偉大なるお化け塚本珪一さんの逝去

 塚本さんがお亡くなりになった。
 コロナ禍の所為もあって、会う機会も無くなっていたから気になっていた。昨年10月東京の娘のマンションに数日滞在した時、急に塚本さんと話したくなった。塚本さんとはかつて何度も東京に一緒したことがあったからかも知れない。新幹線の中で、「京都にこもってたらあかん。やっぱり東京や」そんなことを何度か聞いた。 電話には奥さんがお出になったが、元気にしておりますということだった。その対応がなんとなく素っ気なかったのが少し気になった。
 今年の2月だったと思うのだが、井川くんと電話で話した時、尋ねてみたら「去年の夏に写真展をやらはって、その時に会っただけです。元気でしたよ」ということだった。

 塚本さんは山岳部のOB 会である府大山岳会の初代会長で、ずいぶん長い間その役を務めておられた。
 ぼくが山岳部に入った時には、山岳会はなかった。2年生時の春山で起こった遭難事故を契機に山岳会が結成された。対外的な対応において、規約を持った組織があることの必要性が初めて実感されたからだと思われる。
 剱岳西面の東大谷における7月の遺体発見までの度重なる捜索活動の結果、我が山岳部は、「あそこには近寄るなと死んだ親父から言われている」と地元の猟師でさえ二の足を踏む危険で未知な東大谷を最も知悉する山岳部となったのである。
 その頃、日本は登山ブームに沸いており、世界の国々は八千メートルの未踏峰を目指し、ヒマラヤ・オリンピックなどと言われる中で日本はマナスル初登頂に成功した。
 60年代に入り、日本は高度成長の波に乗っていた。普通の海外旅行は許されない状態ではあったが、日本中の山岳団体や山岳連盟は海外登山を目指していた。

 京都府山岳連盟は、カラコルムのディラン峰の登山許可を得ることに成功した。塚本さんは副隊長になることが決まっていた。若いぼくは連盟とはなんの関わりも持たなかったが、春山で一緒だった尾鍋、藤井両先輩などから情報は得ていた。
 隊員の募集が行われ、ぼくは申請書を書いた。そこには登山歴や特技などの項目があった。ぼくは、剱岳東大谷G1厳冬期初登、京都府教職員陸上競技大会1500メートル、10000メートル優勝、特技英文タイプなどと記した。
 遠征隊では、英文の書類が必要で、英文タイプの技能が必要とされることを知っていたので、ぼくは密かに我流のタイピングの練習をしていた。
 ある時、塚本さんが突然声をかけてきて、「タカダ、英会話を一緒に習わへんか」と誘った。ぼくは「隊員選考はすんだんですか」と訊いた。「まだやけど、行くことになったら必要やろ」
 ぼくに異存があるわけはなく、二人は平安高校のロシア生まれの老人の英語の先生から日常会話のレッスンを週1回受けることになったのだった。数ヶ月して、その英語の先生の訃報が新聞に載った。路上で突然死したという。あるレッスンの後、教室を出て校舎の薄暗い廊下で、突然先生が倒れ、助け起こしたことを思い出した。高齢だったのだろう。なぜか心が痛んだ。

 新幹線の運行が始まり、名神高速も開通した。ぼくは教え子のフェア・レディを借り受け、高速道路を爆走して悦にいっていた。
 その頃、塚本さんが声をかけてきて、「タカダ、パキスタンに一緒に行ってくれへんか。ワシ遠征の予備調査に行くことになったんや」
 今度は隊員になったんですかとは訊かなかった。すでにぼくは減点ゼロで隊員選考にパスしていることを知っていたからだ。ぼくは「考えさせて下さい」と答えた。正直ぼくはあまり気が進んでいなかった。付き従い身の回りの世話をするのなどとても無理とも思えた。二回もゆくこともない。そんな気がした。今にして思えば、これは最大の失敗だった。何度でも行くべきだった。
 ぼくは、ぼくより部員の上田純三を連れて行ってやって下さいと頼んだ。彼は平安中学卒で塚本先生の教え子でもあった。この経緯があって、上田君は遠征隊員となることができたのだった。

