飛び入りのチョゴリザ 今川好則(AACK NewsLetter No.54より転載)

AACKNewsLetter No.46

 前稿の資料探しでAACKのNewsLetterを見ていて、今川さんの投稿記事を見つけました。
 何年か前になくなっておられるのですが、できるだけ多くの人に読んでもらいたいと思い、転載の許可を得て、ここに転載することにしました。
 それは、「飛び入りのチョゴリザ 今川好則」です。
 ところで、この大変よく出来たAACK NewsLetterなのですが、これがガチガチのpdfファイルなので、単純にコピペーできません。コピペーするためには、adobe AcrobatProを使ってファイル変換しないといけません。
 それで、Acrobatを使おうとしたら、これが使えなくなっていました。不審に思い、サポートに尋ねたら、ぼくのものは不正使用とされているのだそうです。
 考えてみれば、この20年近くもタダみたいな値段でAdobeのほとんどのソフトを使ってきたのだから、これは年貢の納めどきで致し方ない。シガーの値段と比べたら大したことはないと観念して、正規インストールに切り替えることにしたのでした。
一、私は、一九五五年、金沢大学卒、同年、外務省に入るまで登山歴皆無、スキー靴を履いたこともなかった。翌五六年、ウルドゥ語三年研修のため在パキスタン大使館員としてカラチに派遣され、前の二年はカラチ、後の一年はラホールに住んだ。その間、留学とはいい条、パキスタン(今のバングラデシュを含む)の平野部のほぼ全域とインドの主要都市部を駆け巡った。
 五七年、京都大学・パンジャブ大学学生合同スワート・ヒマラヤ探検隊(日本側隊長:松下進教授)に大使館H書記官の子息(小学生)が部分参加することとなり、これのお守り役(?)として私も同隊に加わり、スワートのカラーム地区まで同行した。その時の隊員(本多勝一、岩坪五郎、荻野和彦、沖津文雄の四氏)、特に岩坪氏より私のことが伝わったせいか、翌五八年春、AACK側より私にチョゴリザ遠征隊に加わらないかとのオファーがあった。そこで、研修指導官のI参事官にこのことを話すと、二ヵ月も山に行くのは勉学の妨げになろうと難色を示された。私自身も、上述の通り、登山のど素人であり、隊への参加は却って隊に迷惑を掛けることにならないかと案じた。しかし、折から大使会議出席のため帰国中の成田大使に桑原先生が直接働きかけられたせいで、同大使より会話の勉強にもなるからと隊への参加方命じられた。

二、参加が決まったからには、隊のためにできるだけのことをしたいと思い、ラワルピンディでの連絡将校ワジ陸軍大尉との打ち合わせ及びスカルド以遠の現地事情の調査、カラチでの隊員受け入れ、隊の荷物のはしけによる沖待ち貨物船からの積み下ろし、通関、鉄道便発送、スカルドまでの空輸等、スカルドでの高所ポーター及びクーリー約一六〇名の雇い上げ、ベース・キャンプまでの指揮・統率等に当った。

三、ベース・キャンプが設営されれば、私の任務は半ば終わったものと考え、隊の足手纏いにならないよう桑原隊長とワジ大尉と共にベース・キャンプに留まる心算であったが、若気の至りか、誘われるままにC3まで上がり、更にはコンダス・ピーク(六七五八メートル)登頂まで果たすことのできたのは望外の幸せであった。
 その間、私は隊に貢献するどころか、むしろ隊のお邪魔になったのではないかと、忸怩たる思いであるが、本登頂記念会報発行の機会に、若干の思い出と後日譚を記すこととしたい。

(一)隊と酒
 小生は自他共に認める大の飲兵衛。隊への参加が決まると、直ちに在カラチわが大使館と友人の在ラホールH米国副領事よりウイスキーの入手に努め、スコッチとバーボン数ダースを確保した。スカルド到着からベース・キャンプ設営の数日後まで、連日夕食時にウイスキー一〜二本を提供した。隊が日本から持ち込んだのは、登頂祝賀用のサントリーのダルマ数本であった。

