みんなおかしい憲法学者(2013/09/17のブログの再録)

 ここのところ、安部政権が進める安保法制の集団的自衛権を巡って、世界的な常識では考えられないというか理解不能とも言える瑣末で的外れな議論が議会でマスコミで行われています。憲法学者がこぞってこの法案に関して憲法違反だと唱え、民主党は鬼の首を取ったかのように政府を攻撃しています。
 こうした憲法学者、いわゆる宮沢憲法教を信奉する学者を量産したのは、戦前の皇国史観から掌を返すごとく見事な変節を遂げ、「曲学阿世の徒」と言われる学者が宮沢東大教授でした。
 彼について、一昨年9月の<葉巻のけむり>の「NHKスペシャル『JAPANデビュー』の「天皇と憲法」とリベラル派学者」という項で書いていますので、必要部分だけを再録することにしました。
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国際連合:世界変動へのきしみ3

 GHQの親玉であったマッカーサーが、後にアメリカの議会で証言したように、日本は自衛のための戦争に追い込まれることになりました。あれーっ、それは違う。日本の軍部が暴走した結果、侵略戦争を行ったから連合国にやっつけられ、原爆を落とされるというひどい結末を招いたのではないのですか。そう思う人がいるはずです。そういう風に永年教えられてきたのですから。
 でもそう思う人は、だんだん減ってきているようでもあります。ここ数年、近現代史についての関心が高まり、多くの人が学習を始めたからです。むかしのように図書館に通う必要はありません。ネット上に情報はあふれています。
 なんとなく信じ込まされた自虐的な歴史観のようなものは減りつつある一方、安倍政権に対する暴走政権という攻撃が強まっているようです。
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この頃気になること(2):拉致問題

 日本の拉致被害などという言い方が普通のようです。でもこれは犯罪なのであって、そんな天災による被害者のようなものではありません。犯人は、北朝鮮だけではなく、共犯者は日本にもいるのは周知の事実だと思います。
 当時の日本は、警察力が弱いだけではなく、軍はなきに等しく、また武力放棄を決めていましたから、阻止が出来なかった。
 さらに、日本国は世界革命を目指すソ連の勢力と資本主義・自由主義を掲げるアメリカとに二分されていました。
 憲法改正を党是として出来た自由民主党の中にも、ソ連派が存在しました。
 当時、当然この拉致問題は大きな問題になりました。しかし、拉致に協力するひと、拉致追求を阻止する日本人が多数いたのです。
 後に衆院議長を務めた社会党の土井たか子氏などは、北朝鮮が拉致などするはずがないと追求にブレーキをかけました。その後も、ゆえなく理不尽に拉致された日本人の奪還に、及び腰で本気を示さなかったのは、日本の外務省であり、この官僚たちも或る意味共犯者だとぼくは思っています。
 一瞬、大きく局面打開があるかに思われたこの問題は、またぞろいつものような「たぶらかし」だった。そんな観測が強まってきているようです。
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この訳の分からん憲法学者ー小林 節

Kobayashi たしか憲法96条の改正が問題になっていた頃だったから、昨年の秋頃だったと思います。大阪の竹田研究会で、登壇した竹田恒泰さんが開口一番、唐突に「小林先生はわたしの恩師でもあり、私の味方です」とおっしゃった。でも、このフレーズだけで、後に続く説明はなかったのです。
 話の裏を読みたいというあまり人のよくない悪い癖のあるぼくは、あれっこれどういう意味なのだろうと考えたんです。竹田先生が96条改正に反対なのはよく分かる。憲法改正の条件を低くする96条改正は、天皇条項を変えられる危険性を孕んでいるからなのだとぼくは思っていました。
 それがGHQの稚拙な作文であるにせよ、昭和憲法は天皇条項に限っていえば、帝国憲法を現代的にアレンジしていて何の問題もないと思えるのです。それが変えられる危険性があることは断固拒否しなければいけない、竹田先生はそう考えていらっしゃるのだとぼくは考えていました。
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天下無双の俗物でありながら「知の巨人」と称される立花隆(承前)

