パキスタン・ナショナルデー祝賀会へ出席

InvitationCard パキスタン大使からパキスタン・ナショナルデーのレセプションの招待状が届いたので、家内を連れて出席することにした。3月21日の18:30からで、場所はホテルオークラである。
 昨年の4月にもパキスタン大使館での昼食会へのお誘いがあって出席したのが13日、ほとんど日を空けずに今度は、26日に日パ国交樹立60周年記念祝賀会の招待を受けた。
 これらについては、それぞれこの<葉巻のけむり>に書いた。
パキスタン大使館昼食会と大阪のシガーパーティ

 パキスタンという国は、その成立が大変複雑な歴史を持っているといえる。もともとインド亜大陸はイギリスの植民地だった。1858年から1945年の第二次世界大戦の終結までの87年間はイギリス人の総督を基軸とするイギリス領インド帝国の時代だった。
 イギリスはインドの経済的困窮化に伴う不満を懐柔するため、1885年諮問機関としてインド国民会議を設けた。インド国民会議は知識人を主たる構成員とし、インド古来の因習を開明することを目的とする比較的穏健なものであった。しかし、民族資本家の形成によって反英気分が高まりをみせ、インド国民会議派は急進的な民族主義政党へ変貌していった。
 この過程において、大日本帝国の日露戦争の勝利が大きな影響を与えたといえる。
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信州から高岡への旅で考えたこと

先日、山の後輩たちが古希を迎えたとのことで、信州で古希の同期会を開くとの連絡があって、家内ともども参加することにした。
この年代が一年生のときから、ぼくは山岳部の監督を務めていた。彼らが3年生になったとき、婚約中のいまの家内を連れて夏の横尾本谷合宿に参加した。このときに起こった傑作な出来事は、『続なんで山登るねん』の<夏の横尾本谷に迷いこんだとんだオジャマ虫>に書いた。
ちょうど10年前の還暦の同期会も、おなじ信州は飯森の上手舘だった。このスキー民宿の主人の久八さんは、ぼくたちのスキーの先生だったという因縁で、大変長い付き合いなのである。
この集まりには、ぼくをはじめ同期ではない上級生も何人か参加していた。
そのうちの一人の後輩と宴会の後での歓談のうちに議論になった。彼は少し特殊な人生を歩んだともいえる男で、大学での山登りを途中でやめ、医者になって日本を変えることに奔走した。〇核というセクトに属し活躍したのだが、夢かなわず北海道に渡り市民病院の副院長を務め終えた後、関西に戻ってきている。
今では、原発廃止運動に邁進しているという。関電の守衛ともみ合うのが生きがいという感じなのである。
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パキスタン大使館昼食会と大阪のシガーパーティ

前稿で書いた通りパキスタン大使からの昼食会の誘いがあって、東京に赴いた。しかし、翌日には以前より予定されていたシガー・クラブ主催のシガーパーティーが予定されており、東京で一泊して翌日大阪に戻るという日程になった。
パキスタン大使館は以前とは違った新築の建物となっており、大使もスタッフも知らない人ばかりになっていた。
パキスタンのスタッフは、以前は各国大使館が蝟集する広尾界隈に済んでいたが、このビルが出来てからは、その中に住むようになり、それだけで年間1億円の経費削減になったと聞いた。

ナジール・サビール

8時半頃の新幹線で東京に向かい、大使館には11時半に着いた。招かれた18名のゲストは、もうみんな集まっていた。大使のヌール・モハメッド・ジャドマニ氏と副大使のサイード・アリ・アサド・ギラニ氏の挨拶を受け名刺交換。ゲストの中には数名の顔見知りもいて、懐かしく挨拶を交わした。
すぐに全員テーブルに付き昼食会が始まった。大使発声の乾杯と挨拶、メインゲストのナジールのスピーチがあり、その後全員が、自己紹介のスピーチを行った。数名の日本語のものもあったが、ほとんどは英語のスピーチだった。
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ベニスの片隅で蘇る、ずっと昔の気持ち(1996.11.1)

