黒部峡谷の石球

 老人は追憶の世界に生きるなどと言われるが、そういう話ではなくて、時々なんの脈絡もなく昔のことや情景が突如フラッシュバックしてくることがある。
 その時、ぼくは大きな岩の上に座り、手にはピンポン球くらいの見事な石の球を手に乗せていた。
 ここはどこだ。俺は何をしているのか。
 そこは、黒部峡谷は上の廊下の河原で、高さ3メートルはあろうかという大きなボルダー(大石)の上にぼくは座っていた。
 その時ぼくは、上の廊下から祖父沢の出会いを目指している途中で、夕暮れ時に夕食用のイワナを釣りに出かけたところだった。大きな淵があってそれが浅瀬に向かう粗砂利の斜面あたりには、大きなイワナが8匹ほど見事な編隊をなしていた。イワナたちは頭を上流に向けたまま綺麗な隊列を組み、右に左にと悠然と移動しながら遊弋を続けていた。
 後ろから近ずいたぼくは、最後尾の一匹の尾ひれの右下あたりに黒い毛針を打ち込んだ。イワナはすぐ反転して毛針を追い、飛びつくのとぼくが引き抜くのとは同時で、大イワナは高く空中に舞った。
 こうした場合、こんな風に最後尾から釣らないと全部を手にすることは無理なのだ。もし、前の方の一匹を釣り上げたとすると後の奴らはもう毛針を見向きもしなくなる。引き抜かずにもがかせでもしたら、みんな大慌てで深みに散ってしまうのだ。どうやら「痛い。痛い」わめくらしい。
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Nice day, Nice Smoking(ナイスデー、ナイススモーキング)

左側のポスターに注目!

『難波金融伝 ミナミの帝王 待つ女』の後半のある喫茶店の場面。左側のポスターに注目!

 録画しておいた「難波金融伝ミナミの帝王劇場版10待つ女」というのを、見ていたらびっくりするようなものを見つけたんです。
 それは、ぼくがモデルになっている日本専売公社の広告ポスターでした。
 このポスターが、こんな感じに映画に現れるのは、これが最初ではありませんでした。もうずっと昔のことですが、たしか『たんぽぽ』だったと思うのですが、ドライブインの壁にかかっている画面がありました。
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御嶽山噴火で思うこと

木曽の御嶽さん

木曽の御嶽さん

 木曽の御嶽山が噴火した。多くの登山者がなくなった。
 他の多くの山と同じように、御嶽山も休火山で噴火してもなんの不思議もない。
 しかし御嶽山が突如猛烈な噴煙を吹き上げることを予想する人はほとんどいなかったのではないだろうか。ぼくは御嶽山には登ったことはない。一度御嶽スキー場に行ったことがあるだけなのだが、その時も噴火するかも知れないなどとは考えもしなかった。
 噴火の当日は、休日で多くの登山者が御嶽山に向かい、噴火口の近くで、お昼の昼食を楽しんでいた時に爆発が起こった。吹き上げられた噴石の直撃を受けることで致命的な負傷をしたり、あるいは動けなくなって降り来る火山灰で窒息し、あるいは噴煙に含まれる硫化水素による中毒などで多くの登山者が死亡した。
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『なんで山登るねん』は差別文書だった

『なんで山登るねん』表紙

ヤマケイ文庫『なんで山登るねん』表紙

こんど「ヤマケイ文庫」から『なんで山登るねん』の文庫本が出版されることになった。
『なんで山登るねん』が初めて単行本になったのは1978年3月のことだった。その後、版を重ねたが、2002年には河出書房新社から文庫本が出た。
今回の「ヤマケイ文庫」出版までに36年が経過しており、かなりのロングセラーといえるだろう。
36年の間には、この本に関しては色々のストーリーがあったのだが、そのうちの一つを紹介する事にしよう。

この本は、山と渓谷社の月刊誌『山と溪谷』の3年間の同名タイトルの連載をそのまま単行本にした物だった。連載中より若者読者から圧倒的な関心をもたれていたようだ。こんな話を聞いたことがあった。
ある人が夏山の帰り、富山駅前の喫茶店に入ったという。すると、そこに数人の高校生が口角泡を飛ばして猛烈な勢いで激論を戦わせていた。何事かと思って耳を澄ますと、『なんで山登るねん』の内容についての議論だったということだった。
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アフリカ発祥の人類は弱い集団が周辺に逃げることで地球上に広がった

