スイスに行く
最初から予定していたことなのだが、イタリア滞在中にスイスに行くことにした。
来月の北山パーティのメニューの一つ、ラクレットのチーズを買うためである。
イタリアのリモネットのアパートからスイスまでは380kmほどで、京都から信州・白馬にゆくよりやや近いというくらいなのだが、道が空いているからよほど近い感じがする。
以前はクーネオからフォッサノまで走って高速に乗ったのだが、新しく伸びてきた高速にクーネオの近くのクーネオICで入る。ここからは、左右に大きく広がるアルプスの連山を目指して百数十キロで一直線にひた走るわけだが、今回は小雨の天気でアルプスは雲の中だった。トリノをかすめてしばらくすると道はアオスタ渓谷に入る。そしてアオスタインター。ここでなおも直進するとクールマイヨールを経て、モンブラン峠、そしてシャモニーに至る。
このルートは、何回か通っているが、直近では3年前の雪不足の年に大学の友人たちとシャモニーに移動する時に通った。
さて、アオスタで高速を降り右に山腹を登る。5年前に最初に通った時とは、道を間違えたのかと思うぐらいに整備された道路となっている。やがて、斜め左前方にシャモニーからの優雅な山容とは打って変わった醜悪険悪なモンブランが見えるようになり、やがてグレート・サン・ベルナルド峠トンネルの入口国境検問所に至る。
ここで、トンネル通行料だけではなく、高速を走るかと聞かれて、別に高速通行料40ユーロを請求された。ぼくの知る限りスイスの高速道路は無料であり、どこにも料金ゲートはない。費用は税金に含まれていると聞いてきた。どうやら最近制度が変わったらしい。それにしても40ユーロは高すぎると思えた。
お金と引換えに渡されたシールは、窓に貼る日本の車検を示すタグと同じもので12という数字があった。12月までこれで自由に走り回れるということらしい。
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「つれづれ」カテゴリーアーカイブ
サルシッチャのこと
イタリアに来て一番食べたかったのはサルシッチャだった。
何故かといえば日本ではまず食べられないからである。日本でもサルシッチャは入手可能であるし、最近は作り方などのを書いたインターネットのサイトも多い。
でも、生で食べられるものはないし、生ソーセージという表記であっても、それは生ハムと一緒で生で食べることを意味しない。
イタリアでは生で食べるのを普通としている。大変美味なソーセージである。
イタリアでも生で食べられるのは限られていて、お肉屋さんで売っているものは大丈夫であるが、スーパーなどでスチロールプレートに入って売ってあるものは、焼くなり湯がくなりしないと駄目である。
そういう調理をすると、まったく違った味になってしまう。
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映画「蜂蜜」を観る
日暮修一氏の訃報を聞いて
小学館に勤める知り合いがFacebookで日暮修一さんの訃報を伝えてくれた。
日暮修一といえば、ビックコミックの表紙絵で有名な画家で、『なんで山登るねん』の三部作、正・続・続々の三冊の表紙の絵も彼の作である。
正編が出るとき表紙の絵を頼みに行った山渓の節田さんから、値段を聞いたらえらく高かったので「すみません。お願いします」と手を合わせたら、一気に10万安くなりました、と聞いた。この表紙絵代金は印税から差し引かれるということだった。だからその原画は後に貰ったはずで家のどこかにあるはずだ。原画と言えば京都新聞に連載した『いやいやまあまあ』の挿絵を描いた山本容子さんのエッチングの原画も一枚だけ頂いた。これも家のどこかにあるはずだ。
日暮修一さんに会ったことはない。節田さんから脚が少し不自由だとか聞いたような気もするけれど、全く別の人の話だったかもしれない。
どんな人だったのだろうと、気になってグーグってみた。「日暮修一の画像検索結果」をみると、彼の作品が多く上がっていた。
おっと驚いた。知ってる写真があった。それは『Oh!PC』1985年新年号の表紙で「ボクの夢のパソコン」という特集が組まれているものだった。ぼくも「パソコンが作家になる日」と題するエッセイをものしている。さらに驚いたのは、この写真に続いて「パソコンが作家になる日」の挿絵があったのだ。