 人間顔かたちは親から頂いたものですから、それの善し悪しは本人の責任ではない。しかし、50あるいは60を越えた年になるともうそんなことはいっておられません。年を重ねるうちにその考え方や性格が顔に表れるようになって来るのかもしれません。「名は体を表す」ではなく「顔は体を表す」ということになる。
 そういった顔かたちだけではなく、しゃべり方や身振り手振りそして表情の変化などが、色々な情報を与えていることになります。

 先頃CSで放映されていた連続ドラマ「Lie to me(ライ・トゥ・ミー)嘘の瞬間」は、精神行動分析学者であるカル・ライトマンが、「微表情」と呼ばれる一瞬の表情や仕草から嘘を見破ることで、犯罪捜査をはじめとするトラブル解決の手助けをする姿を描くものでした。
 私たちは、ライトマンのような学者ではないし、そんな分析力もありません。しかし、そのつもりで集中力をもってその画面を追い観察力を持続すれば、言いよどみ、抑揚、表情、身振り、手振りなどから、なんとなく感じることが出来るのではないかと思います。
 時として、なんとも説明がつかないけれど、でもなにか臭(匂)うとか、そんなことがあると思うのです。
 あの田母神さんは、講演で、誰かとすれ違っただけで、その人が「サヨク」かどうか分かる。どう分かるのかというと、そういう人の姿勢をよく見ると、みんな少しだけ左に傾いているんです。そういって笑いを取っています。
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NHKスペシャル『JAPANデビュー』の「天皇と憲法」とリベラル派学者

近年になって、徐々に高まりつつあった嫌韓の波が、どんどん高まっているように思えます。それがサッカー場での出来事であるうちは、まだまだそんなこともあるだろうと納得しうる範囲でした。ところが、こんどのオリンピックの開催地決定に関しての妨害行動ともいえる韓国政府の動きに至っては、もう理解を超えていると感じざるを得ないものだった。
同じような例として、あの盗難仏像に関する韓国司法の判断があり、国際法を無視した在韓企業への賠償要求があったりします。
最近では、戦前の東京大震災時の朝鮮人虐殺に関して、南京虐殺事件に似たフレームアップの歪曲宣伝が始まったようです。さすがにこれにはNHKも丸乗りするような状況にはないようです。
ところで、オリンピック開催地の投票結果に関しては、興味ある事実が生まれました。「早とちりの心理学」ともいうべきもので、人は自分が願っているように早とちりするということです。中国国営テレビや新華社や日本の池上彰さんその他が日本が落ちたと大喜びで報じ、後で慌てたという面白い事実が生まれたわけです。
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五箇条の御誓文について

日本の近現代史については、知れば知るほど大嘘がまかり通っていることに驚かされます。
例えば、昭和天皇の「人間宣言」。実際のもの、昭和21年年頭、1946年1月1日の詔のどこを探しても人間宣言と思われるものはありません。
もともと天皇陛下の詔勅にはタイトルというものはありません。官報においてタイトルが付けられるようです。従って複数のタイトルが存在します。そのタイトルの後に丸括弧で括って(人間宣言)などとしたのは、大分後のことでおそらくコミンテルン系の報道がもとになったと思われます。

この【新日本建設に関する詔書】と名付けられた詔(みことのり)は、敗戦の翌年のことで日本全国が焼け跡の荒廃の中にありました。
その後、昭和憲法が天皇により発布されます。ここで、帝国憲法⇒昭和憲法の切り替えが行われるのですが、これを天皇主権⇒国民主権とする為には、憲法学上無理があり、ここに「8月革命論」、つまりボツダム宣言受諾は革命だった、という荒唐無稽の馬鹿げた説明が東大憲法学者によって創られました。
この主権が天皇から国民に移ったという論理との整合性の必要から、天皇が神から人間になったといういわゆる「人間宣言」が必要とされたのではないか。ぼくはそう考えています。それにしても、人間が象徴とは変な話ではあります。
そこで、この「年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」の口語訳を掲げる前に、その時から31年経った昭和52年の8月に行われた天皇陛下の記者会見を見てみることにましょう。(「日本の民主主義は戦後の輸入品ではない」昭和52年8月の記者会見)
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戦後日本における「私」の異常肥大