東京に来て一週間ほどが経ちました。
来た頃は、これはいつものことなのですが、地下鉄に乗っている時なんともいえぬ不安を感じます。
今地震が起こったらどうしよう。とりあえず地上に逃れたとして、どっちに逃げたらよいのか、まったく分からないのです。
でもいつものように、これも一・二日で慣れてしまって、なんとも感じなくなったようです。
何年も来ていなかったので、いろいろ会いたい人があり、旧交を温めているうちに日が過ぎました。

mackinly30今回の上京の主目的は明治大学で行われた「マッキンリーから30年 植村直己を語り継ぐ」という集まりに参加することでした。別に先頃『なんで山登るねん』の文庫本化の話が山渓からあり、赤を入れたゲラ刷りの第一稿を送ったばかりだったので、第二稿を受け取りがてら寄って見るつもりでした。
明治大学には「リバティー・タワー」という23階のビルがあって、上記の会はこの8階で催されました。二百数十人収容のホールで少しの空席もあったから、たぶん150人くらいの参加者だったのではないかと思いました。
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出てきた昔のエッセイ「百名山ブーム」

涼しくなってきたので、ようやく書架の整理を始めた。
なけなしの退職金を投じて建て増しした書庫棟は三方が高天井までの書架になっていて、ぎっしりと本が詰まっている。しかしそのほとんどが、もう何の役にも立たないものなのである。一方を埋めるコンピュータ関係の英書は、パラパラページをめくると、それなりの感慨を催すだけの代物となっている。
雑誌に関しても、コンピュータ、PC関係のものとMAC関係のものだけでも膨大な量で、これに山の雑誌が加わる。
頑張って整理などしなくても、ボックリくたばったら、息子か孫がひどい男と罵りながら片付けるだろうと、不逞な考えを抱かぬでもなかった。しかし、最近やたらにネット購買した本が増えだした。これを収めるスペースの必要を感じたというわけである。
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我が家のブナの樹の物語

たぶんそれは、ぼくがまだ30歳になっていなかった頃のことだったと思う。
親父が、シラビソの樹が欲しいのだが、手に入らぬだろうかと尋ねた。庭に植えたいのだという。
シラビソというのは、ぼくの知る限り、北アルプスの2000メートルあたりに生えている、クリスマスツリーの樹で、そんなものが、田舎の家の庭に育つとは思わなかった。
シラビソは、ぼくたち北アルプスを歩き回るものにとっては、たいへん親しみ深い樹なのであった。
たとえば、夏山で有峰から薬師岳を越えて剱岳まで縦走しようとすると、薬師の樹林限界を抜けるまで、薬師を下って、上の岳から五色が原に至るまで、ずっとこの木々を見ることになる。
雪山では、その根っこは必ず枝の間が空洞になっており、非常時のビバークに都合よい場所を提供してくれるのだった。

シラビソの樹

シラビソの樹


大辞林によると、しらびそは白檜曾などと難しい漢字を用いている。
マツ科の常緑高木。本州中北部の高山に群生し、高さ20メートルにも達する。樹皮は灰白色、葉はモミに似るが、短く密につく。雌雄同株。6月ごろ開花し、まつかさに似た実がつく。材は建材・パルプなどに利用する、とある。
ぼくは、山岳部の後輩で、山に近いからと富山県県庁の林務科に就職したヨシユキに頼んでみることにした。彼が、有峰の事務所に配置されたことを聞いていたからだった。
彼は快諾してくれたが、しばらく時間がかかるといった。この時、ヨシユキはその木のことを「オオシラビソ」と呼んでいた。ぼくもそのままの口移しで、オオシラビソと言ってきたのだが、シラビソとオオシラビソは同じなのか違うのか知らなかった。いま、ネットで調べると、同じものともいえるが、同じではなかった。
シラビソは、主に太平洋側の雪の少ないところに生育するが、オオシラビソは日本海側の雪の深いところに生えるという。
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<延槻(はひつき)の河のわたり瀬あぶみ漬かすも>