 塚本さんはいつも物静かで激しい口調で喋ったりするのを聞いたことはない。遭難事故の時や遠征の時も相当長い期間一緒だったはずなのにあまりはっきりした記憶がない。いつも議論の外にいて、請われた時だけまとめを淡々と述べる態だったと言えるだろう。
 すぐ上の先輩が、彼のことを「あれはオバケや」と言ったことがあった。「エッ」と驚いたぼくは、「なんで」と訊いた。「そらお前、オバケやしオバケなんや」
 一体なんのことやら訳がわかったようで分からなかった。話はそれで終いになった。この先輩はよくそういう突飛なことを言う癖があった。ある時、京大の山登りのことを、あのコジキ集団と断じた。「なんで」と聞くと、「そらお前、あんな連中、会社の金せびって山行きよるんやろ」

 ディラン峰遠征が公表され、隊員が発表された。すると新聞記者が家に取材にやってきた。今では考えられないようなそんな時代だった。連盟の加盟団体のいくつかから一名が普通なのに府大からは4名が入っており、批判があったと聞いた。
 装備担当を担うことになったので、塚本副隊長の家を訪れることもあった。彼の書斎はこじんまりした部屋で長椅子と机、周りをぐるりと書棚が囲んでいた。
 遠征が終わって数年経った頃、ぼくは家内と一緒に年子で生まれた娘と息子を連れて、塚本家を訪れたことがあった。よちよち歩きの子供二人はじっとしておらず、小さな書斎を歩き回った。真ん中にある机の縁がちょうど頭の高さだった。頭がぶつかりそうになると、塚本さんは素早く腰を浮かし、掌で縁を覆った。何度も何度も繰り返し、そうされるので、ぼくは「ほっといて下さい。ぶつけたら痛いと言う学習ですから」といった。でも塚本さんはぼくを無視して、縁を覆う動作を繰り返し続けたのだった。
 塚本家訪問でもう一つ覚えていることは、帰る時いつも、門のところまで見送ってくださった。これはぼくも見習わねばと思い、教え子などがきた時にはそうしていたが、数年のうちに面倒くさくなって止めてしまった

 塚本さんはクライマーではなかった。ぼくが知る先輩方は、農専(農業専門学校)出身の人がほとんどだった。終戦による学制改革で新制大学に組み込まれることになった訳だ。
 そうした先輩の中でコヤマさんという物凄い攀り屋がいた。とても強引で危険な登り方をするので、ぼくの師匠のオガワはんは「あいつの真似はするな」といつも言ったものだ。
コヤマさんは塚本さんのことを「攀れぬ登山家」と言っていた。そういえば、塚本さんが岩を攀るのを見たことはなかった。
 塚本さんは山に登るために山登りを初めたのではなく、昆虫を採集するために山へ登ったのだった。だから山登りに命をかける人たちを冷めた目で見ていたのかもしれない。
 当時、伝統的な極地法という登山手法をとる大学山岳部に対し、新興の社会人山岳団体は、アルピニズムなる旗印を掲げ極めて冒険的な登攀を実践していた。
 塚本さんはそうした動きにはあまり関心を示さなかった。最先端の登山誌とされる『岩と雪』に「登山は個人に属すべきである」という論考を発表し、かなり話題を呼んだ。『岩と雪』が廃刊となってかなり経ってから優れた論考を集めたものが出版されたが、その中に塚本さんの「登山は個人に属すべきである」は入っていなかった。しかし、この短い文節の中に塚本さんの考えが凝縮されているとぼくには思われる

 ディラン遠征に加わった人たちは帰国後、コタニ隊長を会長として京都カラコルムクラブを作った。これはぼくにとってとても便利な組織で、その後のぼくが組織した遠征隊の頭に乗せる組織名に利用することができた。
 このクラブの会合でぼくが激しく塚本副隊長に突っかかったことがあった。
 隊のドクターだった北杜夫氏は、のちに『白きたおやかな峰』を書いた。この小説を映画にする話が松竹で持ち上がり、監督は篠田さんとか。ぼくたちは、現地ロケがあるそうだから、もう一回行けるぞ。今度は登頂しようなどと勝手に盛り上がっていた。これに関して、タカダは入れないと塚本さんが言ったという話を聞いた。若いぼくは激昂して、激しく問い詰めた。塚本さんはそんなこと言った覚えはないと一言言っただけで沈黙したままだった。
 「府大の内輪揉めは別のところでやって下さい」と言うコタニ隊長の一言で、この話は終わった。映画化の話は松竹城戸社長のOKが出なかったようで立ち消えた。それ以後塚本さんとこのことについて話したことはない。
 塚本さんは本当に空気のような寛容の人だった。突っかかっても手応えはなく気付かぬまま包み込まれてしまっている。やっぱりオバケか。偉大なお化けだったのかもしれない。

