『スリー・カップス・オブ・ティ』の大嘘

Three Cups of Tea 教え子のトオル君が「Three Cups of Tea 読みましたか。ぜひ読んで下さい」と言って来た。
 早速アマゾンに注文した。英語の原文のものしかないと思っていたのだが、翻訳本の「スリー・カップス・オブ・ティー」があった。<読み始めたら止まらない。全米400万部突破!>と勇ましい文句の帯が付いている。
 
 読み始めて直ぐに、なんとも言えぬ違和感を抱いて、読み進む気が失せてしまった。なにが「読み始めたら止まらない」じゃ。「読み始めて直ぐに放り投げる」ではないか。
 ぼくの抱いた違和感はなんであったのか。この本、どうも嘘くさいのだ。
 ぼくは、1975年と1979年の2回、スカルドからブラルド河を遡ってビアフォー氷河に入っている。1975年はラトックⅡを目指し、1979年はラトックⅠを目指した。いづれもブラルド河最奥の部落アスコーレをでて、左折れしてビアフォー氷河に入る。どちらも7000メートル級の未踏峰だったが、ラトックⅡは失敗、ラトックⅠは成功した。このラトックⅠ峰、この時の初登以来いまに至るまで登ったものはいない。つまり第二登はない。
 
 これらの山は、ビアフォー氷河の途中で一泊するだけで、ラトックⅡやラトックⅠのベースキャンプに着く。ところが、K2に向かうには、左折せず真っすぐにバルトロ氷河を遡ること約8日のキャラバンが必要である。
 この氷河の道は、大きく開けていて、両岸に聳える高峰を眺めながらのキャラバンでバルトロ街道とも呼ばれる。
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エミレイツ機内での出来事

 エミレイツ航空は、一度乗ってみたいヒコーキだった。
 今回、パキスタン行きに際してこのエミレーツを選ぶことにした。
 昔は、もっぱらPIAだったが、そのころのPIAは北京で給油の為に停まり、でも空港に入ることは出来ず、もっぱら機内で時間待ちの長い時間を過ごさねばならなかった。
 つぎには、タイ・エアーに乗ることが多くなった。お酒がふんだんに飲めるタイ・エアは、大いに気に入った。たとえばJALでは、追加のお酒のサーブする乗務員は、開栓した瓶を持って通行するが、気がついた時には通り過ぎていて、おかわりの要求は出来ないことが多い。しかしタイエアーでは、後ろ向きになってゆっくり歩く。大いに気に入り、タイエアばかりになった。
 この場合、行き帰りともバンコックで最低一泊は必要だったけれど、タイでの泊まりは、行きは心の準備帰りは休養とおおいに有効な時間を過ごすことができたのは良かった。
 エミレイツ航空は、ドバイを経由するけれど、待ち時間も適度であるし、出発が夜、到着が日中というのは都合がいい感じである。
 
 ぼくと岩橋は、MKのシャトルバスで関空に向かった。
 空港で1時間ほど待つと、チェックインが始まった。エミレーツの手荷物重量制限は30kgで、他社では20とか22kgとなっている中でこれはありがたい。
 ぼくはいつものコンプレに赤系のタイにボルサリーノの紺のソフト帽といういでたちでチェックイン。こういう格好だと、エマージェンシー・ドアサイドのいい席のリクエストがすんなりと通るようなのだ。
 エマージェンシー・ドアサイドに座る乗客は、緊急の場合脱出の補助を義務づけられるから、かつての一時期は英文を読まされる英語のテストがあったりしたが、いまはそんなものはなくなったようだ。
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守銭奴の国の行く末

