カラコルム・ハイウェイ(一帯一路の道)の旅(1)〜

 令和元年大晦日の夜、ぼくはパキスタンの奥地フンザにいました。
 フンザというのは、カラコルムの深奥部カラコルム山地に、インダス川の支流・フンザ川が切り込んだ源流部にある標高2500mの村です。
 さらに上流に遡るとすぐに、中国との国境のクンジェラーブ峠(4700m)に至ります。
 フンザは日本では、あの『風の谷のナウシカ』のモデルになったところとして知られていますが、それよりもっと昔から欧米ではシャングリラ(桃源郷)として夏には世界から観光客が集まります。
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リモネットの特別メニュー

 一行4名がリモネットに着いたのは、夜半を過ぎた頃でした。
 管理人のジャコミーナに頼んでおいたので、薪は用意されていましたが、ストーブは煙るばかりで全く燃える気配なく、全員燻されて、まるで燻製状態で、全部の窓を開け放たざるをえず、寒さに震え上がる始末でした。
 一応お腹は大丈夫だったとはいえ、ニースからの夜中に開いている道中のお店もなく、何も食べずにここまでやってきたわけです。この寒さの中で、震えながら空腹を抱えて朝まで耐えるのは無理と思われました。
 そういうこともあるかと、買ってきたマツモトの鯖寿司2巻と成田空港で仕入れた細巻き寿司でお腹を満たしたのでした。
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カニ食いに行く(2)

夕日ヶ浦温泉、落日にはまだ時間がある。

 不意の降雪も考えられる。ランチアのイプシロンにスタッドレスタイヤをつけに、オートバックスに行くことにした。持って行ったミシュランのタイヤは劣化が著しいという。ほとんど新品のままなのだが、十年近くもガレージに放置されていたので、それも当然のことだろう。
 タイヤだって老朽化する。こちとらも老朽化しているからやっぱり突然バーストの危険はあるのだろう。あまり気にしないことにして、でも一番気がかりな奴は後輪につけるように頼んだ。
 真ん中あたりが飛んでいた丹波縦貫道はもうつながっており、あっという間に目的地の夕日ヶ浦温泉に到着した。
 廊下の突き当たりから夕日がまともに見えるベランダがあり、これはいい写真が撮れると待っているうちに、空は雲に覆われ、見事な落日シーンは撮れなかった。

 カニの料理は素晴らしかった。写真で紹介することにしよう。
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カニ食いに行く(1)

 先日、丹後へカニを食べに出かけた。
 カニ食いといえばもう二十年ほども前から、越前の厨というところにある「毛利」という民宿みたいな宿へ通い続けてきていた。
 ここへ行き始めたきっかけは、岐阜県の高鷲スノーパークへスキーに出かけたことだった。
 スキーと言えば、五・六十年も前からずっと信州の八方尾根周辺に行くのが常だった。考えてみれば、そんなとんでもなく離れた場所であっても、大学の頃から行っていたから、大して苦にもならず、十時間以上もかけて高速道路もない道を一晩中走っていたのだった。
 ところが、二十年前頃から、そんな遠くまで行かなくても、いいスキー場ができ始めた。

 十分な広さがあり、雪質も悪くないスキー場があれば、高速道路もできて昔よりずっと早くつくとは言え、信州くんだりまで行くことはない。
 というわけで、週末のスキーは高鷲高原ということになった。
 あの時は、先代が満州から引き揚げてきて、この土地を安く買い、開墾したという農家の宿に泊まっていた。
 連日の吹雪で、楽しいスキーもできず、こんなことなら山越えで、越前へカニでも食いに出かけようか、ということになった。
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日本の歴史教科書

 あれはたしか、阪神大震災の翌年のことだったから、もう17年ほど前になる。
 トルコのリゾート・ボドルムに10日間ほど滞在したことがあった。
 ボドルムというのは、エーゲ海に面した著名なリゾートだった。エーゲ海は波静かで、ギリシャはすぐ向こうという感じだった。
 イスタンブールでもそうだったのだが、この国の人たちのノリは、パキスタンに極似していると感じ、このフレンドリーさは多分ムスリム教の所為ではないかと独り合点したりしていた。
 ボドルムで、ジョギングをしようと思い、郊外のショッピングモールに靴を買いに出かけた。
 すぐに見つかったジョギングシューズの専門店に入ると、店番をしていた30歳を超したばかりとおぼしき青年が、ぼくを迎えると、「日本では大きな地震があったでしょう」と尋ねた。
 ぼくも家族も被災地から少し離れていたから、ほとんど被害はなかったんだ、という説明を聞きながら、入り口のドアを施錠した。
 一瞬、ぼくはその意図を計りかね、緊張で身を固くした。
 他のお客が入ってこないようにしたということはすぐに分かった。
 それから、彼はぼくに椅子を勧め、「実は教えて欲しいことがある」と真剣そのものの面持ちで、地震が来たときの逃げ方を尋ねたのだった。
 トルコも地震が多い国なのかも知れないが、日本は地震大国である。しかし、こんなに真剣に、地震の対処法を知りたがっている人はいるのだろうか。
 帰りの道すがらそんなことを考え、確かに違いがある、でもその違いはなんなのだろうか。自分の身を自分で守るということを教えられていない、誰かが守ってくれるだろうという子供のままの考えをもち続けているのだろうか。
 あの時の記憶は、今も鮮明なのである。
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信州から高岡への旅で考えたこと

先日、山の後輩たちが古希を迎えたとのことで、信州で古希の同期会を開くとの連絡があって、家内ともども参加することにした。
この年代が一年生のときから、ぼくは山岳部の監督を務めていた。彼らが3年生になったとき、婚約中のいまの家内を連れて夏の横尾本谷合宿に参加した。このときに起こった傑作な出来事は、『続なんで山登るねん』の<夏の横尾本谷に迷いこんだとんだオジャマ虫>に書いた。
ちょうど10年前の還暦の同期会も、おなじ信州は飯森の上手舘だった。このスキー民宿の主人の久八さんは、ぼくたちのスキーの先生だったという因縁で、大変長い付き合いなのである。
この集まりには、ぼくをはじめ同期ではない上級生も何人か参加していた。
そのうちの一人の後輩と宴会の後での歓談のうちに議論になった。彼は少し特殊な人生を歩んだともいえる男で、大学での山登りを途中でやめ、医者になって日本を変えることに奔走した。〇核というセクトに属し活躍したのだが、夢かなわず北海道に渡り市民病院の副院長を務め終えた後、関西に戻ってきている。
今では、原発廃止運動に邁進しているという。関電の守衛ともみ合うのが生きがいという感じなのである。
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