もう明け方近く、ベッドに横たわり、いつのものように、何気にiPhoneを見ていましたら、こんな記述が目にとまったんです。
<通常国会では、憲法改正の議論もしばしばなされている。そこで今回は、憲法改正論議にどのような態度で臨むべきか考えてみよう。
憲法は、国家が権力を乱用し人権を侵害した過去を反省し、国家が犯しがちな失敗をリスト化したものだ。国家の三大失敗とは、無謀な戦争、人権侵害、独裁だ。>
なんですか? これは。 こんな憲法の定義って聞いたことがない。こんな前提で話を展開すれば、とんでもない、好き勝手な話が展開できるはずです。
いったいこんなことを言うのは誰なのかと思ったら、それは木村草太という憲法学者でした。確か報道ステーションのイケメンの若造コメンテーターだったことを思い出しました。この人たちが現れた頃から、ぼくはこの番組を見ることがなくなったようです。
もう少し調べると、この記事は沖縄タイムス紙に「[木村草太の憲法の新手](27)憲法改正 権力の反省踏まえ提案を」なるタイトルで載ったものだとわかり、なるほどなあと合点がいったのです。
でも結構腹立たしい気分で、寝つきが悪くなったことでした。
憲法とは何なのか。よく聞く説明は憲法とは権力を縛るものという説明です。権力に対する戒めなどという人もいます。そういう人の口説を聞くたびに、ぼくはなんとなくある違和感とともにその人の浅薄さを感じてしまうのです。
安倍政権が発足した頃から、遅ればせながら、ぼくは憲法に興味を持ち、少々の勉強をしました。今の昭和憲法の成立過程についてです。大日本帝国憲法の誕生の経緯なども調べ、当時世界に絶賛されたとも言えるこの憲法の口語訳を行ったりもしました。大日本帝国憲法の口語訳
その結果、日本に呪いをかけたとも言われる宮澤憲法論、それは今日本中にはびこっているのですが、を客観的に眺められるようになったのではないかと、おこがましながら思っているのです。
この日本憲法学の権威でもあった”魔物”宮沢俊義教授の弟子の芦辺信義、その弟子が高橋和之です。東京大学時代にこの人の助手を務めたのが木村草太だったことがわかりました。なるほどこの木村という男は魔物の曾孫弟子だったのかと納得したのです。
この係累の委細については、このサイトの別のブログ「憲法は国の形を定めるもの」を参照してください。
憲法は、英語では、ご存知の通りConstitutionです。
このConstitutionをぼくのiPhoneに入っているWISDOM辞典で引くと、最初は憲法、約款などとありますが、最後の5番目の訳は、国体、政体なのです。すごいぞ、WISDOM英和・和英辞典。
国体、といっても国民体育大会ではありません。あまり聞きなれない言葉というか、戦後に禁じられた言葉のように使用を憚られた用語だったようです。簡単に言えば、国の形と言ってもいいでしょう。政体とは、政治の形です。
つまり、憲法は国の形と政治の形を書き表したものなのです。権力を縛るものなどというのは、この政体のごく一部の機能を言っているにすぎません。これを誇大に拡張して唱えるのは、左翼や左がかったリベラリストあるいは戦後教育に毒された人たちだと思います。
国の形などというものが、重要視されるのは、世界でも珍しいことだと言えます。よその国では国体などというものはあまり問題ではないようです。
日本の国体が重要視されるのは、日本が世界で大変特殊な国だからだと思うのです。その特殊性は挙げればきりがないほどあるのですが、先づこれは地政学的なことから出てくるものです。つまり、自然国境と民族国境と文化国境と言語国境が一致している。こんな国は世界広しといえども、日本以外にはありません。
さらに、万世一系と称される125代にわたる皇室制度を維持しているというとんでもない国家です。第二次大戦で、ポツダム宣言を受け入れるかどうかに際して、最も問題となったのは、日本の国体でした。この時の国体とは皇室・天皇の存続でした。
終戦の詔勅には「朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ」とあります。国体を護持し得たのであるから共に頑張ろうと宣下されたわけです。戦後憲法では、だから第一章には九条にわたる天皇が置かれています。
だからといって国体が書き表されてるとは言えません。国体とは皇室制度のみを指すわけではないと思うのです。それは2千年を越す長い歴史を持つ民族が作ってきた歴史を表すものでなければならないからです。
そうした日本人が無意識に持っている日本人としての独自性は、GHQの思案の外だったはずで、そんなものはGHQ憲法には書き込まれませんでした。おそらく帝国憲法1〜17条の天皇条項の引き写しを行ったのでしょう。
