北杜夫ドクターのこと(承前)

 ドクター死去の報を知ってから数日が経った。報道でそうしたことを聞くと、いろいろなことが思い出されてきた。
 前の稿に書いたとおり、ぼくは46年前の1965年、パキスタン(当時は西パキスタンだった)のカラコルムの未踏の高峰・ディラン峰に遠征した京都府山岳連盟隊の最年少隊員だった。
 北杜夫氏は、隊付きのドクターだった。だからぼくたち隊員は、彼のことをドクターと呼び、仲間内では「キタモリさん」あるいは「きたもり」とよんでいた。
 常に接触するようになったのは、やはりベースキャンプに入ってからだった。常にとつとつと喋り、なんとも言えぬ誠実さを感じさせるような人柄に思えた。
 印象的だったのは、彼が胸ポケットに収めている手帳に常にメモを取っていたことだった。ポーターとのやりとりなどで大笑いなどしていると、すぐやってきて「なに、なにが可笑しいんですか」と聞き、胸ポケットの手帳を取り出した。こうしたメモは、けっこう膨大な量になったと思うし、それだからこそ、あの名作『白きたおやかな峰』が生まれたのだと思う。
 登山遠征隊の活動が各隊員の個性や性格を浮き彫りにしながら、ここまで活写された文学作品はおそらく他にはないと思われる。
 テープレコーダーでもあったら別であるが、あれだけの細かな描写は、メモによるものだと思う。これは、本が出た直後に思った感想である。

 ベースキャンプに上がってすぐに、ドクターは自分の顔の浮腫みに気づく。
ここから『白きたおやかな峰』より引用
 ――― そんなことより顔全体に明らかに浮腫ができており、瞼は重たげにたるんでいる。
 彼は、ぎくりとした。高校の生物の教師でなかなか多方面の知識をもつ竹屋を呼んで顔を見させ、眉をしかめていった。
 「これは浮腫ですよ。腫れてるでしょう」
 「大丈夫ですよ。高山症状で、顔はむくみますよ」
 「そうかなあ。ぼくはむかし腎臓病をやったことがあるから」
 「なあに、高山症状ですよ。はじめオシッコがとまってむくんでくる。そのうちにオシッコがじゃあじゃあ出て、癒っちゃうとものの本に書いてあります」
 「だが、ぼくは頭痛は全然しませんよ。それに小便もちゃんと出てる」―――
という会話が示される。なんだかどっちがドクターだか分からぬやりとりなのだが、、ぼく自身こんな会話をぜんぜん覚えていなかったのだ。

 ぼくが、覚えているケッサクな場面は、夕食後の場面で、パキスタン軍人の連絡将校が、バースコントロールについて真剣に尋ねはじめる。
――― 彼には、一人の妻と二人の子供がいる由である。ドクターは面倒臭げに、ラバーが一番いいと言った。すると、それはもう試してみた、しかし破けてしまうのだ、という返事であった。
 「ハブ・ユウ・ソウ・ビッグ・ワン、キャプテン?」
 と、隊長が水鼻をすすりながら笑い、荻野式を教えたらと言った。―――

 各隊員の名前は変えてあるが、現地ハイポーターの名前はそのままである。
 北杜夫ドクターは、その中でもコックのメルバーンに特に興味をもたれたらしく、メルバーンとのやり取りなどは、特に克明に示される。
 僕にとっては、メルバーンはウルドー語の先生で、ベースキャンプにいるときは、夕食後かならず、メルバーンの寝るメステントに出かけた。手作りの単語帳を繰りながら、単語を並べるとメルバーンは、正しいウルドー語の文にしてくれるので、それをオウム返しにする。
 メルバーンが教えてくれたのは、ウルドー語だけではなかった。英語も習ったというべきである。彼の英語のボキャブラリーは、ぼくの10分の1以下いや100分の1だったろう。でも先生だったと思う。
 ぼくが氷河上の石を調査用の標本として持ち帰るつもりで、メルバーンを荷物持ちに連れて氷河に出かけたことがあった。そのときメルバーンはこう言った。
 「ジス、バッタル(石)オールジャパンゴー。サーブ・マネー、フィニッシュ。グットグット・ゴー。ノーグッド・ノーゴー」
 こんなにたくさん石を持って帰ろうとしたら、お金がかかる。いいものだけにしなさい。彼はそういったのだ。
 北杜夫ドクターは、15年ほど経って麓のミナピン村を再訪し、その時にメルバーンにも再会されたと聞いた。ぼくも17年後、家族を伴ってミナピン村からベースキャンプまで登ったが、その時にはメールバーンは亡くなっていた。
 
