それは、ぼくがモデルになっている日本専売公社の広告ポスターでした。
このポスターが、こんな感じに映画に現れるのは、これが最初ではありませんでした。もうずっと昔のことですが、たしか『たんぽぽ』だったと思うのですが、ドライブインの壁にかかっている画面がありました。
同じものは、ぼくの家にもあるのです。どうしてなのかをこれから説明したいと思います。
1979年のこと、ぼくはカラコルム・ヒマラヤのLatok1(ラトック1)という山を目指しました。メンバーは10名でした。普通の場合、こうしたメンバーは各地域の山岳連盟だったり、大学山岳部あるいは社会人山岳団体を母体として組織されるのが普通です。しかし、この隊はそのいずれでもなく、ぼくが個人的に声をかけて集めたものでした。そういう隊は異例のことで、チームワークが取れず失敗するだろうと言われていました。
しかしぼくの考えでは、チームワークというのはそうした情緒先行的なものではなく、チームとしてのワークであると考えたのです。
そのためには強い隊員を集める必要がある。強い隊員を集めるには困難で魅力的な目標が必要です。そうすれば我こそはという一匹狼的な強い隊員が集まるだろう。そう考えて目標にしたのがラトック1でした。
この山は、とんでもない難峰といわれ、何回もの各国隊の挑戦を退けていましたし、たしか5人を超える犠牲者を出しているということでした。 こうした遠征登山には、とんでもないお金がかかります。隊員個人ではとてもまかないきれません。スポンサーを探すことになります。スポンサーは費用対効果を考えて判断します。その時には成功の確率を考え、隊の強力さ隊員の知名度などを参考にします。もちろん山のマスコミの意見も聞くわけです。
幸いにも、幾つかのスポンサーが見つかりました。その一つが日本専売公社でした。今の日本たばこ産業の前身です。
今と違って、当時はそんなに禁煙は叫ばれず、専売公社は大いに儲けていたと思われます。税収にも大いに寄与していたようで、たばこは自分の街で買おうというキャンベーもあったと聞きました。
日本専売公社が私に提示したのは宣伝キャンベーン用の写真を撮ってくることでした。
我が社は来年度の新製品発表に向けて日本縦断キャペーンを行う予定である。そのために新製品を写した写真を撮ってきて頂きたい。そういう話でした。これはなんとも簡単でありがたい話だったと言えます。
京都伏見のお酒屋さんなどは大変な条件で、頂上でのワンカップの写真を撮ってきてくださいと要求しました。
交渉の詰めの場面は、ぼくの教え子がやっている祇園のクラブだったのですが、営業部長さんが「本当の登れるのですね」と念を押し、ぼくは一瞬絶句しました。そんなこと断言はできないと思ったのです。困ったまま沈黙を続けていると、そばの重廣くんが「大丈夫。登れます」といいました。少し驚きました。
そんなこともあったのか、重廣くんは一次登頂隊ではガスのため写真が撮れなかったと言って二次隊にも加わったのです。
このお酒屋さんは随分長い間「ラトック頂上に立ったXXXXX」というコマーシャルを流し続けていたので、十分元を取ったと思いました。
このポスター写真を撮ったのは、隊にマネージャーとして加わっていた教え子の中村くんです。彼はこの時以前にも1969年のスワット・ヒマラヤ、1975年のラトックⅡにも参加しており、カメラの腕前はプロはだしでした。
撮影場所は、カラコルムの4大氷河の一つであるビアフォー氷河の支流バインター・ルクパール氷河の4600メートルあたりに置かれたベースキャンプの近くです。手には発売予定の「PARTNER」を持っています。同じような写真は全隊員それぞれ撮影されたのですが、なぜかぼくのものだけが選ばれました。
気になったので、尋ねたことがありました。「いやあ、この絵がNice day Nice Smokingというのに最もフィットしているというのがみんなの意見だったんですよ」という話でした。
この絵は、日本国中あちこちで張り出されたようです。京都大丸では巨大パネルになっていました。ぼくの家内が3歳くらいの末娘を連れて、大丸に行った時、突然娘が「パパだ。パパがいる」と叫んだので、家内はぼくがまた学校をサボってうろついてると咄嗟に思ったという話を聞きました。
このNice day Nice Smokingの絵は1月ほどすると、野坂昭如のものと差し替えられたと聞きました。
ぼく自身この「パートナー」というたばこは吸いませんでした。その当時吸っていたのは、「雅(みやび)」というたばこで、これは京都でのみの限定販売でした。
だから、東京に行く時など土産として持って行くと大変喜ばれたものです。
時はまだ高度成長の波の上にあり、本当にいい時代で、Nice day Nice Smokingもおおいに楽しめたのです。
ところで、この『難波金融伝』調べてみると制作は1997年です。このポスターができたのは1980年ですから、17年も経っていることになります。少し不思議に思いました。ちょうど定例のミーティングに集っていたみんなにも聞いたのですが、たしかに掛けられている場所が常時掛かっているとは思えぬ場所です。撮影時に意図的に掛けられたと思われるのです。
専売公社は1985年に日本たばこ産業株式会社に変わっています。だから製作会社が掛けたわけでないといえます。いろいろな推測が出ましたが、これは謎のまま残ったのです。
この写真の背後の山はラトックⅢです。この山は、ぼくたちがラトック1に登った同じ年の1979年に広島のグループによって初登攀されました。この時の隊長であった寺西洋司さんは、すぐそばにあったベースキャンプにやってきて、「高田さんが行くつぎの隊には是非参加したい」と強く言ったのです。そして、2年後のコングール隊に参加し、頂上に向かったまま帰らぬ人となったのでした。
ラトックⅢは9年後の1988年、イタリア隊によって第二登がなされました。
一方、ラトック1は、初登以後36年たった今も登った人はいません。何度も試みられたようですが、全て失敗に終わっているのです。
ぼくが選んだルート、垂直の岩壁という最も困難と思われるルートが、最も可能性があったということなのかもしれません。
一緒に写っているのは、我が隊が雇っていたメールランナー(飛脚)です。彼はベースキャンプとスカルドの郵便局を、普通なら2週間以上かかかる道のりをわずか5日ほどで往復します。
名前をジュマ・カーンといって、各国隊に雇われていて、結構有名な男でした。「プロント、プロント」といったかと思うと「はいこちらベース。どうぞ」などといい、俺は何ヶ国語も喋れると自慢していました。帰りのアスコーレの村では、彼がぼくを家に招待してくれました。
この絵では、ぼくは待ち焦がれた手紙を読み、ジュマ・カーンがパートナーを吸っていますが、やはりNice day Nice Smokinngという感じではないようです。
後ろに黒ヤギが写っていますが、これは食料として下の部落から連れてきた3頭のうちの一頭です。早く食べたいコックが「早く食わないと野生化して山に逃げる」とせっつくので、この撮影の翌日、コックと二人して氷河上で屠りました。
ひとつの映画の画像の片隅の一片の絵が、実にいろいろの記憶を呼び覚ましてくれたものです。