へぇ〜、あの挿絵は日暮さんのものだったのか。描いた人の名前の記載はなかった。あれば絶対に気付いていたはずである。日暮さんはあのビックコミックの表紙みたいな絵だけではなくて普通の絵も描いていたのだ。全く知らなかった。長い間知らなくて申し訳ないような気になってきた。
そこで、このカットを含んだぼくのエッセイ「パソコンが作家になる日」を<高田直樹ウェブサイトへようこそ>から転載することにした。
アホな翻訳ソフトのことなど
きょうの6チャンネル「モーニングバード」、もちろん録画で、を見ていたら笑ってしまうニュースを報じていた。
国土交通省・観光庁が開設管理するHPの観光博外国語版に数多くの珍奇な誤訳が見つかったという。
冒頭の部分の<ブルーメッセあきた>(これは道の駅の施設名)は、なんと「ブルーメッセ飽きた」Blue Messe got tiredとなっている。
「(石川)啄木」はwoodpecker(啄木鳥)。「軽トラ」はlight tiger(軽い虎)。
凄いのは、「かまくら行事」が、Mosquito event to use as a pillow(枕に使う蚊の行事)、えぇーと驚いた。
でもこの分解力はなかなかのものである。か・まくら・行事と分解した訳である。それで、急に思い出したことがある。昔話になるのだけれど、最初にぼくが作った営業用のソフトは、東山の有名料亭の献立管理ソフトだった。このソフトでは、懐石の献立を入力する。
この作業を手伝ってくれていた傍らの女性が、とつぜんけたたましい笑い声をあげた。その適齢期を過ぎんとする女性が「松葉かに蒸し」を出すべく「まつばかにむし」と入力したら、そのフロントプロセッサーは「待つ馬鹿に無視」と変換したのだ。もしかしたら、彼女は自分のことを笑われたと思ったのかもしれなかった。
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ギルギットの騒動について

ギルギット・セレナホテル
ギルギットで宗教対立が激化し、外出禁止令がしかれたという。そのため、日本人旅行者は素敵なホテル、ギルギット・セレナに足止めされたらしい。
そこからフンザ河の上流50kmのフンザ(カリマバード)は、まったく影響はなかったはずだ。なぜならフンザは、シーアやスンニ派ではなく、イスマイリー派というシーアよりもっとマイナーな宗派の本山である。
このイスマイリー派は、大変フリーな宗派で、女性はブルカをかぶる必要はなく、お酒も飲んでもいい。形式ではなく心根だという教理である。
フンザには、葡萄や桑の実が取れるので、たやすくお酒が出来るのだ。ウルドー語ではお酒のことを「シャラーブ」というが、フンザでは「フンザパニー」つまりフンザの水という。 それはともかく、このギルギットの宗派対立というニュースを聞いたとき、なんともいえぬ違和感をぼくは覚えた。
かなりのパキスタン通を自認し、あちらではアダームスリム(半分回教徒)といわれるぼくは、パキスタンで宗教対立などという現象を実感したことは全くなかったからである。
たしかに、テロはかなり頻繁に発生していると言える。しかし、それは宗教対立が原因ではない。反米であったり反政府であったりの行動であると思う。それが、こともあろうにギルギットで起こるとは。
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『マンボウ最後の家族旅行』
斎藤ドクターの奥様・斎藤喜美子さんから、北杜夫さんの絶筆を含む新刊の本『マンボウ最後の家族旅行』(実業之日本社)が送られてきた。
『月刊ジェイ・ノベル』に掲載されていた連載エッセイ「マンボウ夢草紙」と「妻・斎藤喜美子が語るマンボウ家の五〇年」に、斎藤由香さんの「父が遺したユーモア」を加えて一冊としている。
奥様の喜美子さんとは、あのディラン峰遠征の翌年の1966年の夏、比叡山上の集会で会って以来会ったことはない。大変美しくて、明るく快活な人でだったという記憶がある。
その頃は、『楡家の人々』が書店に平積みされていた。奥さんは問わず語りに「大変なのよ。わたし本屋さんを回って、人の目に触れるところに位置替えしたりしてるのよ」などとおっしゃっておられたのを憶えている。
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『なんで山登らへんの』の転載を終えて
『なんで山登らへんの』の転載を終えて
23回に亘った『なんで山登らへんの』の転載が終了した。
この記事は1996年から97年にかけて、〈山と渓谷〉誌に連載したものだった。
