アフリカ発祥の人類は弱い集団が周辺に逃げることで地球上に広がった

東京に来て一週間ほどが経ちました。
来た頃は、これはいつものことなのですが、地下鉄に乗っている時なんともいえぬ不安を感じます。
今地震が起こったらどうしよう。とりあえず地上に逃れたとして、どっちに逃げたらよいのか、まったく分からないのです。
でもいつものように、これも一・二日で慣れてしまって、なんとも感じなくなったようです。
何年も来ていなかったので、いろいろ会いたい人があり、旧交を温めているうちに日が過ぎました。

mackinly30今回の上京の主目的は明治大学で行われた「マッキンリーから30年 植村直己を語り継ぐ」という集まりに参加することでした。別に先頃『なんで山登るねん』の文庫本化の話が山渓からあり、赤を入れたゲラ刷りの第一稿を送ったばかりだったので、第二稿を受け取りがてら寄って見るつもりでした。
明治大学には「リバティー・タワー」という23階のビルがあって、上記の会はこの8階で催されました。二百数十人収容のホールで少しの空席もあったから、たぶん150人くらいの参加者だったのではないかと思いました。
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お盆で郷里に戻る

今年も、例年通りお盆(盂蘭盆・うらぼん)の行事などのため、郷里のるり渓に帰って来た。
盂蘭盆というのは、毎年8月15日前後に、日本全国で行われる祖先の霊を祀る行事で、そのため日本中の会社もお盆休みを設けている。
もともとは、神道に基づく行事で、大昔から先祖供養の儀式や神事を行うことになっていたのを、江戸幕府が仏教の檀家制度を作るとともに盂蘭盆の行事を行わせたため、二つが習合したとされている。
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久しぶりに「穩座」へ行く

もう10年以上も昔になろうか。
その時、お昼ご飯を食べながら、『鬼平犯科帳』を見ていた。鬼平が川の袂の料理屋「五鉄」で、密偵たちと「軍鶏鍋」をつついている。
よくあることなのだが、急に軍鶏鍋が食べたくなった。
インター・ネットで探したのだが、軍鶏を売っているところはなかなか見つからなかった。取り寄せ出来るというところは、京都や大津などにあったが、置いているところはなかった。
諦めずに探していると、滋賀県真野のスーパーに置いてあるのを見つけた。大急ぎで家を飛び出し家内と二人京滋バイパスに乗った。
スーパーに着いた時はもう琵琶湖の水面は夕靄に覆われつつあった。
という訳でその夕は、家内と二人軍鶏鍋を楽しんだのだったが、この時お店で聞いたのは、「このお店は後数日でなくなります。だから次からは養鶏場の中の販売所においで下さい」ということだった。

そんな訳で、その養鶏場が町はずれであっても、車でのアクセスが悪くないこともあって、時々訪れるようになった。主人と何となく気が合う感じがしたのだ。

久慈砂鉄「すき焼き鍋」

久慈砂鉄「すき焼き鍋」

七輪は家にもあったから必要なかったが、鍋に凝っていい物を持っているつもりだったが、ここで薦められたのは、久慈砂鉄「すき焼き鍋」だった。片手では微動だにしないくらいの重さがある、凄い物だった。早速買って帰って試したがなかなか素晴らしかったので、すぐ後の大学の山小屋パーティに信州まで持参し、すき焼きを楽しんだ。軍鶏肉、鶏肉を電話で注文し、クール宅急便で届けてもらうこともあった。
ある時、田圃の中の養鶏場販売所の地所内で、建物の建築が始まっていた。これが、主人が言っていたレストランかと思い、「タバコの吸える店にしてくださいね」というと、「いろんな人からそういわれてます」と彼は答えた。
こうして出来たのが「穩座」である。名前の由来は最初の頃聞いたような気もするが覚えていない。調べたら平安時代の大パーティは大饗と呼ばれたが、その後の寛いだ歌舞音曲を楽しむ会が穩座なのだそうで、まあ言ってみれば平安時代の宴会の二次会のことなのだろう。
最近では大人気で、遠方から泊まりがけで来る客も多く、土日は来年まで予約が詰まっているという。
今回は、もな嬢が行きたいと言い出したので、ぼくが予約を取った。
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「父の日」雑記

日曜の夜、一緒に会食しようと息子一家からの誘いを受けた、近くのイタリアンだと家内がいう。
珍しく日曜日に家にいると聞いたからなのだろうかと思った。
子供たちが集まって我が家で会食をすることは時々あっても、外でというのはあまりないことである。
家内に理由を尋ねると、聞かなかったけど「父の日」やからなんと違う、という。
「父の日」は、元はなんだったんだろう。
紀元節が天皇誕生日になり、新嘗祭が勤労感謝の日などと、伝統的な名前は敗戦後言い換えられた。大東亜戦争は、GHQによってアメリカ側の呼称である太平洋戦争と変えられた。日本にとって戦場は決して太平洋でなかった。だから、サンフランシスコ講和条約で独立を回復した時、すべては元に戻すなり、問題があれば言い換えるべきだった。
ずっとずっと昔、まだ二十歳代の頃、カラチの大使館の人たちは、「天皇誕生日」とはいわず「紀元節」と呼んでいた。その時、中東から帰国途中の日綿の商社マンが、ガーデンパーティの芝生の上で「大東亜共栄圏」とか「大東亜戦争」という言葉を話したのが、新鮮に響いたのを記憶している。
最近になって、こうした呼称が大いに気になっているところだった。そういう訳で、「父の日」の元はなんだったんだろうと思った訳だ。
家を出る前に大急ぎで調べたら、これはどうやらアメリカ伝来で、1950年に制定されたということが分かった。
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揚子江屍豚大量投棄の真相、鳴霞さん語る

