、彼が書くことになったのです。連載中取材で同行している彼をぼくは極めて冷たく扱っていました。
彼が、ぼくのことをよくは書かないという確信みたいなものもありました。それはぼくにとって、むしろ望ましいことでもあったのでした。そしてぼくには、一度の取材をすることなく書かれた『頂は誰がために ラトック1峰初登頂の記録』という本が出版されました。ぼくは読む気もしませんでした。ほとんど売れなかったようですし、書評も見たこともありません。
もしぼくが取材を受けたら、浮浪雲の話もしたかも知れないし、そしたら結構面白い本になった可能性もある。そんな気もしているのです。

遠征が終わって日本に帰り着くと、改めて『浮浪雲』ことが気になり、本を買い集めました。頑張って読んだのですが、どこがどう似てるのかどうにもピンときませんでした。ただ、浮浪の妻のカメは女房に似ているような気もしました。女房を北山へ連れて行って、ぼくが谷を覗き込んで「あれぇ、クジラがいる」と叫ぶと、女房は大真面目で「どこにぃ」と返したりするのです。
ぼくはいくら誘われても、日本山岳会には入らなかったし、結構自立狷介けんかい孤立しているところもある。まあちょっとくらいは似ているかも知れない。そんな気もしたのです。
ともかくこの連載、44年で全1039話。本は全112巻。なんともすごい。
『浮浪雲』について、wikipediaの記述もあるので、それを引用しておくことにします。

主人公。元々は武士であったが、現在は品川宿の問屋「夢屋」の頭(かしら・現代で言う代表取締役社長)である。仕事は二の次で、作中では仕事をしている描写はほとんどないが、番頭の欲次郎が病気で寝込んだ際、誰も仕事をする者がいないため、その際には渋々ではあるが。真面目に仕事をしている。何を言われても暖簾に腕押しであり、女を見れば老若美醜にお構いなく「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」と決め台詞をやることで有名。また、女だけでなく陰間とも関係を持った事があり、それが原因で騒動となり、この時は雲も逃げ回っている。見かけは髷をきちんと結わず、前に結って、女物の着物を身に着けたいわゆる遊び人の風体をしている。

風習や物事に一切囚われず飄々としているが、実は柔軟かつ強靭な精神力を持つ。また、老若男女を問わず、非常に人を惹きつける魅力を持ち、有事の際には「雲が一声掛ければ、東海道中の雲助が集まる」と噂されている。また、どのような形で知り合ったのかは不明だが、徳川慶喜に対して、寝転がりながらくだけた口調で話し、慶喜もそれを許すなどの交友関係を持っている。芹沢鴨との交流もあり「一緒に日本を変えないか?」という持ちかけに「あちきは浮浪雲なんでね、日本を変えようなんて気はありませんよ」と笑顔で返し、芹沢を黙らせた。
同時に居合い斬りの達人であり、滅多にその力を見せないものの、たまに両刃の仕込み杖を使った剣術を見せることがある。その実力は底が知れず中村半次郎(のちの桐野利秋)や沖田総司等をも負かしている。ビックコミック連載。

日本の乃木さんが凱旋する・・・子供のしりとり歌

日本の
乃木さんが凱旋す
すずめ
めじろ

ロシヤ
野蛮國
クロポトキン
キン玉
負けて逃げるはちゃんちゃん坊
棒で叩くは犬殺し
シベリア鉄道なぁがいなぁ
鍋のケツ真っ黒け

けつの穴深いなぁ

 

鍋のケツ深いなぁ

とループになり終わります。

これも前稿と同じように突然蘇ってきた子供の頃に唱えていたしりとり歌です。似たようなものは日本中にゴマンとあったのでしょうが、そのすべては今日では問題となるような箇所を含んでいるためネットに上がることがないように思われます。
ぼくが小学校の時代とは世の中至る所であらゆる意味で差別意識が普通だったように思います。ぼくが育った園部の田舎には、夏休みなどに帰ってそこで過ごすのが常でした。そこにはぼくと同年の小学生がいて、仲良しでした。でも祖母のマサエばあさんは、ぼくが彼と遊ぶこをよしとせず、家に入れようとはしませんでした。家の格が違うから一緒してはいけないというのです。
ぼくはだから内緒でいつも一緒に遊んでいたのです。