 帰国して半年ほどたったころ、北杜夫氏は京都に来て取材を行なった。取材というより小説の内容の確認だったように思う。隊員一人々々と対面して、取材と会話などのチェックをされた。こういうことがないと、後で問題があったりするのだろう。
 ぼくは、だいぶ後になってラトックⅠという未踏の難峰に向かう登山隊を率いて成功した。(今年までの32年間この山の第二登を果たした隊はない)
 この時にけっこう可愛がっていた教え子の新聞記者に、準備段階の出発までのルポ記事を書かせ雑誌に連載した。後に彼は出版社の求めで、本を書いたのだが、ぼくには全くの取材がなかったから、大変偏った内容になっている。ぼくは異を唱えることもなく今に至ってはいるのだが・・・。
 話を戻して、北杜夫氏が京都に来ての取材の時、彼が言った言葉はよく覚えている。
 「いろいろ、内容に書けてない部分など不満もあるでしょうが、あなたがたが年を取られて、その時になったらきっと懐かしく思って読んでいただけると思います」

 『白きたおやかな峰』が出版されたすぐあとの夏に、京都で集会が行われ家族を含めた全員が比叡山上に集まった。前稿の集合写真はこの時のものである。
この時、北杜ドクターの美人の奥様も一緒だった。ぼくが、「本がよく売れてよかったですね」というと、奥様は、
 「でも大変なのよ、わたし本屋さんを端から回って、目立つところに本を動かしたりしてるのよ」とおっしゃった。へぇ、作家の奥さんも大変なのだと思った。
 
 前稿で、ドクターの御宅に伺った時のことを書いたが、実は4年後にも伺ったことがあった。
 このときは、ぼくが「パキスタン辺地教育調査隊」なるものを組織して、再度パキスタンに出かける前に、挨拶に出向いたのである。東京に行ったときに「ドクター。またパキスタンに行くんですよ」と、ちょっと挨拶をするためだけの訪問だった。
 ドクターは、金一封を渡された。強く辞退したのだが、お餞別ですから是非受け取ってと言われた。
 なんだかお金の無心に行ったみたいで後味が悪かった。しかしよく考えると、あの時ドクターは、ほぼ確実に欝だった。だからそんな感じになったのだと思った。
 
 彼の躁鬱は有名だったようである。それぞれの状況で、二種類のタイプの作品を書き分けていると、誰かから聞いたことがあった。もちろんドクトル・マンボウシリーズは躁期の作品。
 彼が躁のときは大変で、そういう時しかかからないんだけど電話が掛かってくる。
電話の向かうでけっこう激しい息づかいが聞こえたりする。
 「いやぁ、元気ですか。僕は元気で元気で、元気すぎて困ってます。実は株を始めました。そしたらもう文章なんかぜんぜん書けません」と勢い込んた話しぶりで、間にまるで全力疾走の後のような、ハァ、ハァという息づかいが入る。
 こっちは承知の上だから「はい」とか「そうですか」とか、答えているだけの話である。
 考えてみれば、世の中躁鬱に苦しむ人も多いなか、北杜夫氏は自然体でそれを受け止め、さらに作家活動に利用したのだらう。なかなかできることではなく人生の達人としての一生だったと言えるのではなかろうか。