早月尾根と早月川

早月尾根と早月川、その先に富山湾がある

突然、高校山岳部員だった教え子が、おそらく20年ぶりくらいに電話してきて、「劔のことを教えて欲しい」といいます。
なんでも、2人で劔に行きたい。小窓の王へはどう行ったらいいのか、と訊きます。尋ねても、「北の方の尾根からいきたのです」等というだけで要領を得ません。
「小窓尾根から行こうと思ってるの?」
「そこはザイルは必要ですか」などと言っています。
そういう要領を得ない問答を繰り返して、ようやく彼が早月尾根を登って池の平に抜けようとしているということが分かりました。
一緒に行くのは、5年ほど前から山を始めた素人だといいます。
「無理や。早月尾根は一般コースと言ってもいいけど、劔山頂から三の窓はコースじゃないよ。その先池の平まではもっと大変。止めた方がいい」
結局、弥陀ヶ原から劔沢を下って、二股経由で池の平というコースに決まりました。「近いうちに伺いたいと思っていますのでよろしく」ということで、電話が終わりました。
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Wikipediaに「ラトック」を載せる

Latok1

Latok1



先日、中村亘くんが「Wikipediaにラトックの英文は上がっているけど日本語はありませんね」といい、掲載を薦めてくれた。英文のWikipediaのURLがメールで送られてきたので早速翻訳してメールで送った。
ラトック山群は、カラコルムの3大氷河の一つビアフォ氷河の支流・バインター・ルクパル氷河の奥に聳える岩峰群である。Wikipediaには、「全ての峰はその極端な技術的困難さにおいて特筆すべきであり、世界中の高々度における、どこよりも厳しい登攀がなされてきた」と述べられている。
 そこでは困難であるだけに多くのドラマがあったといえる。
ぼくが、この山群に注目したのは当時山登りの高級誌であった「岩と雪」25号に、そのとんでもなく華麗な岩峰と岩壁が掲載されたのを目にしたときからだった。
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東京裁判~欺瞞の歴史~(2)

 アルジェリア人質事件は、たいそう痛ましい結末を迎えました。この事件でも、私たち日本人は、この国がほかの国とは大きく異なっており、大変特殊な国であることに、否応なく気付かされたのではないかと、ぼくには思えます。

 今日の「モーニング・バード」では、ゲストの上智大学の私市正年教授が、次のようなコメントを述べていました。
 「言っておかねばならないことは、日揮にかぎらず、日本のビジネスマンがアルジェリアでどれだけ貢献してきたか、70年代は4000人以上の人々が、アルジェリアに滞在して、まさにアルジェリアの国家建設は、日本人が行ったと言っても過言ではないのです。アルジェリアの人も大変感謝しているんです。」

 これを聞いて、ぼくはインドネシアの独立を助けた日本の帝国陸軍のことを思い出しました。これは前項に紹介したとおり、「日本人は<アジアをアジア人のものに取り戻そう>と、すなわちアジア全体を西洋の植民地主義者から開放しようと、決意していた」という歴史学者レーリンク博士の主張の根拠の一つとなったものです。
 日本軍はインドネシアからオランダを追い払い、インドネシア国旗の掲揚と国家の斉唱を解禁しました(1944年9月)。翌年には、スカルノなどが独立宣言するのを助け、これを承認しました。
 あとに続いた独立戦争には、軍籍を離れた2000人の日本人(軍人と軍属)が最前列に立って戦い、半数の1000人がこの戦いで命を落としました。
 独立戦争は4年間続き、80万人のインドネシア人が殺されたところで、アメリカが間に入って、オランダに植民地放棄の代償として60億ドルを支払うという条件で、独立が承認されたのです。
 そして、もっとすごい条件が付いていました。それは、「アジア解放に殉じた日本」を消し去り、代わりに「残虐な侵略者日本」を残すこと。この2つの条件を、スカルノが呑んだので、独立が承認されたのです。日本を弱体化させようとしたのは、GHQではなく、それはアメリカをはじめとする連合国の国是ともいうべきものだったと言えます。
 こうして、ジャカルタに建てられた独立記念塔には、オランダ人の過酷な植民地支配の記録は一切なく、代わりに、日本軍が資源や労働力を搾取したことが記されることになりました。さらに独立の戦いも対英蘭軍ではなく、対日本軍の戦いに置き換えられているのです。
 かてて加えて、恩知らずにもスカルノは日本に戦時の蛮行の賠償を要求し、日本は国家予算の三分の一に当たる莫大な賠償金を支払うことになりました。
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