この頃気になること(1):「この國」という呼び方

 「錦織ってスゴイねえ。やっぱり日本人って凄いんだ。」と家内がいいました。たしかにその通りだとぼくも思った。
 これを「このニシコリっていう人スゴイねえ。やっぱりこの國の人って凄いんだ」とはあまり言わないと思うのです。
 なぜか、いつほどからか、ぼくはこの「この國」という言い方が、大変気になりだしていました。それはどんどん昂じてきて、最近ではテレビなどで、この「この國」という言い方が使われると、その瞬間、なぜかドキリとしたりするのです。
 どんな人が使うのかをつぶさに観察していて、ぼくは一つのことに気付きました。そういう表現をする人はほとんどが左系の人あるいはリベラル派とされている人であること。これは、あの「生活者」というなんだか意味不明の表現をする人にもいえるようです。
 日本という國を肯定的に捉え、そういう文脈でいう時には、ふつうは「この國」は折り合いが悪いようなのです。
 意図的にあるいは深層心理的に、日本を悪く思っている人が「この國」を使うのではないか。
 どちらでもいいこと、特にそれが言葉である場合、変にそれにこだわるのが、ぼくの悪い癖なのかも知れません。

 「この國」という表現は、戦後に生まれた。GHQが、「日本帝国」「大日本」などの呼称を禁じた時に生まれたのだ。そう説く人もいるようです。しかし、占領が終わった後、むしろもっとずった後になって流布してきたのではないかと思うのです。
 テレビの報道番組のコメンテーターのしゃべりを聞いていて、なるほど、なるほどと納得して聞ける人と「なにいっとるんじゃ、こいつ」と思う人がいて、不思議にそういう人は「この國」をよく使うのです。
 そう表現する人は、その時日本人ではなくて、国際人というかどこの國にも属さない人という立ち位置にいて、それがいかにも恰好いいというアホな考えを持っているのではないか。だいたい国際人なんて、そういう無国籍の人ってなんなんだろうか。それってアナーキストではないのか。
 あるいは、もしかしたら、日本はすでに、あの三島由紀夫がいった「ニュートラルな無色透明の國」になっていて、それが「この國」なのではないのだろうか。
 日本を「この國」と表現する人たちにとって、日本に限らずあらゆる國に存在する国境が問題で、それがなくなって地球国家ができ地球市民が生まれることを希求しているのかな、そんな飛躍した邪推をしてしまうのです。

相棒ショット 前回の『相棒』の「ママ友」の最後の遊園地で子供達が遊ぶのを相棒の二人が眺める場面で、カイト君が
 「しかし親はどうであれ、子供達にはいつまでも仲良く元気にいてもらいたいものですからねぇ」
と言い、杉下右京さんが
 「そうですねぇ。子供はこの國の未来ですからねぇ」
と受けました。右京さんが「この國」といった。ぼくにはショックでした。

東海大学、山田吉彦教授

東海大学、山田吉彦教授

 YouTubeで桜チャンネルの「小笠原諸島・サンゴ密漁中国船~真の狙いとは?」を見ていると、そこでぼくが信頼している山田吉彦先生が日本に迫り来る危機を訴えておられました。彼は、侵入してくる前に、空からの情報を得て、海上警備隊だけではなく海上自衛隊も出動して、前もって侵入を阻止する必要があると説いていました。これまでの事案に照らして、全ては最初は漁船から始まるのだそうです。
 「いち早くダイナミックな、今までの既存の概念を取っ払ってしまって、新しい國の海を守る体制、海の上は空も含めてこの國を守る体制というのを、一から考え直さなければいけない。集団自衛権のこともありますし、そしてこれから憲法の問題も含めて、一からこの國の安全というのはどこなんだという、じっさいいま小笠原の人は怯えている訳ですよ。子供たちが学校に行くのをためらっている。」
 「この國を守る体制」「この國の安全」。山田先生も「この國」を使っている。
 右京さんも使った。山田吉彦先生も使う。もうとっくに一般的に普及している「この國」を気にしているぼくは、古いのかなあ。ちょっとおかしいのかなあ。
 しかし安倍さんがスピーチで「この國」と言うのを聞いたことは一度もありません。
 「この國」という言い方は、いってみれば主語がないともいえます。日本や日本国には主語がある。主体がある。ぼくたち国民は日本人として、だから日本と表現しなければならない。そう思うのです。

次世代の党・山田宏議員

次世代の党・山田宏議員

 今日の「プライムニュース」で『野党はなにを争点に、どう闘うか?』に登場した野党代表が、解散の正義やアベノミクスの失敗ばかりを話題とし、国家観を述べたのは、「次世代の党」の山田宏議員のみでした。 
 彼は、秋本優里キャスターに「新党を立ち上げて自民党に対立する新たな勢力を作るという選択肢はありますか」と問われて、次のように答えていました。
「それはあるでしょうね。そのかわり理念や政策や国家観みたいなものが一致していないと、また議席を取ったけど内紛が始まってばらばらになっちゃう、それは駄目だと思います。」
「そういうきちっとした国家観や考え方が一致しているものが、バラバラじゃなくて一つになって、きちんと明確なメッセージを出して、日本が主語となる國を作る、日本というものが主語となる國を作る。こういうことでは一致できると思っています。」
「日本を主語とする國」。いいましたね、山田議員。ぼくたちは日本を主語とする表現を使う必要があると思うのです。この番組をみていて、野党が大きく伸びることはないと思いました。ぼくが投票する党は決まりだ。そう思いました。

 割腹して果てた三島由紀夫は、こう書いて日本の消滅を案じました。
ーー日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろうーー
 三島の予想は的中し、歴史観という時間軸の垂直軸は消滅し、国家観というX座標は大きく左に移動した現状となっているのが、この國なのではないか・・・。あっ、この國と言ってしまった。
 杉下右京さんも使うのだから、まあいいか。とも思うのだけれど、やはりこんな無国籍な、国家を否定するとも言えるような表現は、使いたくないと思う今日この頃なのです。

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