髙田家は墓守なんや

わたしは、ほとんど自覚のないまま歳を重ねてしまい、まもなく90歳の誕生日を迎えることになってしまいました。
もういつ突然死んでもなんの不思議もない年になっていると言っていい。そうであれば、いつも子供達から言われている遺言状を書いておかないといけない。そう思うようになりました。でも遺言状を書く前に我が家のこと髙田家について書き残さないといけない。そう思ったのです。

ぼくは、満一才になった時、京都府園部町大河内の祖父母のもとにられ、学齢期までそこで育ちました。ヤギの乳と重湯が与えられたようです。育て親のマサエばあちゃんは「わしが面倒てやらんかったら、おまえはとうの昔にくろおい土になっとってやわな」と言ったものです。
それにしてもどうして一年ほどの子供を山中のじいさんばあさんに預けたのか。どうしてそんなことが行われたのか。ぼくの父は、祖母のお照さんに育てられました。お照さんは山向こうの天引きから嫁いできたのですが、生家は弓の指南番で、参勤交代に向かう福知山藩の御殿さんが宿泊する番屋だったそうです。お照さんは弓矢や刀剣をたくさん携えて嫁いできたのだそうです。弓矢は今も残っています。
そのお照さんに侍のような厳しい教育を受けた父は、これはぼくの勝手な推測なのですが、ぼくを侍の子のように両親の元から離して育てるべきだと考えたのかもしれません。

大河内村は、府立自然公園の瑠璃渓の渓流が流れ下って、穏やかに西流する1キロ足らずの流れの両側の山の斜面に点々と張り付くように民家が立ち並ぶ小さな農村です。
川の左岸北側をかげわ、右岸の南側を日向(ひなた)と呼んでいます。髙田家は中程の急坂を100メートル足らず登ったところにあり、そこはお寺の盛光寺と同高度で、村で一番高いところでした。
山中の踏み跡様の細そい水平道をたどると容易にお寺に着きました。
村にはカブと呼ばれる集団があり、これはなんらかの血縁者同士の集まりのようでした。また村には組と呼ばれる1組から10組までの集団もありました。髙田家は1組の筆頭に位置していました。
そんな家のぼんぼんでしたから、ぼくの側にはタカダ株のシーちゃんとスエちゃんという二人の少女がいつも侍っていたのです。でも、ぼくには彼女たちに遊んでもらった記憶はほとんどなく、ただ一つ猟犬たちに追い出された鹿が、村の田んぼを西へ東へと逃げ惑い、疲れ果てて川の水に身を沈めたところを漁師に撃ち殺されるのを、村人と一緒に少女の背から見た記憶だけが鮮明なのです。
この茅葺き屋根の家は、ぼくが中学生の頃取り壊され、今の墓の下と呼ばれる大河内村の最東部に移りました。ぼくはだから、今は無きこの育った家のことを古屋敷と呼んでいます。

大河内村は湊川の合戦で敗れた楠木の残党が落ち延びて開いた村だと聞かされていました。江戸時代の天保年間に茅葺き屋根を葺き替えたというわが家の脇には地神(じがみ)さんと呼ばれる祠があってそこには戦いの時に用いる陣旗が収められていました。家の上手の林のには、卵塔と呼ばれる墓石群がありました。これは一種の隠し墓でカブ毎に山の各所にあるということでした。落人であるからこのようにしなければならなかったと聞かされていました。卵塔というのは卵型をした墓石で、平安時代から多く用いられるようになったと言われています。
ぼくの遊び場であった卵塔には、そばに小さなため池があり、そこには一匹の緋鮒がいました。誰かが放したものと思われました。妙な親近感を覚えたぼくは、時折餌を与えることもありました。

大河内村にある神社は大山祇(おおやまずみ)神社といい、盛光寺のさらに上手にありました。天暦3年(949)に天慶の乱を起こした藤原純友の弟純索が、熊野三所権現を建立したのがはじまりとされる古い歴史を持っており、現在残っている本殿は、重要文化財に指定されています。
最近になって、『楠木探訪録』というブログを見つけました。その記事たるや100を悠に超える量で、日本中の楠木家を称する家々の系図を精査しています。
この記事によって大河内村はその前は湯原村と呼ばれていたことを知りました。これを大河内村と改めたのは楠木正成の弟正季です。(のちに訂正されていますが、正季ではなく正末です。)
「京都府南丹市園部町大山祗神社に祀られる楠正末は、正季と誤解されているが、正しくはこの人物である。また、これもよく誤解されているが湊川の戦いの後、正季がこの地に落ちたのではなく、正末は放浪の後、この地に落ち着いたものである。正成の子の中で一番の長命だった可能性大。」
「京都府南丹市園部町大山祗神社に社伝によると湊川の戦で敗れた楠正成の弟正季(正末)は幼少の尊恒親王を奉じて挙兵するも敗れ、建徳元(1370)年湯原村に来住。建徳二年、湯原村を大河内村と改名した。」(「楠木探訪録その17 楠木二郎正末の系統」)