竹田研究会に参加して

 先の土曜日(6月17日)久しぶりに竹田研究会に参加してきました。
 竹田研究会は全国に17有って今回のは正確には京都竹田研究会です。近畿地方には大阪・京都・奈良・兵庫の四つがありまして、ぼくは兵庫を除く3つに登録されているので、開催されると連絡がきます。
 今調べてわかったのですが、竹田研究会ができたのは2008年です。ぼくが入会したのは、公式ページによると2013年3月19日となっています。ちょうど十年前で、ぼくは結構古い会員のようです。 続きを読む

野生鹿を組み伏せた話

 コロナ禍が始まってう、何十年もずっと続けてきた年2回の「いやさか会」も中止になり、郷里の「るり渓」へ帰ることがないままこの何年かが過ぎた。
 学齢期まで祖父母と3人で過ごした山深い谷間のあの故郷を思い出していると、突然なぜかあの「鹿捕り」のことが浮かんだ。

 あれは確か中学三年生の時だったと思う。冬休みの休暇で、ぼくは田舎に帰っていた。その時、ぼくは村の幼馴染で同い年のさとっちゃんと二人だった。なんでだったか分からないけれど、ぼくたちは田んぼの畦道を歩いていた。
 すると遠くから、犬の鳴き声が聞こえてきた。それもあの独特の鳴き声だった。「ウォン、ウォン」と連続した声で、それは犬が獲物を声だった。

 湊川の合戦の落武者の部落だというその村は、有名な文人大町桂月が名付けたという美しい渓流「るり渓」の下流にある。川を挟んで南北の山腹に藁葺き屋根の民家が点在するこの寒村は大河内村と呼ばれる。この村で一番高い場所にむかし庄屋だったという家があった。それは江戸の天保年間に建ったという古い家だった。
 ぼくはこの家で、満一歳から学齢期までを祖父母に育てられた。その理由は明かされることはなかったが、父親が武将の子供は母親から離して育てるべきとの考えだったいう話を聞いた気もする。

 祖母の話では、山羊の乳と卵黄と重湯だけで、育てたという。
 這い回れるようになったぼくは、転げ落ちる危険を避けるため長い紐で大黒柱に繋がれていたという。
 ほとんど毎日のように村の二人の娘が子守にやってきた。多分中学生だったと思われる。その名は、「しぃちゃん」と「すえちゃん」といった。
 話が大きく逸れてしまったが、ぼくは「しぃちゃん」におんぶされて、村の川に飛び込んだ山の鹿が仕留められるのを多くの村人と一緒に見た記憶があった。

 この山村では、時折、猟犬の獲物を追う鳴き声が、谷間を縫って響き渡ることがあった。漁師に追われた鹿が平地の田んぼに飛び出したのである。鹿の走るスピードは大変早く、滑らかな線を描くように一枚の田んぼを二跳び三跳びで越える。「ウォン、ウォン」とそれを追う猟犬がとても追いつけるものではない。
 川沿いに長く東西に伸びた田んぼを飛び越して西へ東へと逃げ続けた鹿もやがて持久力が尽きてくる。体が焼けた鹿は、川の水に身を浸し、追いついた漁師の銃で仕留められるのである。

 猟犬の鳴き声に気づいたぼくが、そちらを見ると、一頭の鹿がこちらに向かっていた。そこは川の北側で、細長い棚田が連なっている。
 ぼくは、一段下がった細い道におり、ちょうどそこにあった、腕ほどの細さの稲木を手にして身を屈めた。棚田は細長く、鹿が来る場所は容易に予想できた。
 鹿がぼくの頭上に迫った瞬間、ぼくは棒を伸ばし体重をかけて押し倒した。鹿は道に倒れぼくは首に当たっている棒に渾身で体重をかけた。鹿は「メェー」という山羊のような叫び声をあげてもがいた。
 漁師の「退け、どけ」という声と、顔の近くに村田銃の銃身が見え、ぼくが立ちあがろうとした時、「ガァーン」と大音響がして、耳がキーンと鳴った。漁師が何か叫んでいたが、何を言っているのか全く聞こえなかった。