山渓連載の記事はいつも、終了後すぐに単行本になっていたのだが、なぜかこれは例外だった。
1996年とか97年といえば、いまから15年前になる。ぼくが高校教師を止めたのが、1990年。
当時の世界の状況を見てみよう。
80年代に入ってドルの信用低下に不安を覚えた先進五カ国は、円高ドル安に誘導する為、アメリカ・ニューヨークのプラザ・ホテルに集まった。この1985年のいわゆる「プラザ合意」によってドル安円高が起こり、これを防ぐべく日本政府がうった過度な対策の結果、バブルが発生した訳だ。
でもこうしたことは、後になってわかる訳で、その当時はそんなことはなにもわからず、54歳のぼくは、宮仕えを止めて自由の身になってなんとなくおおはしゃぎ。円高のうまみを享受しながらアメリカヨーロッパと渡り歩いていた。
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僕にとって、山は人生の最高の学校でした(1997.3.1)
なんで山登らへんの 最終回 1997.3.1
体験的やまイズムのすすめ


ぼくはいま、岐阜と長野の県境にある御嶽山のスキー場に来ています。
昨年の暮れ、例によってニセコの初滑りに出かけ、あまりの快調さに悦に入っていました。
新年会で「新雪が最高だった」としゃべったら、みんなが「いこう」「いきましょう」と一気に盛り上がったのでした。
宴会は、昼過ぎの祗園のとり鍋で始まりました。夕方の二次会は伏見の寿司屋に移りました。夜半近くの三次会は京都駅近くのホテルのバーで、人数は15人ほどになっていました。このときになって、スキーの話が再燃したのです。2月に入らないと休みが取れないという者と、それまで待てないとする人がいて意見が割れています。
「どっちも計画して、行けるもんが行ったらええやんケ」
と、ぼくがいったので、そういうことになったようでした。
教え子で市会議員のカメさんが、「2月なら信州の別荘が借りられる」といい、場所は自動的に決まりました。八方か五竜遠見スキー場で滑ることになります。
1月の方をトッツァンに頼まれたぼくは、インターネットを見て回り、八方より近場で雪質が良く、新雪も楽しめそうなこのスキー場を探し出したという次第なのです。
ぼくがインターネットから打ち出した宿のリストを片手に、トッツァンは順番に電話して訊いています。
「あのう、盲導犬は連れてゆけますか」
盲導犬が許されるなら、もしかしたらビータスも同伴できるかも知れないとぼくがいったからです。結果は、全て駄目だったようです。答えの中には「身障者は困ります」というようなのもあったそうです。
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憧れの小屋泊り縦走で出した、ぼくの答え(1997.2.1)
なんで山登らへんの 第22回 1997.2.1
体験的やまイズムのすすめ
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縦走というのは、山頂と山頂をつなぐ山登りの方法です。
ヨーロッパの高山、ヨーロッパ・アルプスの場合、縦走はより難しく、だから初縦走が行われるのは、それぞれの頂の初登頂が行われた後のことだったようです。
日本の高山、日本アルプスでは、氷河はなく、樹林限界を抜けたばかりの山なので、初登頂などということは、日本登山界の記録以前に行われてしまっていました。
奈良時代に伝えられたという修験道の行者は、燃えるような宗教心を持って、日本アルプスの高山の頂を目指しました。さらにはもっと以前から、そこアルプスの山域は衿羊や月の輪熊あるいは野兎を狩る猟師たちの活動の場でした。
3000m近い連山の峰々を辿るというような山登りは、山頂近くまで樹木があって可能だったといえるでしょう。
もう40年ほども前、ぼくが大学の山岳部に入った時の顧問のガメさんは、今西錦司の先輩だったという名物教授でした。彼は、ぼくの北アルプス縦走計画を見て、
「縦走か。そらええわ。わしら昔はなぁ、おめぇ。あのへんは行ったり来たりで、山の上になん週間も居座っとったもんや」
「食うもんヶ、そんなもんおめぇ、人夫にゆうたら味噌やら米やらなんでも麓から担ぎ上げて来よる」
日本の山では、3000mの稜線といえども、這い松の下に潜り込み、油紙をかぶっただけで、雨露をしのげたのだそうです。
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