東京裁判~欺瞞の歴史~(2)

 アルジェリア人質事件は、たいそう痛ましい結末を迎えました。この事件でも、私たち日本人は、この国がほかの国とは大きく異なっており、大変特殊な国であることに、否応なく気付かされたのではないかと、ぼくには思えます。

 今日の「モーニング・バード」では、ゲストの上智大学の私市正年教授が、次のようなコメントを述べていました。
 「言っておかねばならないことは、日揮にかぎらず、日本のビジネスマンがアルジェリアでどれだけ貢献してきたか、70年代は4000人以上の人々が、アルジェリアに滞在して、まさにアルジェリアの国家建設は、日本人が行ったと言っても過言ではないのです。アルジェリアの人も大変感謝しているんです。」

 これを聞いて、ぼくはインドネシアの独立を助けた日本の帝国陸軍のことを思い出しました。これは前項に紹介したとおり、「日本人は<アジアをアジア人のものに取り戻そう>と、すなわちアジア全体を西洋の植民地主義者から開放しようと、決意していた」という歴史学者レーリンク博士の主張の根拠の一つとなったものです。
 日本軍はインドネシアからオランダを追い払い、インドネシア国旗の掲揚と国家の斉唱を解禁しました(1944年9月)。翌年には、スカルノなどが独立宣言するのを助け、これを承認しました。
 あとに続いた独立戦争には、軍籍を離れた2000人の日本人(軍人と軍属)が最前列に立って戦い、半数の1000人がこの戦いで命を落としました。
 独立戦争は4年間続き、80万人のインドネシア人が殺されたところで、アメリカが間に入って、オランダに植民地放棄の代償として60億ドルを支払うという条件で、独立が承認されたのです。
 そして、もっとすごい条件が付いていました。それは、「アジア解放に殉じた日本」を消し去り、代わりに「残虐な侵略者日本」を残すこと。この2つの条件を、スカルノが呑んだので、独立が承認されたのです。日本を弱体化させようとしたのは、GHQではなく、それはアメリカをはじめとする連合国の国是ともいうべきものだったと言えます。
 こうして、ジャカルタに建てられた独立記念塔には、オランダ人の過酷な植民地支配の記録は一切なく、代わりに、日本軍が資源や労働力を搾取したことが記されることになりました。さらに独立の戦いも対英蘭軍ではなく、対日本軍の戦いに置き換えられているのです。
 かてて加えて、恩知らずにもスカルノは日本に戦時の蛮行の賠償を要求し、日本は国家予算の三分の一に当たる莫大な賠償金を支払うことになりました。
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