平井一正さんの訃報を聞く

 平井一正さんがお亡くなりになりました。
 Lineで知らせてくれたのは、教え子の一人でした。先ごろ亡くなられたやはりAACK(京大学士山岳会)の高村さんのお葬式には旅行中で行けなかったので、今度は行こうかと思った矢先、別の教え子で、AACKのタケダ君からお葬式に行ってきましたというメールが届きました。

訃報 平井一正さん 89歳=登山家、神戸大名誉教授、システム制御工学専攻(毎日新聞)

 平井一正さんは、チョゴリザ登頂者として知られています。親しい付き合いはなかったけれど、一度お宅に伺って夕食をご馳走になったことがありました。
 一方高村泰雄さんとは結構古くからの付き合いでした。彼はぼくがカラコルムのディラン峰7257mに行く3年前の1962年にサルトロカンリ7742mに行っています。
 初めて知り合ったのは、たしか富山の文部省登山研修所での最初の研修会にともに講師として参加した時だったと思います。

 ヒマラヤオリンピックとも言われたあの時代、日本がマナスルというヒマラヤの未踏峰に初登頂して、日本の登山ブームが沸き起こっていました。その2年後の1958年AACKは、チョゴリザ7654mに初登頂しました。これは大ニュースでした。この時の潮田カメラマンの撮影による記録映画『花嫁の峰チョゴリザ』(1989年)は東宝より公開されました。AACKが日本中に知られるようになったのはこの時からではないかと思います。
 登頂に成功して帰国されてすぐの頃だったと思うのですが、平井さんの講演会が開かれ、大学で山岳部に入って本格的な山登りを始めていたぼくは、ザイル仲間のスミクラに誘われ、それを聞きに行ったのです。今まで、その場所は府大の講堂だったと思い込んでいたのですが、よく考えると、それは今は無くなっている銅駝小学校だったと思います。

 話の内容はほとんど記憶にありません。ただよく覚えているひとくだりがあります。それは、こんな一節でした。
 頂上はもうそう遠くない。雪は硬くなく、一歩ごとに、ボコッ、ボコッともぐって苦しい。すぐ先では雪は硬そうに見える。あそこまで行けば楽になる。そう思って頑張る。ところが、そこに着いてもやはりもぐる。すると、その先に硬そうなところが見える。よしあそこまで・・・。とまあ、こんなことを延々と繰り返しているんです。
 AACKの面々にはそれぞれ愛称があってそれで呼ばれることが多いのです。平井さんはなんとも愛くるしい「ポコさん」。高村さんは「デルファーさん」でした。平井さんの奥さんは、ぼくが勤務していた高校の国語の先生でした。浜っ子を自認しておられて、生徒が不届きだと、「てめえら!」などと一喝されるので、有名でした。
 AACKの誰かが、ぼくらは奥さんを「ポコサイ」と呼んでいると教えてくれました。
 なるほと、と思ったことでした。

 今チョゴリサのメンバーを見てみて、その面々をほとんど知っているのに改めて驚きました。
 隊員列挙の二番手の山口克さんは、ぼくの古巣の府大山岳部の顧問をやってもらっていました。三番手の脇坂誠(ザッカさん)は、『なんで山登るねん』に書いているシバやんの事故の時、最初に現場に行ってもらいその後もお世話になった人です。そしてポコさんデルファーさんと続いています。
 岩坪ゴローさんがあって、末尾の潮田カメラマンの前には今川好則さんの名があります。今川さんは、ぼくのウルドー語の師匠だった領事館の牧内さんの後輩です。
 1969年の「西パキスタンの旅」では、彼の助けがあって、トヨタランドクルーザーを使うことが出来たのです。この車で、カラチを発しシンド砂漠を抜けてラホール、ラワルピンディに至ります。ここから、ペシャワールを経て、スワットヒマラヤに向かい、場所が不明だった幻の氷河のマナリ・アン(マナリ峠)を越えることができたのです。

 その後も、パキスタンに行く度にお世話になっていました。若い連中3人を連れて、西安からクンジェラーブ峠越えでパキスタンに入った時、カラチに着いて電話すると、すぐさま車でホテルに駆けつけ、車の窓からスコッチが何本も入った紙袋を差し出てくださったのを思い出します。その夜は、公邸で日本国の国章入りのお皿で懐石料理をご馳走になりました。奥様がコックに教え込まれたということでした。

ラーマン・カーン氏(右)と四手井教授 ギルギットの PA 公邸にて(1961 年 8 月)

 この稿を書くためにAACK NewsLetterをネットで閲覧して、今川さんも平井さんと同じく、受勲されていることを知りました。また、2008年の秋の46号は、「チョゴリザ初登頂五〇周年記念特集号」で、そこには今川さんが一文を載せておられました。
 この「飛び入りのチョゴリサ」を、タケダ君の許しをえて、<葉巻のけむり>に転載させてもらうことにしました。この文の後にはデルファーさんの「今川さんの文章を読んで」が載っていました。そこには、四手井教授とラーマン・カーン氏のツーショット写真がありました。ラーマン・カーン氏には、ぼくも知事官邸を訪問したことがあり、その時の語らいを思い出しました。

 平井ポコさんのお葬式出席のメールのすぐ後、タケダ君が電話してくれて、少し話しました。その時にチョゴリサ登頂50周年にDVDと論文集がセットで出版されていたことを知りました。そして数日後、それが送られてきました。

DVD2枚の入ったケースと「フィールド科学のパイオニアたち」と題する論文集がケースに収まっている。

『花嫁の峰 チョゴリザ』は、誠に優れた名画ドキュメンターです。その後いくつもの海外登山ドキュメンタリーが作られましたが、これに勝るものはないと言っていいと思っています。この映画に先立つ『カラコルム』は、カラコルムという山群を初めて紹介した映画で、この探検隊を組織したのは今西錦司さんで、隊長であった木原博士が小麦の原種のタルホコムギを発見したとして、大きく報道されたのを覚えています。ぼくが、まだ中学か高校の頃だったと思います。
 『チョゴリザ』は何度かみていますが、『カラコルム』は見たことがあるという記憶があるだけで、中身については全くなにも覚えていません。毎週のミーティングの時にみんなで観ようと思っています。

 

disc1-カラコルム
disc2-花嫁の峰チョゴリ

フィールド科学のパイオニアたち(梅棹忠夫監修)

 この「未踏の地へのこころざしが、新たな学問領域を拓く。」という副題がついた出版物は、定価3800円(税別)の商品とされています。しかし、Amazonで探しても古本としてしか存在しないようです。
 そして、その値段はといえば、2万円から3万円ほどとなっていました。そんなにたくさん作られたものではないでしょうから、高くなっているのだと思いました。
 DVDの方はともかく、この論文集の内容の濃さは特筆すべきだと思います。その内容から言っても、元の定価は安すぎると言えるかもしれません。
 まだざっと見ただけで、じっくり読むのはこれからです。
 ここでも、平井氏、高村氏は各所で健筆を奮っておられ、両氏がAACKの精神的な支えであったことがわかるような気がします。この優れたイデオローグを相次いで失ったことは、 AACKにとって大きな痛手であることは間違い無いことなのでしょう。

 今西錦司先生を創始者とするまことに日本的なあるいは京都的なユニークな発想の試みのフィールドの一つとして山登りがあり、それを実践してきたのがAACKだったのではないだろうか。ほぼ同時代を生きたぼくとしては、世界の山岳地帯でのフィールドが狭まり、そこを目指す若者が減少する現在、このユニークな精神だけはなんとか生き続けてもらえないものだろうか。そんな願いを抱いているのです。

 

 

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