映画「蜂蜜」を観る

録画してあった映画『蜂蜜』を観た。
賞を取った映画という以外には全く予備知識がなかった。

このトルコ映画は森のシーンから始まる。
どこか遠くの谷川の水音が聞こえて来る。鳥のさえずりが聞こえる。ピーという鹿の鳴き声も聞こえる。
木々にたゆたう木洩れ日のゆらめき。幽玄な森の中に遠くからロバの蹄の音がちかづいてくるようだ。
こうした自然の音の世界からこの映画は始まる。この悠然とした情景に引き込まれてしまった。

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日暮修一氏の訃報を聞いて

小学館に勤める知り合いがFacebookで日暮修一さんの訃報を伝えてくれた。
日暮修一といえば、ビックコミックの表紙絵で有名な画家で、『なんで山登るねん』の三部作、正・続・続々の三冊の表紙の絵も彼の作である。
正編が出るとき表紙の絵を頼みに行った山渓の節田さんから、値段を聞いたらえらく高かったので「すみません。お願いします」と手を合わせたら、一気に10万安くなりました、と聞いた。この表紙絵代金は印税から差し引かれるということだった。だからその原画は後に貰ったはずで家のどこかにあるはずだ。原画と言えば京都新聞に連載した『いやいやまあまあ』の挿絵を描いた山本容子さんのエッチングの原画も一枚だけ頂いた。これも家のどこかにあるはずだ。

日暮修一さんに会ったことはない。節田さんから脚が少し不自由だとか聞いたような気もするけれど、全く別の人の話だったかもしれない。
どんな人だったのだろうと、気になってグーグってみた。「日暮修一の画像検索結果」をみると、彼の作品が多く上がっていた。
おっと驚いた。知ってる写真があった。それは『Oh!PC』1985年新年号の表紙で「ボクの夢のパソコン」という特集が組まれているものだった。ぼくも「パソコンが作家になる日」と題するエッセイをものしている。さらに驚いたのは、この写真に続いて「パソコンが作家になる日」の挿絵があったのだ。
へぇ〜、あの挿絵は日暮さんのものだったのか。描いた人の名前の記載はなかった。あれば絶対に気付いていたはずである。日暮さんはあのビックコミックの表紙みたいな絵だけではなくて普通の絵も描いていたのだ。全く知らなかった。長い間知らなくて申し訳ないような気になってきた。

そこで、このカットを含んだぼくのエッセイ「パソコンが作家になる日」を<高田直樹ウェブサイトへようこそ>から転載することにした。

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アホな翻訳ソフトのことなど

きょうの6チャンネル「モーニングバード」、もちろん録画で、を見ていたら笑ってしまうニュースを報じていた。
国土交通省・観光庁が開設管理するHPの観光博外国語版に数多くの珍奇な誤訳が見つかったという。
冒頭の部分の<ブルーメッセあきた>(これは道の駅の施設名)は、なんと「ブルーメッセ飽きた」Blue Messe got tiredとなっている。
「(石川)啄木」はwoodpecker(啄木鳥)。「軽トラ」はlight tiger(軽い虎)。
凄いのは、「かまくら行事」が、Mosquito event to use as a pillow(枕に使う蚊の行事)、えぇーと驚いた。

でもこの分解力はなかなかのものである。か・まくら・行事と分解した訳である。それで、急に思い出したことがある。昔話になるのだけれど、最初にぼくが作った営業用のソフトは、東山の有名料亭の献立管理ソフトだった。このソフトでは、懐石の献立を入力する。
この作業を手伝ってくれていた傍らの女性が、とつぜんけたたましい笑い声をあげた。その適齢期を過ぎんとする女性が「松葉かに蒸し」を出すべく「まつばかにむし」と入力したら、そのフロントプロセッサーは「待つ馬鹿に無視」と変換したのだ。もしかしたら、彼女は自分のことを笑われたと思ったのかもしれなかった。
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パキスタン大使館昼食会と大阪のシガーパーティ

前稿で書いた通りパキスタン大使からの昼食会の誘いがあって、東京に赴いた。しかし、翌日には以前より予定されていたシガー・クラブ主催のシガーパーティーが予定されており、東京で一泊して翌日大阪に戻るという日程になった。
パキスタン大使館は以前とは違った新築の建物となっており、大使もスタッフも知らない人ばかりになっていた。
パキスタンのスタッフは、以前は各国大使館が蝟集する広尾界隈に済んでいたが、このビルが出来てからは、その中に住むようになり、それだけで年間1億円の経費削減になったと聞いた。

ナジール・サビール

8時半頃の新幹線で東京に向かい、大使館には11時半に着いた。招かれた18名のゲストは、もうみんな集まっていた。大使のヌール・モハメッド・ジャドマニ氏と副大使のサイード・アリ・アサド・ギラニ氏の挨拶を受け名刺交換。ゲストの中には数名の顔見知りもいて、懐かしく挨拶を交わした。
すぐに全員テーブルに付き昼食会が始まった。大使発声の乾杯と挨拶、メインゲストのナジールのスピーチがあり、その後全員が、自己紹介のスピーチを行った。数名の日本語のものもあったが、ほとんどは英語のスピーチだった。
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ギルギットの騒動について

ギルギット・セレナホテル

ギルギットやその奥のフンザで足止めを喰らっていた日本の旅行者は、無事帰国したようだ。
ギルギットで宗教対立が激化し、外出禁止令がしかれたという。そのため、日本人旅行者は素敵なホテル、ギルギット・セレナに足止めされたらしい。
そこからフンザ河の上流50kmのフンザ(カリマバード)は、まったく影響はなかったはずだ。なぜならフンザは、シーアやスンニ派ではなく、イスマイリー派というシーアよりもっとマイナーな宗派の本山である。
このイスマイリー派は、大変フリーな宗派で、女性はブルカをかぶる必要はなく、お酒も飲んでもいい。形式ではなく心根だという教理である。
フンザには、葡萄や桑の実が取れるので、たやすくお酒が出来るのだ。ウルドー語ではお酒のことを「シャラーブ」というが、フンザでは「フンザパニー」つまりフンザの水という。

ギルギット川に架かる1950年代からの吊り橋

それはともかく、このギルギットの宗派対立というニュースを聞いたとき、なんともいえぬ違和感をぼくは覚えた。
かなりのパキスタン通を自認し、あちらではアダームスリム(半分回教徒)といわれるぼくは、パキスタンで宗教対立などという現象を実感したことは全くなかったからである。
たしかに、テロはかなり頻繁に発生していると言える。しかし、それは宗教対立が原因ではない。反米であったり反政府であったりの行動であると思う。それが、こともあろうにギルギットで起こるとは。
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『マンボウ最後の家族旅行』

斎藤ドクターの奥様・斎藤喜美子さんから、北杜夫さんの絶筆を含む新刊の本『マンボウ最後の家族旅行』(実業之日本社)が送られてきた。
『月刊ジェイ・ノベル』に掲載されていた連載エッセイ「マンボウ夢草紙」と「妻・斎藤喜美子が語るマンボウ家の五〇年」に、斎藤由香さんの「父が遺したユーモア」を加えて一冊としている。
奥様の喜美子さんとは、あのディラン峰遠征の翌年の1966年の夏、比叡山上の集会で会って以来会ったことはない。大変美しくて、明るく快活な人でだったという記憶がある。
その頃は、『楡家の人々』が書店に平積みされていた。奥さんは問わず語りに「大変なのよ。わたし本屋さんを回って、人の目に触れるところに位置替えしたりしてるのよ」などとおっしゃっておられたのを憶えている。
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