<延槻(はひつき)の河のわたり瀬あぶみ漬かすも>

早月尾根と早月川

早月尾根と早月川、その先に富山湾がある

突然、高校山岳部員だった教え子が、おそらく20年ぶりくらいに電話してきて、「劔のことを教えて欲しい」といいます。
なんでも、2人で劔に行きたい。小窓の王へはどう行ったらいいのか、と訊きます。尋ねても、「北の方の尾根からいきたのです」等というだけで要領を得ません。
「小窓尾根から行こうと思ってるの?」
「そこはザイルは必要ですか」などと言っています。
そういう要領を得ない問答を繰り返して、ようやく彼が早月尾根を登って池の平に抜けようとしているということが分かりました。
一緒に行くのは、5年ほど前から山を始めた素人だといいます。
「無理や。早月尾根は一般コースと言ってもいいけど、劔山頂から三の窓はコースじゃないよ。その先池の平まではもっと大変。止めた方がいい」
結局、弥陀ヶ原から劔沢を下って、二股経由で池の平というコースに決まりました。「近いうちに伺いたいと思っていますのでよろしく」ということで、電話が終わりました。

そうか、もう夏山なんや。梅雨が明けたら夏山に想いを馳せたのは、もう遠い昔になったのだ。そう思いました。
むかし、山岳部の総力を結集して、冬の劔を目指し、正月元旦に、東大谷G1と呼ばれる岩稜を初登攀したことがありました。これは、厳冬期の初めての登攀だったので、快挙として京都新聞に全面記事として大きく報道されました。
この時アプローチとしたのは、馬場島から早月尾根でした。その後も雪のない時にも何度も早月尾根を通りましたし、そばを流れる早月川もなじみ深いところでした。

早月川下流

早月川下流

<立山(たちやま)の雪し消(く)らしも延槻(はひつき)の河のわたり瀬あぶみ漬かすも>
立山の雪解けの季節になったんだなあ。早月川を渡っていると、増水した水が鐙(あぶみ)にまで来たことだ。
この万葉集の大伴家持の歌は、劔の春の季節感とともに、極めて親近感という以上に、一種の皮膚感覚みたいな実感を感じ取れる歌なのでした。
遥かに聳える白銀の劔・立山があり、清冽な流れが、その瀬音とともに感じられるのです。家持は746年、越中守として赴任し5年間を過ごしたので、立山を詠んだ歌は沢山あるようですが、ぼくはこの歌が大好きです。
家持が詠んだのは、長歌・短歌あわせて473首といいますから、万葉集の1割を占めるのですが、ぼくが知ってて、諳んじているのはこの歌だけなんです。
強いていえば、もう一つ、これはたしか高校の時に覚えた<春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ>というのがあるだけです。

最近、フェースブックの友達が<高田さんの超右翼的なところが好きです>という書き込みをしてくれました。教え子で別の男が、「先生、最近は、むかしと全然違うことをいうたはるみたいです」といい、「そうなんや。自分でもそう思う」と答えたのでした。調べるほどに、勉強するほどにそうなるのだから致し方ない。
たしかに、右移動しているけれど、それは点移動ではないと思っています。楠木正成の出所の伊代橘の流れを汲むぼくとしては、垂直軸の認識はしっかりとあった筈だから、点移動ではなく軸移動の筈です。
この垂直軸というのは、日本人としての認識・自覚あるいは時間軸としての歴史認識といっていいと思います。最近、「11.25自決の日」という映画を見ました。三島由紀夫が、全学連との話し合いの中で、「この一点さえ一致すれば一緒に戦おう」といいますが、この一点とはぼくの言う垂直軸のことではないかと思いました。これのない人は、地球上の根無し草・浮き草みたいな人で、地球人・宇宙人とならざるを得ないのでしょう。