先日、教え子で大学の先生をしているフェースブックの友達が、またまた起こった「いじめ事件」について、コメントするとたちまち70を越える「いいね」が記され、多くのコメントが書き込まれました。
彼のコメントの中でぼくが注目したのは、こんな部分でした。
「日本は、「みんな」を解体し、「私」の集まりになってしまいました。「みんな」で教育し。「みんな」で育て、「みんな」で見守るのをやめちゃって、あるのは「私」だけ。今や、親子も兄弟も「みんな」ではなくなったみたい。そして、「みんな」の機能は先生だけに期待されています」

それで、ぼくはこんなコメントをしました。
「まったく同感ですねぇ。その目的を「人権」として最上位に置いた現行憲法、極端にいえば、「人権教」の行き着いた状況を示しているのだと思いますよ。そこのところが分からないまま、みなさん尻尾をくわえて回る犬状況なんじゃないでしょうか。書くと長くなるので、ここで止めてるだけで、評論家の高みの見物態度ではないので、誤解しないでくださいね。」
するとすぐさま、「ありがとうございます。先生の高い見識は本質を見抜いておられると思います。いつもブログを拝見し、そう感じています。」という書き込みがされました。
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聖徳太子の17条憲法

安倍政権が成立してから憲法の問題・憲法改正がマスコミなどで取り上げられるようになってきました。
ぼく自身は、若い頃から、「象徴天皇」は見事な作文だと言ったり書いたりしてきたし、軍隊を自衛隊という言い換えは、子供だましの言葉遊びみたいなもんだと思っていました。
二十歳代の就職してすぐの頃、その頃は職場などでもなんの問題についても議論することが盛んだったのですが、組合員の同僚たちの自衛隊違憲議論の輪の中につい割って入り、「そんなに具合が悪いなら、憲法を変えればいいのではないですか。全ての決まりとか約束事は都合が悪くなれば変えて行くもんでしょう」と言ってしまいました。
一同は、半ば呆然とした面持ちになり、一人が「君はとんでもないことを言う奴だなあ」とあきれたように言ったものでした。
本当のところ、当時のぼくにとっては、そんなことはどうでもよくて、山登りだけが関心事だったと思います。それから高度成長の続く何十年もの間、無関心のまま過ごしてきたのではなかったかと思います。
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日本国憲法、つれづれなる雑記

 最近のマスコミは憲法に関する話が多くなっているようです。そして、どこでもまるで判でも押したように同じ内容の話が流れています。
 96条つまり2/3を1/2にして改正のハードルを下げるのは危険だ。安倍総理が目指しているのは9条の改正だ。だから9条を議論する必要があるのに、それが不十分のまま96条を取り上げるべきでない。
 だったらどうして、9条を議論のテーマにして、突っ込んだ議論をしようとしないのでしょうか。全く不思議です。
 
 もう一つのどこもかしこもの言い草は、「憲法は国民が政府を縛るものなのに、自民党の案は政府が国民を縛るものになっている」というもの。
 たしかに、むやみに縛ってもらっては困ります。人権や自由は保障されるべきです。現行憲法にははっきりそう唱ってある。
 では、自民党案ではどうなのか。それで調べてみました。PDFで書いた対照表がありました。少なからず、がっかりしました。現行憲法の僅かな手直しに過ぎない。もうちょっとましなものが創れなかったのか。そう思いました。まあ、現行憲法をあがめ奉っている人にも忖度して、字面いじりに止めたのかもしれませんが。

 マスコミがどう表現しようと、コメンテーターが現行憲法の成り立ちに関して、どう独断的で間違った(とぼくが思う)意見を述べようと、それはすべて護憲につながる文脈に向かって行くことになるのは間違いありません。それなら、はっきりと今のままでいいと言い切ればいいではないか。なんだかんだと、持って回り、充分な議論が必要ですなどと結論づける。議論がひつようなら議論の素材を並べなさい。そうもしないで、何をぶつぶつ言ってるのか。ほんとにイライラして来ます。
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