先きごろ、揚子江に一万数千頭の豚の屍が捨てられていたという、なんともミステリアスの報道がなされたことがあった。一体これはどうしたことなのか。これは、以後ずっと頭の片隅に引っかかっていたことだった。Youtubeの<『地球の癌』中国の急所を衝く>という刺激的なタイトルに目が行き、見てみると鳴霞氏がこのことについて語っていた。それは、4月6日の土曜日、武蔵野公会堂で行われたシンポジウムの収録動画だった。
meika 鳴霞さん、中国のあの豚の情報わかりますか。原因は不明なんですか?と問われた鳴霞氏は、次のように答えた。
 「原因は同じ内部の情報で、今日はここで始めて話します。中国全国豚は6億ぐらい育てていました。中国の村で豚育てる時に、豚の餌の中でヒ素入れます。この毒のヒ素なぜ混ぜるのか。ヒ素混ぜるとね。豚の毛に艶が出てきます。その艶出たら、店とか料理店、その豚注文する時、高い値段で売りますよ」
 去年の8月か6月頃にヒ素を混ぜた飼料を食べた豚は4ヶ月以内に屠殺しないと、内蔵がやられておかしくなる。
 ところが、去年の年末に、習近平が「これから政府のお金で共産党の幹部への饗応を一切禁止」と厳命した。マオタイ酒も売れなくなった。年末年始の忘年会・新年会は一切禁止された。
 豚は4ヶ月経って死ぬ。死んだ時に埋める池がある。その池は満杯になった。どうしようもないから揚子江に捨てた。
 中国のマスコミは投棄豚は6000匹と報道した。しかし実は7万匹だった。
 司会者「10倍すれば大体同じですね」
 「そうですよ。中国人、お金儲かるとき手段選びません。例えば病気の豚、埋めたらまた掘り出して料理するのよ。」
 今回はなぜ河に捨てるのか。不思議です。7万の豚、以前には半分は上海の人は食べました。今回は食べきれないから河に捨てました。
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パキスタン・ナショナルデー祝賀会へ出席

InvitationCard パキスタン大使からパキスタン・ナショナルデーのレセプションの招待状が届いたので、家内を連れて出席することにした。3月21日の18:30からで、場所はホテルオークラである。
 昨年の4月にもパキスタン大使館での昼食会へのお誘いがあって出席したのが13日、ほとんど日を空けずに今度は、26日に日パ国交樹立60周年記念祝賀会の招待を受けた。
 これらについては、それぞれこの<葉巻のけむり>に書いた。
パキスタン大使館昼食会と大阪のシガーパーティ

 パキスタンという国は、その成立が大変複雑な歴史を持っているといえる。もともとインド亜大陸はイギリスの植民地だった。1858年から1945年の第二次世界大戦の終結までの87年間はイギリス人の総督を基軸とするイギリス領インド帝国の時代だった。
 イギリスはインドの経済的困窮化に伴う不満を懐柔するため、1885年諮問機関としてインド国民会議を設けた。インド国民会議は知識人を主たる構成員とし、インド古来の因習を開明することを目的とする比較的穏健なものであった。しかし、民族資本家の形成によって反英気分が高まりをみせ、インド国民会議派は急進的な民族主義政党へ変貌していった。
 この過程において、大日本帝国の日露戦争の勝利が大きな影響を与えたといえる。
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信州から高岡への旅で考えたこと

先日、山の後輩たちが古希を迎えたとのことで、信州で古希の同期会を開くとの連絡があって、家内ともども参加することにした。
この年代が一年生のときから、ぼくは山岳部の監督を務めていた。彼らが3年生になったとき、婚約中のいまの家内を連れて夏の横尾本谷合宿に参加した。このときに起こった傑作な出来事は、『続なんで山登るねん』の<夏の横尾本谷に迷いこんだとんだオジャマ虫>に書いた。
ちょうど10年前の還暦の同期会も、おなじ信州は飯森の上手舘だった。このスキー民宿の主人の久八さんは、ぼくたちのスキーの先生だったという因縁で、大変長い付き合いなのである。
この集まりには、ぼくをはじめ同期ではない上級生も何人か参加していた。
そのうちの一人の後輩と宴会の後での歓談のうちに議論になった。彼は少し特殊な人生を歩んだともいえる男で、大学での山登りを途中でやめ、医者になって日本を変えることに奔走した。〇核というセクトに属し活躍したのだが、夢かなわず北海道に渡り市民病院の副院長を務め終えた後、関西に戻ってきている。
今では、原発廃止運動に邁進しているという。関電の守衛ともみ合うのが生きがいという感じなのである。
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パキスタン大使館昼食会と大阪のシガーパーティ

