ロシアの新聞記者からのメール


 ロシアの新聞記者から突然、iPhoneにSMSで連絡が来た。先々週のことだった。
 「私はロシアの新聞イズベスチャの◯◯◯◯(ロシア文字で読めない)と申します。突然ですが、私のインタビューを、もし迷惑でなければ、受けていただけませんか。インタービューはSkypeでやり、録画してTVにも載せたいと思います。実は、友人がLatok1で死に1人がまだ戻りません。」

 いまいち様子がわからないので、ともかくもう少し詳しく事情を知りたいとメールアドレスを知らせる返事を書いた。
 すぐに次のような返事が来た。
zvestia demand for an interview
Dear sir Naomi Takado. I`m a journalist from Russian Izvestia news company, and I wrote you moment ago asking for an interview. We would ask you about the Latok-1 mountain and we suppose you know this climb better than anybody. What are the difficulties of this climb, why it is so dangerous and so unconquerable? How did you manage to climb it better than anybody? Was it a weather factor or any other circumstances?  What have this Russian climber to do, while he stay along on the halfway? Does he have any chances?
I would be very grateful if you accept to do this interview! If possible, we would take it on video, so to call you on skype?
 
Thanks in advance,
Aleksandr Iakimenko

 ぼくの名前が「ナオミ タカド」になっていた。これっていい響きではないか。これをペンネームにしようか、などと思った。
 それでその内容はといえば、ラトックー1について聞きたい。
 あんたは他の誰よりこの登攀をよく知っているからだ。この登攀の困難さはなんなのか。なんでそんなに難しかしく難攻不落なのか?あなたはこの登攀をどんなにして他の誰よりうまくマネージしたのか。
 取り残されたロシアのクライマーはどうすればいいのか。彼には何かチャンスはあるのか。
 ぼくとしては、そんな40年も前のことを、急に言われても・・・、という感じだった。

 ぼくには、数日後に迫った北海道の更別村での熱中小学校の授業の準備に追われていたので、それが済んでからにして欲しいと返事した。
 更別村でとても涼しい3日を過ごしたのち、札幌へ移動した。列車内で、またロシアから連絡があった。
 レスキューは成功したから、インタビューの必要は無くなった。色々面倒を言って申し訳なし、というような内容だった。
 いやよかった。助かったのもよかったし、スカイプなどの準備をしなくてよくなったのも良かった。そう思った。

LatokⅡ 7108m

 列車の中でもう一つ思ったことは、世の中は変わったということだった。ぼくがLatok2やLatok1に行った1970年代は、インターネットはなかった。ファックスもなかった。
 1975年に傭われ隊長としてLatok2に行った翌年、何人かの日本の登山家から手紙が転送されてきた。それはどれもイタリアからのもので、差出人はイタリア・ボローニや大学のアルツーロ・ベルガマッシ教授からのものだった。
 内容は同じで、Latok1に行きたいので、アドバイスを頂きたいというものだった。

 話が横に逸れるかもしれないが、もう少し続けよう。
 なんで何通も同じものを送るのか。配送人の一人で、ヒマラヤ研究家の薬師義美さんは、「イタリアは郵便事情が悪くてね。何通も出してそのうち一つでも着いたら良しと考える」と説明してくれた。
 同じものが何通も届いたので、プレッシャーを感じた筆不精のぼくも、返事を書いた。

LatokⅠ 7145m

 ぼくが行ったのは、Latok2で、Latok1ではない、だからよくわからない。ただ、同じ年に行った友人のMakoto Haraの言によれば、あれは「やらさぬブス女」みたいな山である。
 ぼくは、Latok2を薦める。ぼくは失敗したが、反対側により良いルートが見出せると思う。
 「やらさぬブス女」の英語表現には手こずったけれど、以上のような返事をしたのだった。
 翌1977年、ベルガマッシ教授はLatok2に向かい、ぼくの言った通りのルートで登頂に成功した。
 これが、Ⅰ〜Ⅳまであるラトック山群の最初の登頂となったわけである。

 話を戻して、あの頃はインターネットはなかった。あの頃から考えるとiPhoneにSMSが飛び込んでくるなどということは想像を絶することだった。本当に世界は急激に変化したのだと、改めて感じたわけである。
 ぼくの隊がパキスタン、カラコルム・ヒマラヤのLatok1(7145m)に初登頂したのは1979年だったから、来年でちょうど40年になる。そして、その40年間、誰も第二登に成功したものがいないという。
 今になって、第二登なしが注目されているようでもあり、ぼくとしても、あまり気が進まないながら、その理由を考え書き残す必要があるかもしれないと思い始めている。
 

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