なんで山登らへんの 第19回 1996.11.1
体験的やまイズムのすすめ

 ヨーロッパから帰ってきてすぐ、ぼくはBMWのバイクを買いました。
 オランダのフリーウェイを、レンタルしたBMWのK75RTというバイクで走って、そのすばらしさに心底感動したからです。
 ぼくのZZR1100というカワサキのバイクだと、180キロほどもスピードが出ると、もう大変。激しい風にヘルメットは突き動かされ、必死に首の筋肉をかためるかカウリングの内側に突っ伏さないといけません。スピードメーターを見る余裕もないくらいになります。いくらメーターが320キロまで切ってあるとはいえ、それはほとんど飾りとしか思えません。
 ところが、この古い型のナナハンBMは、180キロを越えても首の周りはまるでそよ風、馬に乗った様な姿勢のまま実に悠然としたドライビングが出来るのでした。
 R1100Rというネイキッド(カウリングのない)BMWに乗ったナオトが、「やっぱりBMはちゃいますなあ」と感心しています。
 ずっと昔に試乗したBMWのバイクはこういう感じではありませんでした。「なんといってもやっぱりバイクは日本製」と勝手に思いこんでいた自分の不明を恥じる思いだったのです。
 その夜のバーベキューの椅子で、
 「日本に帰ったらBMWを買おうと思うんだ」というと、パベルは我が意を得たりという感じで、
 「ぼくは、きっといつか君がBMWのバイクを買うことになると確信していたよ」といいました。
 そばの奥さんが、「おとうさん、お金はどうするの」と尋ね、ぼくは思わず返答に窮したのです。
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エミレイツ機内での出来事

 エミレイツ航空は、一度乗ってみたいヒコーキだった。
 今回、パキスタン行きに際してこのエミレーツを選ぶことにした。
 昔は、もっぱらPIAだったが、そのころのPIAは北京で給油の為に停まり、でも空港に入ることは出来ず、もっぱら機内で時間待ちの長い時間を過ごさねばならなかった。
 つぎには、タイ・エアーに乗ることが多くなった。お酒がふんだんに飲めるタイ・エアは、大いに気に入った。たとえばJALでは、追加のお酒のサーブする乗務員は、開栓した瓶を持って通行するが、気がついた時には通り過ぎていて、おかわりの要求は出来ないことが多い。しかしタイエアーでは、後ろ向きになってゆっくり歩く。大いに気に入り、タイエアばかりになった。
 この場合、行き帰りともバンコックで最低一泊は必要だったけれど、タイでの泊まりは、行きは心の準備帰りは休養とおおいに有効な時間を過ごすことができたのは良かった。
 エミレイツ航空は、ドバイを経由するけれど、待ち時間も適度であるし、出発が夜、到着が日中というのは都合がいい感じである。
 
 ぼくと岩橋は、MKのシャトルバスで関空に向かった。
 空港で1時間ほど待つと、チェックインが始まった。エミレーツの手荷物重量制限は30kgで、他社では20とか22kgとなっている中でこれはありがたい。
 ぼくはいつものコンプレに赤系のタイにボルサリーノの紺のソフト帽といういでたちでチェックイン。こういう格好だと、エマージェンシー・ドアサイドのいい席のリクエストがすんなりと通るようなのだ。
 エマージェンシー・ドアサイドに座る乗客は、緊急の場合脱出の補助を義務づけられるから、かつての一時期は英文を読まされる英語のテストがあったりしたが、いまはそんなものはなくなったようだ。
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チャリティー・シガーパーティに行く

シガーパーティの誘いを受けた。
秋分の日に開かれた東日本震災へのチャリティーシガーパーティである。
主催は、大阪リッツ・カールトンにある「シガークラブ」という葉巻屋さんである。ここは関西一帯のシガーサプライヤーでもある。

誘ってくれたのは、友人のドクターSで、彼は歳若いにもかかわらず数千本のシガーを保有する希有なシガー愛好家なのである。このパーティでは、シガーやその他シガー関連のアイテムのオークションも行われるらしい。
彼も一本数万円もするレアーもののシガーを6本ほどチャリティーとして出品するという。

ほかにこのお店の常連の島根のドクターが、秘蔵している珍しいウィスキーを何本も出す。

これは、バーで飲めばワングラス1万円以上するというような代物らしいが、ここでは千円で提供されるという。

オークションと言えば、ヤフーオークションくらいしか体験のないぼくには、あまり関係ないと思われたし、なにせ一流の貧乏人をもって任じるぼくにはそぐわないとも思われたのだが、レアーもののウィスキーには興味がわいた。

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