 家に戻り、祖父にこの出来事を話した。祖父は、それでお前は何も聞かなかったのかと尋ね、「別になにも」とぼくは答えた。すぐに出かけた祖父は、やがて、藁にまいた鹿の後ろ足一本を担いで戻ってきた。助けたのだから分前をもらって当然だと言った。
 その夜、鹿肉を食べたに違いないのだが、鍋だったのか、焼き肉だったのか、全く記憶にない。
 しかし、あの握った稲木にかけた渾身の力とその下でもがく鹿の鳴き声は鮮明に今も残っている。


マスクと日本国

5月に入り、コロナも5類指定となるそうです。でもこれも変な話で、何を今更という気がします。もっともっと前に、2類指定を止めますといえばそれでよかった。そう思います。
でも、そうできなかった理由があるというのです。そういうのは、テレビ『そこまで言って・・・』にもよく出ていたあの京大ウィルス学者の宮崎孝幸准教授です。彼によれば、ーーコロナウィルスとワクチンの最終結論として最も伝えたいのは、今回のコロナウィルスのパンデミックは「人為的に仕組まれた」国際的なバイオテロだった可能性が高いと考えているということです。ーー(月刊誌『will』5月号「人為的に仕組まれたバイオテロだ!」103ページ)
彼によれば、政府によるワクチン推奨はそんな「プランデミック(仕組まれたパンデミック)」にまんまと乗せられたのではないか、というのです。上掲の『will』誌には「コロナ利権の闇 扇のカナメはアンソニー・ファウチ」(筑波大システム情報系准教授掛谷英紀)という稿もあって、まるでマフィア集団のような状況が明かされています。
わたしたちも、ようやく少々おかしいなと気づき出したのかもしれません。
とにかく、この3年間の間に、医者の実態、科学者の有様がよりあからさあまに現れることが多かったのではないでしょうか。

このチャイナ発祥のコロナ・ウィルスは、全盛のグローバルの波に乗ってあっという間に大パンデミックを引き起こしました。世界中の国々が対応を迫られました。その中で、唯一特別な対応を示した国がありました。それが我が国日本です。
日本は、各国政府が自由と民主主義に反するとも言える独断的対処を行う中で、全てにおいて人任せの対応をとりました。皮肉を込めて「自由と民主主義」を守り切ったと言えるのかもしれません。
オミなにがしとかいう全く無能とも見える男を頭に据えた「専門家会議」なるものを作り、対応を任せました。政府がよくやる有識者会議に類するもので、まともな指針などは作れなかったと思います。データに基づいた科学的見地が示されることなどなく、「よく分からないのですが・・・」などに始まるいい加減なメッセージを発するのみだったと思います。でもそれは、有識者会議の特徴そのままだったとも言えます。

「自由と民主主義」、これは第二次世界大戦後の日本に持ち込まれてきたものです。そして、それは日本独自の解釈がされ、以後ずった現在まで持ち続けられている考えです。日本独自の解釈とは何か。それは個人は国家権力に対する怒りを持っており、その個人の集団が市民であり、市民vs国家の対立をベースにしたものが民主主義だというのです。
しかし、その偏りにはみんな気づいていて、それを錦の御旗として掲げ続けるのは、左派政党やリベラル文化人だけでした。
自由と民主主義を守った政府は一度も、マスクを着けろワクチンを射てと強制はしませんでした。しかし、国民は色々なトラブルを抱えながらも忠実に従いました。特にマスクは、一億総マスク状態となりました。屋外でもマスク。北アルプスのど真ん中雲の平でそこを歩く一人の「独り歩き」の出演者がマスクをしている。NHKのテレビには驚き呆れました。

ぼくはワクチンは2回は射ちました。マスクは嫌いなので、持ち歩きましたが、ほとんどしません。デパートなどで注意されてしたことがありました。電車では、満員電車に乗ったことがないので、ほとんどしたことがありませんでした。
そしてずっと疑問でした。一体この一億総マスク現象はなんなんだ。ずっと考え続けてきました。気になりだすとそれが頭から離れなくなる。ぼくの悪い癖です。
最近になって、ようやくその答えが見つかった気がして、ホッとしたところです。その答えは、二つのキーワードです。日本人の持つ基本的な気質によるものです。一つは「忖度」もう一つは「甘え」でした。

