北杜夫ドクターのこと(承前)

 ドクター死去の報を知ってから数日が経った。報道でそうしたことを聞くと、いろいろなことが思い出されてきた。
 前の稿に書いたとおり、ぼくは46年前の1965年、パキスタン(当時は西パキスタンだった)のカラコルムの未踏の高峰・ディラン峰に遠征した京都府山岳連盟隊の最年少隊員だった。
 北杜夫氏は、隊付きのドクターだった。だからぼくたち隊員は、彼のことをドクターと呼び、仲間内では「キタモリさん」あるいは「きたもり」とよんでいた。
 常に接触するようになったのは、やはりベースキャンプに入ってからだった。常にとつとつと喋り、なんとも言えぬ誠実さを感じさせるような人柄に思えた。
 印象的だったのは、彼が胸ポケットに収めている手帳に常にメモを取っていたことだった。ポーターとのやりとりなどで大笑いなどしていると、すぐやってきて「なに、なにが可笑しいんですか」と聞き、胸ポケットの手帳を取り出した。こうしたメモは、けっこう膨大な量になったと思うし、それだからこそ、あの名作『白きたおやかな峰』が生まれたのだと思う。
 登山遠征隊の活動が各隊員の個性や性格を浮き彫りにしながら、ここまで活写された文学作品はおそらく他にはないと思われる。
 テープレコーダーでもあったら別であるが、あれだけの細かな描写は、メモによるものだと思う。これは、本が出た直後に思った感想である。
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北杜(北杜夫)ドクターの死

友人がSMSで報せてきて、キタモリドクター(北杜夫氏)の死を知りました。

 ぼくが、最初の海外遠征隊としてパキスタンに行った時のドクターでした。それは1965年のことで、まだ外貨もままならぬ時代でした。
27才のぼくは、京都府山岳連盟派遣のカラコルム・ディラン峰遠征登山隊の最年少隊員として選抜されました。
当時は海外登山は大変なビッグイベントだったので、隊員発表が行われるとすぐに新聞記者が自宅にやってきたほどでした。ぼくは、先遣隊として、本隊より3ヵ月前にパキスタンに向かい、カラチに滞在しました。

小谷隆一隊長は、この前年まで日本青年会議所の会頭を務めた財界人で、東大山岳部のOBでした。北杜夫ドクターとは、旧制松本高校の同窓の友人でしたから、ドクターとしての参加を頼んだのです。
北杜夫氏は、有名な歌人斎藤茂吉の子供で、ドクトルマンボーとして、軽い読み物作家として知られるようになったようです。
ちょうどその頃、斎藤茂吉家をモデルにした大作『楡家の人々』を世に問うたばかりでした。
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3.11で日本は変わった

「9.11で世界は変わった」と10年前の2001年に、ぼくは書きました。(ウェブサイトの記事索引から「体験的自然教育論もっと外で遊ばなあかん(1)」参照

9.11のあと何を信じたらいいのか分からないような状況になったと感じ、では本当にぼくにとって信じられるもんはなんなのだろうかと考えました。考えあぐねて到達した信じられるものは、自然だった。大自然の中には、神がいると言い切れると思えましたし、自然そのものが神だった。

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