パキスタン・ナショナルデー祝賀会へ出席

InvitationCard パキスタン大使からパキスタン・ナショナルデーのレセプションの招待状が届いたので、家内を連れて出席することにした。3月21日の18:30からで、場所はホテルオークラである。
 昨年の4月にもパキスタン大使館での昼食会へのお誘いがあって出席したのが13日、ほとんど日を空けずに今度は、26日に日パ国交樹立60周年記念祝賀会の招待を受けた。
 これらについては、それぞれこの<葉巻のけむり>に書いた。
パキスタン大使館昼食会と大阪のシガーパーティ

 パキスタンという国は、その成立が大変複雑な歴史を持っているといえる。もともとインド亜大陸はイギリスの植民地だった。1858年から1945年の第二次世界大戦の終結までの87年間はイギリス人の総督を基軸とするイギリス領インド帝国の時代だった。
 イギリスはインドの経済的困窮化に伴う不満を懐柔するため、1885年諮問機関としてインド国民会議を設けた。インド国民会議は知識人を主たる構成員とし、インド古来の因習を開明することを目的とする比較的穏健なものであった。しかし、民族資本家の形成によって反英気分が高まりをみせ、インド国民会議派は急進的な民族主義政党へ変貌していった。
 この過程において、大日本帝国の日露戦争の勝利が大きな影響を与えたといえる。

 第一次大戦の終結後のパリ講和会議の国際連盟委員会に於いて、大日本帝国は人種的差別撤廃を唱える提案を行った。これは、将来アングロサクソンが国際会議で多数を占めることを予想してのものであり、アメリカに於けるアジア移民の差別撤廃の意図もあった。
 アメリカやイギリスなどの強硬な反対論を受けて、大日本帝国は少し譲歩し、「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文面を前文に挿入するという妥協案を提出した。
 採決の結果は、日本、フランス、イタリア、中華民国などの賛成票11票に対して、反対はアメリカ、イギリス、オーストリア等の5票であった。しかし、アメリカのウィルソン大統領は、全会一致でないので、総会への提案は出来ないと突っぱねた。日本の世論は沸騰し、国際連盟脱退論もでたという。
 いずれにしろ、日本は国際会議に於いて、「人種差別撤廃」を唱えた世界最初の国であることは、重大な歴史的事実であって、教科書に明記すべきことだと思う。
 こうしたことは、後の大東亜戦争に於いて、日本帝国陸軍とともにイギリスと戦ったインド義勇軍の成立とも関係しているといえる。

 急激な反英独立運動の高まりをうけて、英国は植民地支配の常套手段である分割統治の原則に則り、親英的な全インド・ムスリム連盟を組織させ、反英勢力の分断を図った。

ガンジーとジンナー

ガンジーとジンナー

 マハトマ・ガンジーの登場は、独立運動を大きく変貌させたといえる。それまで、知識人主導であった運動を大民衆運動に変換させたからである。
 第二次世界大戦中に、国民会議派から決裂した急進派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも生まれた。このことについては、ぼくも、東京裁判~欺瞞の歴史~(2)で触れている。
 1945年8月15日、大日本帝国政府はボツダム宣言の受諾を決めた。ここにおいて、日本軍はポツダム宣言に従って戦争をやめ、帝国陸・海軍は無条件で武器を放棄することになる。
 この2年後の1947年、インドはヒンズーとムスリムの宗教的対立を内在したまま、ようやく独立を果たした。つまり、1947年インド独立法は、イギリス領インドをインドとパキスタンの2つの新しい国に分割し、それぞれの国の憲法(インド憲法およびパキスタン憲法)が施行されるまでイギリス連邦の自治領とすることを定めたのである。