忖度(そんたく)とは「相手の気持ちを押しはかること」と辞書にあります。常に相手のことを考えるというのは、日本人の特質です。甘えというのは、自分がちゃんとして居れば、相手は自分を評価してくれるはずだという、ある意味勝手な思い込みです。
この二つは、いずれも日本人の長所とも言えるものです。しかしこれが、こと外交となると問題です。戦後日本国は、特に近隣諸国との外交において、いつも失策を繰り返してきました。その原因はいつも、上の二つにあるといっていいようです。
ともかく、ずっと悩んでいた問題の答えが見つかったので、ようやく熟睡できるようになってホッとしています。

コロナワクチンと自然治癒能

 年が変わったと思ったのが、つい先ごろだったのに、もう2月も終わりに近づいています。
 ほんとに毎日が矢のように過ぎてゆく毎日です。
 昨年秋ごろ定期の検診で、心房細動という症状が見つかり、循環器内科での精密検診を勧められた。特に何の自覚症状もないのだが、不整脈と頻脈が認められるという。頻脈というのは脈拍数が100以上をいう。原因はというと脈動を規制している電気パルスが失調していることによる。年がいってくるとどうしようもなくそうした不調が起こるらしい。
 直す方法は太ももの血管からカテーテルを通して、心房のそうした信号を出してるいる箇所を焼き切るという方法があるらしい。でも成功率は70%ほどらしく、ぼくのような年寄りにはそんな手術を勧める医師はいない。
 医者が必ず勧めるのが、「血液サラサラ薬」で、これによって心房細動や頻脈によって生じる血栓による脳梗塞を予防するのだそうである。しかし血栓を防ぐ副作用として血管が破れた場合なかなか血が止まらないということが起こります。そうなると脳溢血の危険が増すことになると言えます。つまり血栓が詰まる脳梗塞と血管が破れる脳溢血、この二つの裏腹な症状を一緒にして脳卒中というらしいのだが、どっちを取るねんということになる。
 循環器内科の精密検査で症状は確認できたものの「血液サラサラ薬」を処方されただけで、それ以外の方法はないようでした。
 それでぼくはかかりつけの林ドクターの息子の若先生にこの点を訊ねたのです。結局は患者さんの判断でしょうねという答えです。「基本的にぼくは薬は飲まない考えです」というと、「分かりました。薬は出さないことにしましょう」となりました。

 ぼくの場合、頻脈と不整脈は同時に起こるのですが、これが見つかった頃は、だいたい数週間おきに起こり、数日続くというパターンでした。発覚してから毎日起き抜けに血圧を測っていたのです。血圧を測ると同時に脈数も測れるからです。脈拍数が130台になります。
 これが年末に起こりました。
 年が明けても治らず、づっと続いていました。頻脈になると血圧測定器がなぜか測定不能を出すのです。測定不能は頻脈のせいだと思い込んでいた。ところがこれは、電池切れが原因だと分かったのです。全くもってボケた話でした。
 一月半ばに電池を入れ替えてから、脈拍数は70台で極めて安定しています。
 一体これはなんだったんだろう。改めて考えてみたんです。考えてみれば、昨年には、ぼくに大きなストレスをもたらす出来事があったのです。そうだったのだ。原因はあれだったんだ。年が明けて吹っ切れてそれで治ったということか。よかったよかった。そう考えているこの頃なんです。

 それにしてもストレスは恐ろしい。万病の素です。ストレスは、人間が持つ強力な自然治癒能を潰してしまいます。
 話は変わるのですが、これはかなり強力に抑えられている情報のようですが、コロナ・ワクチンの度重なる接種は、この自然治癒能を弱体化させるというのです。その証拠として言われるのが、超過死亡者数です。その数は、関東大震災時の数を上まるのだそうです。
 まあワクチンを2回しか打っていないぼくは大丈夫なようです。
 このコロナ禍は世界にいろいろな影響を及ぼし、同時に隠されていたものをあらわにしました。世界の中で、特に特異な行動を取り、今もとり続けているとも言える日本については、改めて書きたいと思っています。

 

