<高田直樹ウェッブサイトへようこそ>と同時掲載
なんで山登らへんの 第16回 1996.8.1
体験的やまイズムのすすめ
外国にしばらく滞在して、日本に帰ってくると、普段は何ともないことが、やたら気になったりする。
ヨーロッパから帰ってきて、気になるのが町中に林立する電柱と、クモの巣のように走る電線。
いつだったか、パキスタンから帰ってきてすぐの頃のことです。京都の町なかの細い路地から空を見上げたとき、その電線の絡み具合が、ラホールのオールドシティのスラムの路地の電線を彷彿とさせるものだったので、驚くと共に何となくめげたのでした。電柱にしても、日本の細い道を車で走りながら、この電柱がなかったらどんなにスムーズに走れるだろうといつも思うのです。
ヨーロッパでは、ふつう、駅に改札がありません。チケットは車掌がチエックする。
町なかの市電や市バスなどでは、乗車券はだいたい自己申告で勝手に支払う。もちろん抜き打ちの検札があるようですが、でもあんまりただ乗りをする人もいないようです。
もし日本で同じシステムにしたら―まず絶対にそうならないでしょうが―みんな平気でただ乗りをするかも知れません。
日本でも無人のシステムとしては、産地のみかん販売所などがあるけれど、意外にほとんどの人は正直にお金を払っているようです。
ミカンを取って、お金を払わなかったら泥棒。でも身体の移動というだけの形にならないものには、お金を払わなくても平気ということなのでしょうか。形のあるものにはお金を払うけれど、形のないものにはお金を払う気にならない。
日本の都市では、この頃になってようやくヨーロッパのようにパントマイムやフォークソングなどの大道芸で、お金を集める外人がちらほらと見られるようになりました。観察しているとずっと見ていてお金は投げ入れない人がほとんどです。
ただ食いはいけないけれどただ見は許されるということなのでしょうか。
食べた分だけのお金を払わないといけないように、見た分聞いた分だけのお金も払うべきだというのが世界の常識。ただ、それに価値を認めなかったら払う必要はないのです。
物にしか値段の付けられない日本人は、チップに関しても、それが習慣とかマナー・儀礼のように思ってしまう。それが、自分が受けたサービスの質を自分自身が判断評価して支払うもの、あるいは一種の評価システムであるというような理解などまるで無く、至る所でお札をふりまき、馬鹿にされ、ぼったくられる存在となる。
ここでぼくが述べていることは、日本人のソフトウェア音痴ということなのでしょうか。
目に見えない物を、お金に換算する能力、あるいはそうした価値判断の基準となる個人としての自己がない。
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