 この時に起こった大悲劇は、パキスタンではパーティションと呼ばれています。もともと混ざり合って生活していたヒンズー教徒とムスリム教徒は、分割された地域に移動しなければならず、一千万を越える人々が凄まじい略奪と殺戮を繰り返しながら移動したのでした。死者は100万人を越えたといわれます。
Gandhi 独立運動を指導したマハトマ(偉大なる魂)・ガンジーは、宗派間の対立を収めようと最後まで努力しました。分離がなった直後、1948年1月30日ガンディは過激派のヒンズー教徒に暗殺されました。3発の銃弾を打ち込まれた瀕死のガンジーは、額に手を当てイスラム教徒のあなたを許すというサインをしたと伝えられています。

 ぼくは、友人のアメリカ国籍のパキスタン人・カマールに聞いたのですが、ガンジーは実はムスリムであったというのですが、ちょっと信じがたい話です。
 有名な映画『ガンジー』、イギリス・インドの合作で、第55回アカデミー賞作品賞を受賞しています。よく似た俳優を捜すのに何年もかけたという話で、この3時間に及ぶ長編を熱中してみた記憶があります。

ジンナー帽のアリ・ジンナー

ジンナー帽のアリ・ジンナー

インドの初代首相。インド国民会議議長

インドの初代首相。インド国民会議議長

 両宗教のの親和を目指すガンジーに対して、ムスリムだけの分離独立を唱える人たちの指導者がムスリム連盟のアリ・ジンナーでした。アリ・ジンナーはパキスタンの初代首相となり、建国の父、カイディ・アザム(最も偉大な指導者)と呼ばれ、カラチにはカイディ・アザム廟があります。もう一人の指導者は国民会議派のネルーで、彼はインドの初代首相となります。
 彼らは、ともにイギリスからの独立を目指しましたが、一つの国を作ることは出来ませんでした。
 
 ところで、ぼくが出席したパキスタン・ナショナルデーなのですが、どの日を何の日をもって、その日にしているのか、どうも判然としません。
 多分、それは、1940年の「ラホール決議」によっているのではないかと思います。このムスリム連盟の年次大会でムスリム教徒の国を作ることが決議されました。
 もともと、これはさかのぼること10年の1930年、ウルドゥ語の詩人で哲学者のムハンマド・イクバールによって唱えられた「パキスタン案」なるものが始まりだったと思われます。ぼくがむかし聞いた話では、それが誰であったのか覚えていないのですが、学生達にムスリム教徒の多い地方の頭文字を取って国名を作ることを提案しました。
 Panjab、Kashmir、Indusなどと集めて、出来たのがPAKISTANでした。パーキというのは、ウルドゥ語で純粋なの意であり、スタンは国を意味します。つまり、Pure Countryという素敵な名前が出来ました。
 これが、1940年のムスリム連盟の総会で発表されたといわれています。

 やたらに長い講釈になって恐縮なのですが、もう少しだけ続けます。
 インド亜大陸がパキスタンとインドに分かれた時に、その住民がヒンズー教徒とムスリム教徒のどちらが多いかによってその帰属の決定がなされました。この時、カシミールは住民のほとんどがムスリムだったため、当然パキスタンに帰属すると思われました。しかし、その地を統治していた王様がヒンズーだったためインドに属することになったのです。
 パキスタンは、多いに異を唱えました。そこで、最終的に住民投票で帰属を決めるという国連での決定がなされました。ところが、ここを統治したインドは国連の決定に従わず、住民投票を行いませんでした。
 そこで起こったのが、47年・48年の第一次印パ戦争です。そして65年・66年の第二次印パ戦争です。1965年は、ぼくが、カラコルム・ディラン峰遠征に向かった年です。
 帰りのラホールなどでは、至る所で大きな木の下には戦車が座っており、緊迫した空気が漂っていました。戦争の火ぶたが切られたのは、ぼくがカラチを飛び立った3日後だったそうです。