万葉集というのは7世紀後半より8世紀後半に編まれた4500首以上の和歌を集めた日本最古の歌集です。天皇、貴族、下級官人、防人などの詠み人の歌からなっています。その文化度の高さと、それよりなにより、天皇と庶民が同列に扱われているという意味でも世界にその例を見ないといっていいでしょう。
ある人が、ヤフー知恵袋に「日本書紀に『おおみたから』という語があり、その語に『百姓』という漢字が充てられていたことに衝撃を感じました」と書いているのを見たことがあります。Wikipediaにもそうした説明がありますが、これは日本歴史学会の偏った意見と思われます。この学会は、全員が五箇条の御誓文の「御誓文」を嫌い「誓文」と呼ぶ、おかしな集団だと聞いたことがあります。
それはともかく、その時代、一般庶民は「おおみたから」と呼ばれました。天皇にとって一般の民は宝だったということです。
子供のことを「子宝」と言いますが、この言い方は外国にはありません。とうぜん「おおみたから」も日本独自のものでした。
奈良、平安の昔から、あるいはもっとはるか昔から、日本では庶民は、大君(おおきみ)の、「おおみたから」でした。
そして、ここからが最重要な点です。
その大君(天皇)は、統治はしません。統治をしないということは、支配をしない、ということです。そうではなくて、支配者を任命する。
任命された支配者が支配するのは、自分を選任してくれた大君の、おおみたからです。
つまり日本では、天皇という存在によって、庶民が支配者の私物や隷属者にならずに済んでいるわけです。これが日本のカタチの本質である。そういうことです。
他の多くの国と異なり、日本に奴隷が存在しなかったのも理由は同じだったのでしょう。大君のみたからを奴隷になど出来る訳がありません。

そういう訳で、そういう日本独自の精神風土のもとで、次のような万葉歌も生まれたと考えられるでしょう。
<今日よりは かへりみなくて 大君の しこの御楯(みたて)と 出(い)で立つ われは>
「今日から俺は、一身一家をかえりみることなく、大君の御楯となって出発するのだ」という意味のこの歌は、軍人としての立派な覚悟を表した歌です。「しこの御盾」の「しこ」は、「醜(みにくい)」という字が充てられています。そこには、「卑しい身分の俺だけれど、お国のために立派に役立つ男になるのだ」という固い決意が込められています。
外国の場合、状況は全く違います。兵役は苦役であり金と引き換えの労役でした。ソ連では、強制拉致に近いことも行われたようです。
映画のヨーロッパの戦争画面では、軍服を着た兵隊集団が太鼓の音で前進するのを見ることが出来ますが、ああしないと前に進まないからなのです。
人民解放軍では、前進命令をきかないと後ろから撃たれるのが通常のことです。いつか書きましたが、日本人を殺せるかというアンケートでの答えの選択肢に、自分が危ないときというのがあったのは、これを意味していました。朝鮮戦争時の地雷原突破に解放軍はこの方法を使ったと言います。地雷で死ぬか、後ろから撃たれるか。他ではまず絶対になかったことです。

上の万葉歌を詠んだのは、今奉部與曾布(いままつりべのよそふ)という人であるとされています。下野国の人とされていますから、いまの栃木県の人です。火長(兵士の小集団の長)であったようです。天平勝宝7(755)年2月に、防人(さきもり)として筑紫に派遣される時にこの歌をよんだのです。
こうした日本の人々の覚悟は、奈良・平安の時代からあった。これは、ぼくにとって大きな驚きでした。昭和の時代の特殊な洗脳によって日本軍の兵士が作られたなどというのは、とんでもない間違いで、それもこれも日本弱体化計画に則ったプロパガンダではなかったか。
この古よりの防人の心を受け継いだ日本の軍隊が向かうところ敵なしに強かったのは全く納得できるところです。
アメリカはもう二度と日本とは戦いたくないと肝に銘じたでしょうし、戦えないようにしなければ危ないと心底思ったことでしょう。

高岡駅前、大伴家持像

高岡駅前、大伴家持像

今回、早月尾根からはじまった万葉への逍遥では、もっと大きな発見がありました。
あまり大声では歌えないような歌、しかし時々口ずさんでしまう歌、「海行かば」です。子供心に耳に慣れ親しんだ歌でした。これが、万葉歌だったのです。しかも詠み人は大伴家持。驚きました。
<海行かば 水(み)づくかばね 山行かば草むすかばね 大君の辺(へ)にこそ死なめかへりみはせじ>
「海を進むなら、水にひたる屍(かばね)ともなれ、山を進むなら、草の生える屍(かばね)ともなれ、大君のお側で死なう、この身はどうなってもかまわない」
説明には次のようにありました。
この歌は、私たち庶民が、支配と上下関係による隷属者とならずにすんでいる理由そのものが、天皇という存在のありがたさにあり、だからこそ、その御恩にむくいようとする、武門の長としての家持の歌です。まことに雄々しい精神を伝え、また忠勇の心がみなぎっています。
そうなのです。天皇の存在こそが日本の存在であり、このことを私たち国民は知らなければいけない。
そう思い、いやますます極右に振れてきたことだなあと自覚したのでした。