(二)スカルドのP・A
スカルドでは同地区のポリティカル・エイジェント(地区行政官)ハビーブル・ラーマン・カーン陸軍准将(スバス・チャンドラ・ボースの副官として台北でボース遭難機に同乗し、顔面等に火傷を負った。)に隊員の宿営、食糧の確保、ポーター及びクーリーの雇用等で大変お世話になった。それから約二年後、小生、東京都からギルギットに贈られる桜苗木一〇〇本を携行して同地を訪れたところ、なんとこのラーマン・カーン氏がここのP・Aとなっており、私は同氏の官舎の客としてもてなされた。苗木贈呈式の後、早々に辞去しようとしたが、悪天候のため数日間、飛行機が飛ばず、足止めを喰った。その間、自前の酒を飲み尽くし、地元のフンザ・パーニー(ぶどう酒)を飲み耽った。やっとマリー(高度二五〇〇メートル)の自宅(大使館連絡事務所内)に帰着すると、私への帰国命令の電報が待っていた。
 一九九〇年九月、総領事としてカラチに赴任すると、ラーマン・カーン氏はカラチ電力公社総裁となっていた。同じディフェンス・コロニー住まいで、私は同氏夫妻とよく会ったほか、年末にはウイスキーと外務省作成の生花カレンダーを届けに同氏宅を訪れた。
 一般に飲酒は回教徒にはご法度とされているが、そもそもコーランもマホメットも飲酒を厳禁はしていない。メディナ啓示の「牝牛」には、「酒と賭矢は大変な罪悪ではあるが、また人間に利益になる点もある。だが罪の方が得になるところより大きい。」とあり、同啓示の「食卓」には、「酒と賭矢と偶像神と占矢とはいずれも厭うべきこと、サタンの業じゃ。心して避けよ。そうすればお前たちきっと運がよくなるぞ。サタンめの狙いは酒や賭矢などでお前たちの間に敵意と憎悪を煽り立て、お前たちにアッラーを忘れさせ、礼拝をなまけるように仕向けるところにあるのじゃ。」(井筒俊彦訳コーランによる)(訳者注:賭矢七人でする賭事。尖を籤として引き、「幸矢」を取った人が賭のらくだを獲得する。占矢吉凶二種の矢で、旅行その他重要な仕事に手をつける前にその可否を占う。)
 また、伝承によると、ある日、マホメットは日中に友人の家を訪れ、そこでの結婚披露宴で、参会者達が非常に楽しそうに談笑したり、抱き合うのを見たが、それが皆酒を飲んでのことと知り、飲酒を人に愛を齎すものとして祝福した。しかし、翌日、同じ家を再訪したところ、家中に血が流れ、人の手足がばらばらに散乱しており、これが飲酒に伴う喧嘩騒ぎによるものと知って、考えを変え、飲酒を呪い、信者達に対しこれを禁じたと言われる。
 そこで、同じ回教徒でも硬軟両派があり、ワジ大尉は硬派であり、ラーマン・カーン准将は軟派なのであろう。また、本音と建前を使い分けて飲む回教徒も多い。カラチ離任直前、私はラーマン夫人より大川周明訳のコーラン(古蘭)を贈られた。
世の中狭いものである。

(三)クーリーとの触れ合い
 隊のキャラバン、特に往路のキャラバン中の私の一番の任務はクーリーの監督・統制であった。外国登山隊ずれしているクーリー達は何度も身勝手な要求を出し、ストライキの構えを示すこともあったが、私はお互い人間だと極力対等の姿勢で連中に接したところ、なんとか折り合いがつき、大事に至らなかったのは幸いであった。彼らは基本的には純朴で、優しい人間である。言葉が通じないと困るが、クーリーのうちリーダー格の数人は中等程度の教育を受け、ウルドゥ語をよくするので助かった。