 少し前、スティーブ・ジョブスが亡くなって、マッキントッシュのことを書きました。
 それで、むかしコンピュータの雑誌に『パソコンおりおり草』というタイトルでエッセイを連載していたことを思い出し、<高田直樹ウェブサイトににようこそ>にこれを、載せることを思い立ったわけです。
 ふた昔以上も前のコンピュータに関する記事はノスタルジーもあって、興味を持って読んでくださった方も多かったようです。なかには、これは一種の文化遺産ですよなどという人もありました。
 この28回の連載が終わると、調子に乗ってしまった僕は、すぐにつづけて、単行本にならなかった山渓の連載『なんで山登らへんの』アップすることにしたのです。
 
 この15・6年前の『なんで山登らへんの』、けっこう雑な推敲を経ていない駄作だと、その当時は思っていたのですが、今改めて読んでみると、その内容が結構面白いのです。その当時はあまり理解されなかったようなのですが、今になってみると、なにか予言めいたことが多く書いてあったことが分かります。
 このシリーズも今10回まで来ているのですが、この1956年2月号の「守銭奴の国の行く末を担うのは、誰や」という項は、手前勝手的になかなか面白いと思いました。
 なので、ここに転載することにした訳です。
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橋下圧勝?

 先週の土・日、恒例の「北山パーティー」があった。
 これは、もう30数年続いているもので、テント張りのアウトドアで美味しいものを食べ飲んで、夜っぴて語り明かすという会だ。始めの頃は、北山の山菜を食べる会から始まったのだが、直ぐに冬の猪肉・ぼたん鍋が加わって、年二回に拡張した。
 さらに、山菜の採集が難しくなったので、春のメニューがステーキになった。
 ひところは、日本中からの参加があって50人を超えるまとまりのつかないパーティになったこともあったが、最近ではほどんど近しい者ばかりの落ち着いたグルメ会となっている。

 一夜明けた昼の談笑で話題となったのは、大阪ダブル選挙だった。
 その日の夜には結果が分かる。ほとんどが橋下勝利を予想していた。ただひとり、ぼくのザイル仲間で一緒に冬の劔岳G1リッジを初登したスミさんだけは、異を唱えていた。彼は永年大阪府庁に勤務していたからそうした情報が周りから入っていたのだろう。
 「あんなネガティブキャンペーンをやるようでは、ゼッタイ勝てん」と、最初の頃からぼくは唱えていた。橋下は賢いから無視するだろうと。
 しかし、これはTVで見たのだが、「おやじがヤクザぁ。結構毛だらけ」と、街宣車の上で橋下は叫んでいた。大阪人の心をとらえる居直りだった。「ほんでなんやねん」という訳である。
 文化的にひだ深く底が深い関西人にあんな単純なキャンペーンは通用しない。関西と関東ではその文化が異なる。だからだろうが、「仕置き人」シリーズは関東ではぜんぜん受けないそうだ。
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<パソコンおりおり草>のデジタル化

 先頃、スティーブ・ジョブスが亡くなって、マックのことをことを書きました。
 でも、本当に書きたかったのは、ぼくとマックとの長い関わりのこと。そして、そのもっと前のNECのPC-9801のことでした。
 とりあえず、イントロのつもりで「Macを創った人たち」を書きました。
 それで、98やらマックのことを思い返していたら、かつて『Oh! PC』というコンピュータ雑誌に<パソコンおりおり草>と題するエッセイを連載していたことを思い出しました。調べると、それは1991年~1992年のことで、まさにひと昔、いやふた昔まえのことだった。
 これを[高田直樹ウェブサイトへようこそ]に載せておいたら、好きな箇所を取り込めるし、リンクも張れるではないか。そんなことで始めた<パソコンおりおり草>のデジタル化だったのですが、この28回の連載もようやく終了しました。
 
 昔に比べれば、スキャナーもOCRソフトもえらく進歩していて、デジタル化は比較的簡単でした。しかし活字の組み方が、他の普通の雑誌と違って、縦書きではなく横書きの3列組みになっていました。
 大変に改行が多い。この改行を取らないといけないことになります。ひとつの文章に10個も20個もの改行があるわけで、うまい具合に改行コードを取ってくれるエディターはないものかと探しました。
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