戦後の日本国民は、そんな出来合いの憲法など無視していたのではないかと思うのです。変な高等教育に毒されない一般庶民にとっては、日本の国体は身に染み付いたものとして、戦後憲法のさらに上に存在していたと言えるかもしれません。
そうであってみれば、憲法などどうでも良い。もしかしたら、これが、この七十年の長きに渡って、この現実とは合致しない憲法がそのまま存続してきた理由かもしれないという気もするのです。
それは、1937年に文部省から出た本の復刻版です。なかなか美麗な本でした。
1937年といえば、あの二・二六事件の翌年です。あのクーデターには思想的背景として、北一輝の「日本改造法案大綱」などがあることに、政府が危機感を抱いた結果出版を急いだとも考えられます。
斜め読みしましたが、なかなか筋の通った記述で、今読んでも納得するところがたくさんありました。
西洋思想への批判があります。たとえば緒言にはこんな記述があります。「それは18世紀以来の啓蒙思想で、これらの根底をなす世界観・人生観は歴史的考察を欠いた合理主義・実証主義で個人に至高の価値を求め個人の自由と平等を主張するとともに、他面において国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。」
緒言では、こうした世界主義を評価しつつも、その弊害を述べ、欧化主義と国粋保全主義との対立の激化を収めるべく出されたのが、「教育勅語」であったとしています。「社会主義、共産主義、無政府主義などの愚かで過激なものは、究極においてはすべて西洋近代思想の根底をなす個人主義に基づいている。さすがに西洋でも共産主義に対しては個人主義を捨てて全体主義・国民主義を取りファッショ・ナチスの勃興を見ることになった。
今日の思想の相克、生活の動揺、文化の混乱は、日本国民が西洋思想の本質を見通して我が国の國體の本義を解決することによってのみ解決できる。これは独り日本国のみならず個人主義の行き詰まりでその打開に悩む世界人類のためでなければならぬ。ここに日本国の重大な世界的使命がある。それが『國體の本義』を著した理由である。」
これが、ぼくが生まれた頃に書かれたものであるとは、まことに驚きでした。
緒言に続く「第一 大日本國體」の四には「和と「まこと」」があります。
「歴史の発展の跡を辿ると常に見出されるのは和の精神である。それは人倫の道である。和の精神は万物融合の上に成り立つ。人々があくまで自己を主とし、私を主張する場合には、矛盾対立のみあって和は生じない。すなわち個人主義の社会は万人の万人に対する闘争である。和をもって根本とする我が国は本質的にこれとは異なる。」などとあり、次のような小タイトルで占められています。
「武の精神」「むすびと和」「神と人との和」「人と自然との和」「国民相互の和」「まこと」の6節。
最初の「武の精神」には、「和のための武である。」とし、殺人ではなく活人であるとします。「戦争は、この意味において、決して他を破壊し、圧倒し、征服するためのものではなく、道に則って創造の働きをなし、大和すなわち平和を現ぜんがためのものでなければならぬ」としています。
以上の長々しい引用は、良い部分のみのもので、当然日本が軍国主義に入り込む理屈づけとなった部分もあります。特にぼくが注目したのは、天皇機関説を否定する理由として帝国憲法第三条の「天皇は神聖にして侵すべからず」を意図的に曲げて解釈し、欧米の同様の規定を日本とは異なる浅はかなものとしているのは、起草者としての伊藤博文の意図を知らないか、知りつつ曲解した文面と言わざるをえないと思いました。
いずれにしろ、憲法改正が政治課題として、大きく話題に上る中で、国体(国の形)が全くと言っていいくらい言及されず、もっぱら政体(政治の形)それも個人の自由や権利のみがクローズアップされて論じられるのは少し変ではないかと思っています。
だから憲法改正を考えるには、政体のみではなく、同じように国体についても考えないといけないと思うのです。
考えてみれば、戦争に負けたとはいえ、日本が決定的に変わったわけではなかったし、日本の本質は揺るがなかったとぼくは思っています。いくら欧米ナイズされたと言っても、床の間、座敷を捨てることはなかったし、消えることなく続く能や歌舞伎などの伝統芸能もやはり国体の強固さを示していると思います。
さらに遡れば、明治の時代にキリシタン禁止令は解かれたけれど、その後、今になってもクリスチャンは人口の1%を超えません。日本より二十年も後になってキリスト教が入った韓国では25%だし、中国は10%だそうです。
どうしてなのか。その原因は日本の国体にあるとぼくは思っているのです。だから、私たち日本人は日本の国とその国体にもっと自信を持っていい。
また、以上述べてきたようなことから考えて、自民党の憲法改正案などは、なんとも頂ける代物ではないという気がしてしまい、もう一度作り直してくれませんかと言いたい気分なのです。