(四)高所ポーターの乾パン投棄
 隊が本邦から調達・輸送した乾パンは栄養価の高い美味なものであったが、これは精々ベース・キャンプまでのこと。それより高地では、どうもこれに対し食欲が起きなかった。ある日の夕刻、C2で待機していたところ、一人のポーターが乾パンを手付かずの箱ごとテント脇から崖下に投げ捨てるのを目撃した。これは担がされる荷を減らそうとするよりも、食べさせられるのが嫌でやったのではないかと怒る気にもなれなかった。

(五)ヒッドン・クレバス落下の恐怖

クレバスに落ちかけて作った穴

 ある日、潮田カメラマンと二人で、私が先行してC2からC3へ向かって雪原を歩いていたところ、突然足元の雪が崩れ落ち、私の両足はすとんと下に落ちた。とっさに両手をついた部分の雪はわりと硬く、私はなんとか身体を支え、雪上に這い上がることができた。足を踏み落としてあけた穴を覗くと、下は広く深い空洞で、青白く光っていた。後方の潮田さんとはザイルで結ばれていたが、もしも私がクレバスに全身落ち込んだら、軽量の潮田さんは引きずられて、共に奈落の底(?)に落ちたことであろう。後刻、このことを加藤副隊長に報告すると、その場で「今後二人だけで行動することを厳禁する。」と言い渡された。
 小生、延べ二〇余年の在外生活中、酒飲み運転、スピード出し過ぎ等による自動車事故、カラチにおけるインド軍の空爆、カブールでの公邸ロケット弾被災等、いろいろと危ない目に遭ったが、思い返して、これまでに一番危なかったのはこのクレバス落下未遂(?)であったと思われる。
 八月四日、藤平、平井両隊員によりチョゴリザ登頂成功。七月二七日から無線通信機は使用不能となり、登頂成功の吉報も加藤副隊長より桑原隊長に無線で伝えられず。翌五日、私はポーター一人に先導されてC3からベースキャンプに下りて、登頂を隊長ほかに伝えた。桑原先生著の「チョゴリザ登頂」一六三頁には、私が一人で下山して来たとあるが、これは誤り。上記のハプニングをしでかした小生には、とても単独行は許されなかった。

(六)コンダス・ピーク登頂
 八月三日早朝、加藤副隊長、潮田さん及び私の三人は、軽装でC3の東側にちょこんと丸く出っ張ったコンダス・ピークに向かった。ほんの近くに見えるので、数時間で行ける位に安易に考え(加藤さんがどのように見込んだかは不明)、昼食の用意もせずに出発したが、途中雪はかなり深く、ラッセルに悩まされ、緩やかながら高度が上がるにつれ、息切れしやすくなり、数十メートル進んでは、雪上にばたんと倒れて、小休止し、また漸進するという具合で、山への距離はなかなか詰まらなかった。私は往路数回腹痛を覚え、しゃがみこんで、力んでもみたが、不発。一種の高山病にかかったようである。山頂部は円形の筒状で、これをぐるぐる回る形で登った。岩場こそなかったが、斜面はかなり急で、山には素人の小生、身体が横に傾いて下に落ちそうな気になり、身体を山の斜面に持たれかけながら歩こうとすると、身体を起こして斜面に垂直にするよう加藤副隊長から指導されたが、なかなかうまくいかなかった。潮田さんも山登りは初めてであったが、何とか夕方近くに登頂できた。潮田さんも私もスチルカメラしか携行しなかったが、山頂でチベット側に展望された黒々とした多数の山々を撮影することができた。テントに帰着したのは夜の八時過ぎで、帰りの遅いのを心配して待っていたポーター達がテントから飛び出して迎えてくれた。昼食抜きであったが、不思議に空腹感はなかった。
 改めて、ヒマラヤのスケールの大きさを思い知らされた一日であった。

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