別のところで、書いてあるのですが、大河内村としたのは正成の活動場所であった大阪の河内からとったそうで、これはぼくが以前から予想していた推測と合致します。
正末については次のような記述もあります。
「正末は、兄正之と違い湊川の戦いでは楠木勢の1人として従軍し、父と共に戦うが父正成に諭され落ちる。河内に帰国後、母や幼い弟達を連れて、妹の嫁ぎ先である三河の鈴木氏を頼り、母や弟達を預けた後、自らは河内に戻る。その後、尊恒皇子を奉じて紀伊国海部で兵を集め挙兵するも裏切り敗北。尊恒皇子を奉じて長門国豊浦へ渡り、彼の地で暫く留まるが奉じた皇子が薨去してしまう。正末は皇子の姿を木造に刻み、遺髪骨と共に山陰方面を転戦する。この転戦行は、殆ど流浪状態に近い状態であったらしく。正行の挙兵にも参加せず。やがて丹後国由良に落ち着き。後丹波国桑田郡穴太辺に移る。この地で源氏の血流の源頼国に迎えられ。養嫡子に迎えら、この家を継ぐ。子孫は高田、田井等を複数の家がある。」
さらには、こんな記述もあります。「正末の系統は田位井、田井、下村などに枝分かれ、天文の頃(1532~1555)には高田氏と名乗る家が大河内楠氏の長となり、大山祗神社の神主や盛光寺の世話役などを務める。」

高田家には、庄屋を勤めていた時期があり、その人の名を仙右衛門といったそうです。苗字帯刀を許された仙右衛門は家紋の入った陣笠を着けて、園部城に登城したと言います。その陣笠は今も残っています。古屋敷の玄関先の庭の周りには珍しい斑入りのつつじの木が植えられており、これは園部城から仙右衛門が持ち帰ったものだと聞かされていました。また、仙右衛門の署名入りの直筆の文書もあり、これは父が額にしていました。
その頃、大河内村の田んぼは見渡す限り、髙田家のものだったそうです。ところが息子がとんでもない男で博打でほとんどの田畑を手放すことになり、それを取り返すのは大変だったうです。お照さんの連合いの万治さんは、大男の働き者でこの人が現在の状態に戻したのだと聞きました。

ある時父親がなんの前置きもなく、ぼくにこう言ったことをなぜか鮮明に覚えています。「髙田家は楠木の墓守なんや」ぽつりとそう言ったのです。それは、常々いっていた楠木の直系からはひどくへりくだった言い方にも聞こえました。しかしそれは、直系だ本家だなどという言うい方などよりはより確固とした覚悟みたいなものを感じさせるものでもありました。
村の共同墓地である野墓。ここには墓石はなくただ木札の卒塔婆のみの墓でした。落人あるため正式の墓を建てることを躊躇い隠れ墓の卵塔をつく作ったというのです。
盛光寺のそばにまともな共同墓地を作ることになり、みんなが移転したにもかかわらず、ぼくが移動を拒否したのは、父親なら多分そうしたのではないかと思ったからです。

我が家の家紋は丸に橘です。先祖は伊予橘氏の出自です。楠姓は、正成が後醍醐天皇から授かったとも言われています。
しかし、『楠木探訪録 その1』によれば、「正成の家、楠木氏は橘姓である。一般にこの橘姓は僭称とされます。しかし、どうも正成の家系は本当に皇別橘氏を出自とする家であったようである。ただし、ポイントは、その家系が皇別橘氏という点。あくまでも家系が皇別橘氏であること男系による血統を見た場合、その祖は、熊野国造家を出自となります。次に家名の「楠木」です。「楠」、「楠木」とありますが正成の家名は、「楠」ではなく。「楠木」です。」と通説とは異なった見解を述べています。
いずれにせよ、卵塔にはこうした先祖が祀られており、これを残すのは文化財保護とも言えると思うのです。
これをなす為には、卵塔のそばに通じる車が通れる道をつける必要がある。そう考えるようになりました。

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