このしりとり歌について少々考察すると、乃木将軍の凱旋ですから日露戦争のあとで、ロシアを野蛮國と貶めています。クロポトキンはよく知られた無政府主義者で共産主義者とも考えられ、日本国にとって最も望ましくない人物でした。
ちゃんちゃん坊とは当時はちゃんころとも言われた中国人のことです。こうした子供が歌って遊ぶしりとり歌にも、当時の教育思想が結構緻密に盛り込まれていたことが見て取れるようです。

「ラクダガ イッピキ タッテマス」

ラクダガ イッピキ タッテマス。

トオイ オソラヲ ミテイマス。

ウマレタ オクニガ コイシイカ。

ソレトモ オナカガ スイタノカ。

これは、子供の頃読んでいた絵本の一節です。
最近、突然、なんの脈絡もなくこんな具合にある文章が頭に浮かんでくることがよくあるようになりました。
絵本が大好きだったので、亀岡近くの女学校の先生をしていたマサコおばさんは、家に帰ってくるたびに本を買ってきてくれました。買えなかった時にそっとすでにある本を渡して誤魔化そうとしても、ぼくはすぐに気づいてしまったそうです。たくさんある本のほとんど全てを誦じられるくらいにぼく何度も読み返していたのです。孤独なぼくにとって、絵本は唯一無二の友達みたいなものでした。

小学校に入り、祖父母の元を離れてからも、夏休みで田舎に帰ると土蔵の二階に篭りきりで、父や叔父の少年雑誌、冒険小説などに熱中していました。蔵には叔母たちの雑誌『家の光』や『お産全科』などというもあり、少し早熟な少年の好奇心を満たしてくれたのでした。
そんなわけで、ぼくの女性の身体に関する知識はかなり豊富で、中学ではなにか分からないことがあったりすると、「タカダに聞こう」ということになっていたようでした。
それと、もう一つの効果は漢字にとても強くなったことです。特に漢字を読むことに関しては誰にも負けないくらいでした。当時の本には全部ルビが振ってあったから自然とそうなったようです。

高校では漢文が得意だったのは、漢字が読めたからというわけではなく、漢字というものにある親しみを覚えていたからだと思います。漢文のおじいさんの先生は、テストを点数のいいものから順に返すのが習慣でした。ぼくはいつも最初に呼ばれました。
ある時、いつものように呼ばれないので、変だなと思っていると「今日は悪い点の人から返してます」先生はそいう言いました。
漢文だけではなく古文や現代文も得意だったかというと、そうではなく、むしろ不得意で苦手だと思っていました。自由作文の課題で、田舎で過ごした幼児体験を書いたら、大きな赤字で「平凡」と書かれ、これには、ぼくのプライドは大きく傷つきました。
物を書いてお金をもらうようになっても、いつも「平凡なのではないか」と、これは一つのトラウマのようになってしまったようです。
考えてみれば、あの国語の先生はこのブログも「平凡」と評するかもしれない。でももうそれは、そんなに気になりません。きっと歳をとって少々ボケてきたからかもしれない。そんな気もします。

とんでもなく本好きだった少年は歳をとっても変わらず、常に一冊の本を携行していないと落ち着かない。ぼうはそういう状態でした。ところが近年どうも様子が変わってきたようなんです。本を読むのが少々億劫になってきたのです。これは明らかに老化現象です。
歳をとったのだから当然で、まあ致し方のないこことだと思っています。
読むのと同じように書くのも・・・。
これは困る。気張って書き続けんと。そう思っているところです。