原稿用紙に原稿を書く

 
 昔は、原稿は原稿用紙に書いていました。まだパソコンなどない時代のことです。文房具店には必ず400字詰めの原稿用紙が置いてありました。
 でもぼくが使っていたのは特製の自前のものです。印刷屋さんに作ってもらいました。それは少し変わったものでした。こんなものです。その原稿用紙は、左右の空白と上下の空白がそれぞれ同じ長さになっていました。左下と右上の空白には、「高田直樹専用」の文字があり、右上のものは上下が逆になっていました。

 この原稿用紙では、用紙を一切無駄にすることなく、差し替え切り取り挿入などが出来ました。まだパソコンやワープロのなかった時代にぼくはアナログでコピペーをやっていたことになります。
 この便利なやり方で執筆を続けていたのですが、そのうちにデジタル化が進み、原稿をメール送信できるようになりました。
 しっかりした記憶はないのですが、多分その頃ぼくは、ワープロの原稿用紙モードを使って書いていたと思うので、それをまずプレインテキストに変えて送信していたはずです。
 ワープロソフトは各種ありましたが、ぼくはWindows用のものは使わず、もっぱらマック用のものを使っていました。
 そのうちにファイル送信が普通になってきて、パソコン上で書いたテキストをそのまま送信するのが普通になってくるとともに、ぼくももう原稿用紙モードで執筆するということも無くなってゆきました。

 そんなことなっていた最近、どうしたわけか急に原稿用紙に書き込んでみたくなったのです。とはいっても、それはパソコン上のことです。オンライン上にあげる文章であるならば紙の原稿用紙に書き込むというのはとんでもない二度手間です。
 早速マックのWordで原稿用紙モードを探したのですが、これがないのです。Wordのバージョン11までは在ったらしいのですが、今では無くなったことがわかりました。
原稿モードで書き込む[/caption] 色々探してらしき物を見つけて、やってみてうまくいかない、ということを繰り返した末にようやく見つけたのが、iText Expressというソフトでした。これには原稿用紙モードがあり400字詰めのサンプルも用意されていました。
 ところがこれで一件落着とはならず、プログを書いているWordPressでも縦書きをやってみたくなりました。縦書きのプラグインがあるということなのですが、これもうまくゆかず数日かかってようやくなんとか成功しました。

 タイトルを太字にしたり行間を調整したりというようなことはまだ出来ず、課題を残してはいますが、なんとか完結した気分になって安定したわけです。
 考えてみれば、昔のようにモンブランの太い万年筆を手に、ブルーブラックのインクの香りを感じながら原稿用紙のマス目を一字づつ埋めていくあの感覚を取り戻せたわけでは決してないのです。
 ほとんどの書籍は縦書きであるし、日本語の表現に縦書きは必要であると思われます。日本語を縦書きにするのは一つの文化であるし、英文字が多く混在する文書を除きすべての日本の文章は、縦書きであるべきだと感じています。

うれしい旧友からブログへコメント

先のブログ「訳の分からん一億総マスク現象」のコメント欄に書き込みがあり、それは今津さんからのものでした。彼は大変古い山の友人なのですが、もう20年以上も無沙汰だったのです。
 彼と知り合ったのは、第二次RCCがエべレストを目指していた時で、その頃ぼくは関西の元締めをやっていたので、もう50年ほども前になります。
 結局彼もぼくもエベレストには参加しなかったのですが、それから付き合いが続いていました。付き合いといっても、高岡のヨーコさんと一緒に奥飛騨温泉に時折出かけた際には必ず今津さんのログハウスを訪れることにしていたのです。
【縦書きは下にあります】
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訳が分からん総マスク現象

 第7波とかいうコロナ禍はいまもつづいている、というかそう報道されています。
テレビでは、感染者数が世界一だとか言ってあいも変わらず煽っていますが、他の国はもうPCR検査などやっていないのですから、そうなるのは当然だと思います。
 東京医師会が、外ではマスクをつける必要はないと声明したとか、そんなの当たり前の話で、何を今さらと思いました。
 ひどいのはNHKです。黒部源流の奥の廊下から雲の平を歩く番組で、そこを歩く俳優さんか誰かは、しっかりマスクをしている。北アルプスのど真ん中で、どこから行っても里から2日もかかるという場所で、なんでマスクかいな。アホと違うかと思いました。
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