 カシミール問題は、未だ解決しないままです。カシミールは、自然に恵まれた素晴らしい所で、インドは絶対に返さないと、1969年に二度目に訪パした時に確信しました。この時は、最初の軍事政権のアユブ・カーンが、部下のヤヒア・カーンに取って代わられた時で、戒厳令が敷かれていました。
 次の政権は、ジアウル・ハクの軍事政権です。彼は危険を感じてアフガニスタンに亡命しようとした時に、保険として、かなりの数の報道関係者を同乗させたのですが、それでも効果なく飛行機は墜落しました。CIAが仕掛けた毒ガスが原因だったといわれています。
 最初から続いた軍事政権は、ブット首相で始めて、文民に変わります。ブットは最初からずっと首相が変わっても辞めることなく外相を務めて来た人であったのですが、最後はラワルピンディーの邸宅の庭の木に吊るされて死にます。その娘のパキスタン人民党のナジブラ・ブットは首相になりますが銃弾に倒れました。

 この辺で、レセプションの話に移りたいと思います。
Stage この前の日パ国交樹立60周年と比べて、小規模になったと感じました。単に会場が小さくなったのとレイアウトが変わった所為の漢字だけかもしれませんが。大使夫妻などと一人づつ挨拶し握手します。大使は去年の人ではなく、替わったようです。
 その他の書記官など知った顔が一人もいません。全員総代えになったのでしょう。
 回教国のパーティーですから、アルコールは一切ありません。ウーロン茶とマンゴジュースのみの飲み物です。

PakFriend 一人二人の日本人の知り合いと話していると、一人のパキスタン人が前に現れ、名刺を差し出しました。
 ぼくも名刺を渡しました。彼はいかにも親しげで、快活に話しかけます。日本語でです。
 「君はぼくをしってるの」
 「はい。知ってます」
 ぼくには全く覚えがないのです。
 「へえ、どこで会った? パキスタンで?」
 「しっかり覚えてないです。でもよく知ってます」
 もしかしたら、ぼくはパキスタンでは有名人かもしれない。そう思いました。

Ambassador_Speach 「大使館のスタッフは大使を始めみんな代ったみたいだねぇ。去年の顔が一人もいないよ」
 「そうですか」と彼も知らないみたいで、
 「でも、この人たちもすぐに全員替わりますよ」
 来月総選挙があって、首相が替わるからだそうです。
 「ナワン・シャリフになります」
 「へえぇ、でもナワン・シャリフはもう一回首相をやってるよ。また出るんですか。それにしても投票前にどうして分かる?」
 「いや、間違いなくシャリフになります。決まったら即電話で報せますよ」
 
 この前のムシャラフの時、ぼくのカラチの友人がムシャラフに会ってやってくれと言ったんだけど、ぼくは会わなかったんだという話をすると、彼は、「今度は会ってくださいよ。ぼくがすべてアレンジしますから。まかせて」といいました。
 レセプションでは、ほとんど何も食べなかったから、ホテル・オークラの最上階の鉄板焼の店に行って、やたら高い神戸牛を食べ、一階のバーでシガーを楽しんでから、娘のマンションに帰り着きました。
MalikNoor 例のパキスタン人、マリック・ヌールの名刺を取り出し、改めて眺めました。
 Pakistan Musliam League(N)Japan
President
MALIK NOOR MUHAMMAD AWAN
となっています。彼は、ムスリム連盟の会長なのか。そういうと日本事務所を預かっていると言っていました。
 日本ムスリム連盟の会長ということらしい。ということは、全くむちゃくちゃな喩えかも知れないけれど、ひっくり返せば、日本の自民党のパキスタン支部長ということなのか。
 日本で自由党と民主党が合体して自由民主党になったのだけれど、パキスタンではインドムスリム連盟がパキスタンを作った。インド国民会議はインドを作った。
 あのナジブラ・ブットやぼくの友人のNazir Sabirの属するパキスタンで比較的最近出来た政党パキスタン人民党(PPP)などは、まあいってみれば、民主党という所なのだろうか。
 世界中が先祖返りをしているのかなあ、などと勝手なことを考えていました。
 調べてみたら、ナワン・シャリフは今度は3度目の出馬で、彼が言う通りシャリフが首相になったら、なにか面白いことがあるのかもしれない。そんな気がしています。