前稿で書いた通りパキスタン大使からの昼食会の誘いがあって、東京に赴いた。しかし、翌日には以前より予定されていたシガー・クラブ主催のシガーパーティーが予定されており、東京で一泊して翌日大阪に戻るという日程になった。
パキスタン大使館は以前とは違った新築の建物となっており、大使もスタッフも知らない人ばかりになっていた。
パキスタンのスタッフは、以前は各国大使館が蝟集する広尾界隈に済んでいたが、このビルが出来てからは、その中に住むようになり、それだけで年間1億円の経費削減になったと聞いた。

ナジール・サビール

8時半頃の新幹線で東京に向かい、大使館には11時半に着いた。招かれた18名のゲストは、もうみんな集まっていた。大使のヌール・モハメッド・ジャドマニ氏と副大使のサイード・アリ・アサド・ギラニ氏の挨拶を受け名刺交換。ゲストの中には数名の顔見知りもいて、懐かしく挨拶を交わした。
すぐに全員テーブルに付き昼食会が始まった。大使発声の乾杯と挨拶、メインゲストのナジールのスピーチがあり、その後全員が、自己紹介のスピーチを行った。数名の日本語のものもあったが、ほとんどは英語のスピーチだった。
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ベニスの片隅で蘇る、ずっと昔の気持ち(1996.11.1)

なんで山登らへんの 第19回 1996.11.1
体験的やまイズムのすすめ

 ヨーロッパから帰ってきてすぐ、ぼくはBMWのバイクを買いました。
 オランダのフリーウェイを、レンタルしたBMWのK75RTというバイクで走って、そのすばらしさに心底感動したからです。
 ぼくのZZR1100というカワサキのバイクだと、180キロほどもスピードが出ると、もう大変。激しい風にヘルメットは突き動かされ、必死に首の筋肉をかためるかカウリングの内側に突っ伏さないといけません。スピードメーターを見る余裕もないくらいになります。いくらメーターが320キロまで切ってあるとはいえ、それはほとんど飾りとしか思えません。
 ところが、この古い型のナナハンBMは、180キロを越えても首の周りはまるでそよ風、馬に乗った様な姿勢のまま実に悠然としたドライビングが出来るのでした。
 R1100Rというネイキッド(カウリングのない)BMWに乗ったナオトが、「やっぱりBMはちゃいますなあ」と感心しています。
 ずっと昔に試乗したBMWのバイクはこういう感じではありませんでした。「なんといってもやっぱりバイクは日本製」と勝手に思いこんでいた自分の不明を恥じる思いだったのです。
 その夜のバーベキューの椅子で、
 「日本に帰ったらBMWを買おうと思うんだ」というと、パベルは我が意を得たりという感じで、
 「ぼくは、きっといつか君がBMWのバイクを買うことになると確信していたよ」といいました。
 そばの奥さんが、「おとうさん、お金はどうするの」と尋ね、ぼくは思わず返答に窮したのです。
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エミレイツ機内での出来事

 エミレイツ航空は、一度乗ってみたいヒコーキだった。
 今回、パキスタン行きに際してこのエミレーツを選ぶことにした。
 昔は、もっぱらPIAだったが、そのころのPIAは北京で給油の為に停まり、でも空港に入ることは出来ず、もっぱら機内で時間待ちの長い時間を過ごさねばならなかった。
 つぎには、タイ・エアーに乗ることが多くなった。お酒がふんだんに飲めるタイ・エアは、大いに気に入った。たとえばJALでは、追加のお酒のサーブする乗務員は、開栓した瓶を持って通行するが、気がついた時には通り過ぎていて、おかわりの要求は出来ないことが多い。しかしタイエアーでは、後ろ向きになってゆっくり歩く。大いに気に入り、タイエアばかりになった。
 この場合、行き帰りともバンコックで最低一泊は必要だったけれど、タイでの泊まりは、行きは心の準備帰りは休養とおおいに有効な時間を過ごすことができたのは良かった。
 エミレイツ航空は、ドバイを経由するけれど、待ち時間も適度であるし、出発が夜、到着が日中というのは都合がいい感じである。
 
 ぼくと岩橋は、MKのシャトルバスで関空に向かった。
 空港で1時間ほど待つと、チェックインが始まった。エミレーツの手荷物重量制限は30kgで、他社では20とか22kgとなっている中でこれはありがたい。
 ぼくはいつものコンプレに赤系のタイにボルサリーノの紺のソフト帽といういでたちでチェックイン。こういう格好だと、エマージェンシー・ドアサイドのいい席のリクエストがすんなりと通るようなのだ。
 エマージェンシー・ドアサイドに座る乗客は、緊急の場合脱出の補助を義務づけられるから、かつての一時期は英文を読まされる英語のテストがあったりしたが、いまはそんなものはなくなったようだ。
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